【映画】「暴力をめぐる対話」感想・レビュー・解説

フランス、ヤバっ。とんでもない国だな。と思った。

この映画の中心には、フランスで今も継続中(だろう)「黄色いベスト運動」というデモ活動がある。「黄色いベスト運動」については、名前ぐらい聞いたことがあるし、数年前はテレビで結構取り上げられていて、パリの街中で警察と人々が衝突する映像を結構見かけた。

映画では、2018年11月から2020年2月に掛けて、フランス全土で撮影されたデモの映像を観ながら、映像に登場する人物や社会学者、弁護士、警察関係者など様々な人物による「討論」が行われる。討論そのものが映画になっているというわけだ。

ここで議論されるのは、「警察の暴力」である。

映像を見れば分かるが、フランスの警察は市民をなかなか酷い扱いをする。警察側にも言い分はあるようだが、まず映像をシンプルに捉えた場合の一般的だろう印象に触れよう。デモ参加者は基本的に武器を所持していない。デモ参加者の銃の所持は、これまで1件も認められていないそうだ。確かにデモ参加者も、素手で警察を殴るし、集団で襲いかかって威圧している。あるいは、「金持ちの象徴」であるブランド店などを破壊したりもする。それらは決して褒められた行為ではない。しかしそうだとしても、「デモの暴動を鎮圧する」「治安維持」を目的に行われていると主張する警察による暴力は、あまりに過剰に思われる。使用が禁止されているゴム弾によって怪我を負ったり、催涙弾の爆発で手を失ったりする者もいる。映画の最後には、2018年11月から2020年2月の間だけでも、2つの命、5つの手、27個の目が失われたと表記された。

討論に参加する「被害を受けた者」や「低所得者層の人」たちは、「警察はエリートしか守らない」「自分たちは警察権力を講師するための実験場にいる」と訴える。学者も、フランスにおける暴力は過剰さを増しているみたいなことを言っていたし、普通に見て、警察の振る舞いの方がヤバいと思う。

一方、討論に参加している警察側の人間は、決して多くはない「警察がデモ隊に襲われている映像」を見て「これのどこが過剰な暴力なんだ」と主張したり、あるいは、「ネットに上がるのは警察が暴力を振るっている場面ばかりだが、その前後の映像はどうなってるんだ。警察が侮辱されたり、襲われたりしている部分があるだろう」などと言っていた。しかし、後半の「前後の映像云々」の話は、ちょっと的外れだと思う。1つの映像はかなり長回しであり、その前後がたとえ切られていたとしても、かなり長い時間経過を捉えるものが多いからだ。少なくとも僕の感覚で言えば、「どちらにも問題はあるが、より問題が大きいのは警察の方だ」という主張は揺るがないと思う。

さて、マクロン大統領は警察の暴力に対してどのように主張しているのか。彼は、「フランスは法治国家なのだから、警察による暴力など存在しない」と完全否定しているそうだ。しかし、それはなかなか無理がある主張だ。この映画の中で流れるだけでも、かなり膨大な「証拠映像」が存在するからだ。それら個別の映像に対して何かコメントしているのか、それは知らないが、恐らくマクロン大統領など政権側の人間は、「暴徒を抑え込むために必要不可欠な暴力の行使だ」という主張でどうにか通そうとしているのだと思う。

ちなみに、ある人物が言っていたが、フランスは国際的な「民主主義ランキング」みたいなもので、民主主義レベルが格下げされたそうだ。元々「完全な民主主義」だったのが、今は「欠陥のある民主主義」とされているらしい。討論には、国連の人物も登場するのだが、彼は現在のフランスの状況について、「人権の国フランスでここまでやれるなら、自分たちももっとやっちゃってもいいのではないか」と考えるアフリカ諸国が出てくるのではないかと懸念を示していた。

映画の中で行われる討論は、ハンナ・アーレントやマックス・ヴェーバーなどの引用がバンバン出てきたり、「理論的」と感じてしまうようなちょっと難解なやり取りが多かったりと、結構難しかった。僕は映画を見ながらメモを取るのだが、普段なら出来る「字幕の文章を理解しながら、同時にメモする」というのが、この映画では結構困難だった。それぐらい、まず「理解する」という点で躓くぐらい、結構高度なやり取りだったと思う。

その中でも僕が一番納得感を感じた主張は、白髪の高齢女性のものだ。ちなみにこの映画、全体の構成がなかなか挑戦的で、フランスの映画だから「黄色いベスト運動」の説明がないのはまあ当然としても、議論の参加者についても一切紹介がないまま討論が展開される。映画の最後に紹介はあるのだが、討論が行われている最中には、誰がどんな立場の人間なのかよく分からないのだ。とにかく、あらゆる意味で説明が排除され、映画は「デモの映像」と「討論」だけという非常にシンプルな構成になっている。「討論」についても、「今何が討論の議題になっているのか」という説明は一切なく、討論の様子だけが淡々と映し出されていくのだ。全体を理解するという意味では易しいとはいえない構成だが、僕はなかなか面白い趣向だと感じた。

そんなわけでその白髪の高齢女性も誰なのか分からなかったが、最後の紹介では「公法 名誉教授」と表示されていたと思う。で彼女は、大体次のようなことを言っていた。

【民主主義というのは、「社会分裂」を容認する仕組みだ。だから警察は、「多様性の保証」に務めるべきだ】

【意見の相違が存在する状態こそが民主主義なのであり、全員の意見が一致していたとしたら、その民主主義には何か問題がある。何かが自由を侵害しているのです。】

この意見は、討論全体のテーマである「警察による暴力」からちょっと離れているが、しかしそのテーマは必然的に「民主主義とは何か?」という問いも引き連れるのであり、それに対する明確な回答だと言っていいと思う。

日本でもそういう傾向が見られるように思うが、フランスにおける「黄色いベスト運動」に対する政権の反応は、「自分に反対する者はすべて敵」というスタンスである。そして政権は、その「敵」を排除する目的で警察権力を行使している。この構図は動かないだろう。討論の参加者の1人も、「これは政治的な問題なのに、あらゆる対処や声明が非政治的なものに置き換えられている」と批判していた。

民主主義であれば、必ず「自分に反対する者」はいるわけで、それを「敵」とみなすのであれば民主主義は成り立たない。しかし、そのような「民主主義の根底」が、フランスに限らずあらゆる国でひっくり返っているように感じられる。同じ白髪の高齢女性が、「暴動は民主主義の生命線」だとも言っていた。だからこそ、それを公権力によって押さえつけるのは間違いだと思う。

もちろんだが、警察側の人間が言うように「治安維持」は大事だ。それは当然である。しかし、「武器を持たない人間をゴム弾で撃つ」ことが「治安維持」とは思えない。

その辺りのことに関連して、別の人物が興味深い論点を提示していた。それは、

「彼らは暴力的だ」と正当に主張できるのは、一体誰なのか?

である。これは確かに面白い問いである。

警察は「デモ隊が暴力的だから、治安維持のために暴力を行使するしかない」と主張するし、デモ隊は「警察側が暴力的だから、その対抗措置としてこちらも暴力的にならざるを得ないのだ」と言う。どちらも「相手が暴力的だ」と主張しているのである。

では、その主張は、一体どのように「正しい」「間違っている」と判定されるのだろうか? 誰が一体、「○○は暴力的だ」と決める権利を持っているのだろうか? 確かに、この辺りの判断が「感情的」に行われてしまっているからこそ、状況が混沌としているとも言える。

この問いに対して、明確に答えを返せる者はいなかったのだろう。映画の中で、答えらしき発言はなかったと思う。確かになかなか難しい問いだ。「どんな場合においても、警察の暴力だけがすべて合法だ」とすれば権力の横暴となるし、だからといって「暴力的である基準」を示すことも難しい。

マックス・ヴェーバーの言葉だったと思うが、「国家とは、合法的に暴力を保持するものだ」みたいな言葉が討論の冒頭で出てくる。たぶん多くの人が、この主張そのものには賛同していただろう。ただ、だからと言って現在のフランスの警察のスタンスは許容できない、という点が問題なのであり、「合法的に暴力を保持するのが国家である」という大原則に対して、どのような観点を加えれば現状の抑制や改善に繋がるのかということが、理論的に、あるいは現実的に話し合われている。

あともう1つ興味深かった話が、「抑圧」と「予防」の話だ。これは、マクロン大統領がプーチン大統領と会談をする映像に合わせて行われた話である。

フランスでは、デモの権利が認められているからこそ、「起こってしまったデモを抑圧する」という対応が取られる。しかしロシアでは、「デモが起こる前に、予防的に人々を拘束したり逮捕したりする」という手法を取っている。そういう意味でフランスはまだ民主的だと言えるが、これから民主主義のスタンスが、「抑圧」ではなく「予防」に変化していくのではないか、という考えを述べる者がいた。そういう捉え方をするのであれば、フランスはまだマシというわけだが、しかしだからと言って、デモ映像の中で展開される警察の暴力を許容する気にはなれない。

なかなか難しい問題だ。

なかなか難しい問題だが、決してフランスに限るものではなく、「民主主義の根幹」が様々な国で揺らいでいるからこそ、「国家の暴力を私たちはどこまで許容するか」について改めて考えるべきではないかと思う。ある人物は、「私は国家の暴力の被害を被ることを許容する。それは、安全を確保したいからだ。それが社会契約である」と、ルソーの社会契約論の話をしていた。たしかに、国家が独占的に暴力を有することができるのは、国民の安全を担保するためだろう。個人が様々な暴力に対して個別に対処しなくて済むように、国民から暴力を取り上げる代わりに、国民の安全を国家が守るというのが契約のはずだ。その契約の当事者の一方が契約を正しく履行していないのではないかと指摘する人物の話も、なるほどと感じさせられた。

映画の最後には、監督による5分ほどのトーク(録画)も流れた。大規模なデモが50年以上行われていない日本と、デモが日常であるフランスでは、基本的な考え方が大きく異なるだろうが、しかし、先述した通り「あらゆる国で民主主義が後退している」という現実がある中で、この映画の討論は日本の人々にも意味があるのではないか、という話をしつつ、日本人にはあまり馴染みがない「黄色いベスト運動」にも基本情報を説明していた。

正直、討論についていくのはなかなか難しいと感じる箇所もあるが、映像のインパクトはかなりのものだし、SNS時代からこそ生まれた状況であるとも感じる。色々考えさせられる映画だ。


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長江貴士
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