【映画】「月の満ち欠け」感想・レビュー・解説

これは良い映画だったなぁ。時系列的にはかなり複雑な物語で、例えば「回想シーンの中に、さらに回想シーンがある」なんて場面もあるぐらい。かなり上手く構成しないとストーリーに置き去りにされそうな話だけど、その辺の処理もとても
上手い。あらゆる時代の、あらゆる物語にストーリーが飛びまくる物語でありながら、観客はきちんと追えると思う。

「生まれ変わり」という物語の根幹となる設定についても、主人公の小山内堅(大泉洋)が、とにかくずっと否定派というか、「俺はそんな話信じない」という立ち位置で物語が展開されていくので、生まれ変わりなんて話を信じない人でも別に違和感なく物語を追っていける。これでもし小山内堅が物語の早い段階で「生まれ変わり」を受け入れる人物だとしたらちょっと話は変わってくるが、「普通には信じられない『生まれ変わり』をどうにか小山内堅に信じさせようとする」という設定になっているので、生まれ変わりに対してどんな感覚を持っている人にも受け入れられやすい物語と言っていいと思う。

さらに、この物語が良いと思う点は、「『生まれ変わり』という設定を仮に無視したとしても、それぞれの人間関係がとても良い」という点にある。小山内堅と梢の夫婦の物語も、その娘である瑠璃と親友ゆいの物語も、あるいはもう1人の瑠璃と三角哲彦の物語も、それぞれ単独でとても良い。そしてそれらが、「もしかしたらあり得るかもしれない『生まれ変わり』という可能性で繋がっている」という構成がとても良いと思う。

また、「生まれ変わり」という設定を描く物語である以上、かなり長い年月を要するストーリーに必然的になるが、それ故に「スマホのない時代の恋愛」を違和感なく組み込めている辺りも良いと思う。スマホがあっても無くても恋愛は描けるが、「スマホが無いからこそ成立する物語」は間違いなくあると思うし、そういう良さもこの物語には含まれている。

役者も、こういう「映画会社が力を入れている、ヒットが期待されている映画」に求められる「役者の人気度」もありつつ、演技の実力も抜群という絶妙なラインナップな感じがあって、色んな点で良く出来ていると感じさせられる映画だった。

さて、ここで僕の「生まれ変わり」に対する基本的な考え方を書いておきたいと思う。

僕は「生まれ変わり」とか「前世」みたいな話は、まったく一切信じない。だが、映画『月の満ち欠け』のような状況が起こってもおかしくはない、とも考えている。というのも、「記憶のバグ」という可能性があるからだ。

人間の記憶のメカニズムは、まだ完全には解明されていないはずだ。そもそも、「人類にとっての未開のフロンティアは、脳・宇宙・深海しかない」とも言われるぐらい「脳」というのはまだまだ謎の対象であるし、その「脳」が司っている「記憶」についても、まだまだ謎めいたことはたくさんあるはずだと思う。だから僕は、「何らかの現象が存在し、その現象によって『誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する』という可能性」は否定できないと思っている。

「そんなことあるはずないだろう」と感じる方は、恐らく、現代科学についてあまり詳しくない人だろう。現代科学の最先端で研究されていることを知れば知るほど、僕らが知っている常識とはかけ離れた世界が広がっていることが分かる。例えば、ここでは詳しく説明しないが、量子力学の世界でよく知られた「二重スリット実験」などは、僕らが当たり前に理解している常識ではまったく捉えられない謎現象である(気になる方はネットで調べてほしい。なかなか難しい話だけど、頑張れば理解できると思う)。

僕は科学が好きで、だからこそ「そんなわけないだろう」と感じるような様々な科学的知見の存在を知っている。だから、「誰かの記憶(の一部)が、別の誰かに移動する」ぐらいのことが起こるとしても、別に不思議だとは思わない。

「記憶が移動する現象」がもし存在するのなら、それに「前世」や「生まれ変わり」と名前をつけるのは自由だ。そういうわけで僕は、「生まれ変わり」は信じないが、「『月の満ち欠け』で描かれるような状況」は全然信じられる。

そして、もし「記憶が移動する現象」が存在するなら、それに「生まれ変わり」なんて名前をつけない方がいいだろうとも思う。何故なら、「生まれ変わり」だとしたら、意識的に再現することは不可能だからだ。もし科学的に「記憶が移動する現象」を解明できるなら、科学的な手法でそれを再現することができるかもしれない。まあ、そういう技術が実用化出来るとして、かなり倫理的な問題があるので難しいだろうが、「誰かの記憶を、そのままAIに移植する」という風にできるなら、可能性は広がるだろう。

なんてことを考えたりする。

内容に入ろうと思います。
東京の大学に進学し、そのまま東京で就職した小山内堅は、今は地元である青森県八戸市の実家に戻っている。高齢の母をヘルパーさんに見てもらいながら、漁港で働いているのだ。

地元に戻ってきた理由は、愛する妻と娘を交通事故で喪ったことにある。高校時代の後輩・梢と東京の大学で再会した小山内は、彼女と交際することになり、その後ジョン・レノンが殺された年に結婚、一人娘である瑠璃が生まれた。「瑠璃」という名前は梢が考えたのだが、梢は「夢の中でこの子が『瑠璃って名前にして』と言ってきた」と話していた。「瑠璃も玻璃も照らせば光るの瑠璃だよ」と。

ある日、高熱を出した瑠璃。病院でも原因が分からなかったが、その後回復。しかし、瑠璃の様子に少し変化があった。それに気づいたのは梢だ。知らない英語の歌を口ずさんでいるし、ジッポのライターの石を交換したりもしたという。さらにその後、まだ小学生だった瑠璃が1人で電車に乗り、高田馬場にあるレコード店まで行ってしまうという事件があった。小山内は瑠璃に、高校を卒業するまでは1人で遠くにはいかないと約束し、それからは瑠璃におかしなことが起こることはなかった。

事故後、失意の内に八戸に戻った小山内を尋ねてきた男がいる。三角哲彦と名乗ったその男は、1980年、ジョン・レノンが殺された年に出会った1人の女性の話を語り始めた。大学生だった三角はレコード店で働いており、雨の日に店先で雨宿りしていた、名前も知らぬ女性に一目惚れしたのだ。連絡先を交換することもなく別れた2人だが、その後偶然に再会、三角は益々彼女に惹かれていくが、瑠璃という名前だと分かったその女性には、何かのっぴきならない事情があるようだった。三角の想いは、なかなか形にならない。

彼は何故そんな話を小山内にしているのか。それは、梢と瑠璃が事故に遭ったのは、2人が自分に会いに来る途中のことだったからだ。瑠璃から連絡をもらったのだという。

小山内は、三角に「君は、何を言いたいんだ?」と問う。三角は答える。「あなたの娘さんは、瑠璃の生まれ変わりなのではないか」と。

とにかくストーリーが良く出来てるなぁ、という感じ。原作は未読だけど、さすが佐藤正午といったところだろう。どこまで原作に忠実なのかは分からないが、とにかく全体的に物語の構成が抜群に上手いなと思う。

冒頭でも書いたけど、とにかく時系列がかなり複雑怪奇な物語で、それなのに全然するっと観れる。物語が結構入れ子構造になってるので、上手く構成しないと迷子になりそうな話なのに、全然そんなことになってないのがとても上手いと思った。

描かれる関係性としては、まずやっぱり三角哲彦(目黒蓮)と正木瑠璃(有村架純)の話が非常に良かった。特に、「有村架純の、何か抱えているんだろうけどそれが何か分からず、そのことが逆に魅力にもなっていて、大学生の三角はそりゃあやられちゃうよねー」という感じが、演技からも絶妙に伝わってきて、凄く良かった。たぶんこの、三角と瑠璃の話だけでも、物語1本分の展開を作れるだろうなってぐらい魅力的な関係性になっている。

そして小山内堅(大泉洋)と梢(柴咲コウ)も良い。大泉洋は、「幸せな家族の時間」と「最愛の家族を喪ってからの時間」のどちらも描かれるわけだが、振れ幅のメチャクチャ大きいその役柄を絶妙に描き出す。さらに、冒頭でも書いた通り、小山内堅が頑なに「生まれ変わり」を信じないことが、どういう価値観を持つ観客でも映画から離れさせないような効果を生んでいるので、それも作品全体としては重要な立ち位置だったと思う。

柴咲コウがまた良い。柴咲コウってなんとなく、クールというか厳しい感じの役柄のことが多い印象があるんだけど、『月の満ち欠け』では超柔らかい感じの役で、そこに柴咲コウが結構ハマってた感じがあるんだよなぁ。梢のその雰囲気は、物語のラストにも関わる部分で結構重要になってくるので、そういう意味でも柴咲コウの雰囲気も見事だったと思う。

あと、やっぱり伊藤沙莉って良いよなぁと思う。物語が始まってしばらくは、伊藤沙莉演じる緑坂ゆいがそこまで重要な存在だと思ってなかったんだけど、結果としては、『月の満ち欠け』という物語におけるある意味での「起点」とも言える人物であり、結構重要だった。伊藤沙莉が絶妙なのは、主役もやれるし、ちゃんと脇役でもハマるということにあると思う。『月の満ち欠け』では決して主役ではないけど、脇役と言えるほどでもない。ただ、どういう立ち位置にも違和感なくハマれる伊藤沙莉が演じているからこそ、「彼女が演じる役柄がどの程度の重要度なのか分からない」という雰囲気になるし、そのことは、物語の展開がどうなっていくのかという関心でストーリーを追う観客にとっては、ある種の「目くらまし」的な効果も生む。結果として「小山内堅 VS 緑坂ゆい」みたいな状況になるため、緑坂ゆいを演じる女優は、大泉洋に対抗できなきゃいけない。それでいて、最初から重要人物に見えない方が面白いし、そういう意味で伊藤沙莉は抜群のハマり役という感じがした。

あと、公式HPには役柄とか設定が書いてあるから伏せる必要はないのだけど、ここでは田中圭がどんな役なのかには触れないでおこう。しかしまあ、田中圭(の役)が酷い酷い。以前観た『哀愁しんでれら』でも似たような感じの立ち位置だったけど、田中圭、こういうヤバい感じの役似合うよなぁ。『月の満ち欠け』を観てると、「田中圭、全部お前やん!!!」ってツッコミたくなるような役回りで、やっぱりこの役も物語を支える上でかなり重要だったりする。いやーしかし、田中圭(の役)は酷かった。

映画は、「些細なエピソードを継ぎ接ぎのように繋ぎ合わせて、そこに『生まれ変わり』という可能性を現出させる」という構成になっているのだが、そういう物語だからこそ、「客観的に残る証拠」みたいなものが結構重要になってくる。「誰々がこんなことを言っていた」とか「あの時にこういうのを見た」という記憶だけではなく、それらを客観的に証明するような様々な要素が多数登場する。そしてその使い方が上手い。絵・ビデオカメラ・写真・テープレコーダーなど様々なツールを組み合わせて、「『生まれ変わり』を示唆する客観的な証拠」を積み上げていく。これもまた、スマホが無い時代だからこそと言えるだろう。今ならほぼスマホで済んでしまうようなことが、様々なツールに分解されていた時代だったからこその趣きみたいなものが映像から滲んでくる感じがあった。

そしてその上でさらに、「客観的ではない証拠」によって観客の心を揺さぶる。「駅前でずっと待ってる」とか「心配させてごめんね」みたいな「誰かの記憶の中にしか存在しない言葉」によって「生まれ変わり」を示唆し、そのことが作中の登場人物の気持ちを動かし揺らし、さらに観客を揺り動かしていく。分かりやすい姑息な手と言えばそう言えるかもしれないけど、僕は上手いなぁと思った。確かに、仮に自分が「誰かの生まれ変わりだ」と思っていて、外から見える自分とは違う誰かの記憶を持っているとしたら、その記憶によって「生まれ変わり」を証明したいと考えるだろうし、だからこそ積極的にそういう言葉を口にしていくと思う。普通の物語であれば「ベタで姑息な手」に映るかもしれない場面が、「生まれ変わり」という要素を組み込むことで逆に自然になると感じたし、とても良かったと思う。

ちなみに、少し前にテレビで見たが、イギリスだかどこだかの女性(A)が、「病院で亡くなった女性(B)の記憶を持っている」ということに気づき、記憶を頼りにその記憶の場所へ行き確かめたという話を紹介していた。番組には記憶に関する研究者も出ており、「非常に驚かされた事例」として紹介していた。女性(A)は、最終的に女性(B)の子どもたちと接点を持つことになり、女性(B)の子どもたちは女性(A)を「母の生まれ変わり」だと信じている、みたいにまとめられていた。母しか知らないはずの記憶を、全然関係ない遠くの地に住む女性が知っているのだから、そう信じたくもなるだろう。現にそういう事例が報告されているのだ。

まあ僕は、それを「生まれ変わり」だとは信じないが、『月の満ち欠け』の物語が決して荒唐無稽なものだとは思わない。

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