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ボナールの朝


1991年のことだ。湾岸戦争が勃発した。毎日のようにテレビから流される空爆の映像は、1万人以上の死者が出ているようには見えなかった。ゲームを見ているとような錯覚をしていしてしまうほどだった。その後のバグダッドの市内は、破壊し尽くされ、美術館や博物館なども全壊なほど無差別に重要な歴史的な文化さえも藻屑と消えた。一方の敦達は、平穏に暮らしていた。

その年の夏、伊勢丹美術館で「ボナール展」が開催されていた。偶然、時間が空いた淳が、ふらっと立ち寄ったのがボナールだった。特に予備知識もなく、美術館で入場券を買って、するっと入った。ポスト印象派と言われてピエール・ボナール(Pierre Bonnard)は、1947年に亡くなるまで家庭風景など身近な題材を探求した画家だった。猫と女性の作品が多く、「逆光の裸婦」「田舎の食堂」「うたたね」「浴槽に入る薔薇色の裸婦」「化粧」などを見た。「ボナールの作品に描かれた女性は、ほとんどが妻のマリア・ブールサン(通称マルト)をモデルにしているとウイキペディアに載っていた。何だか、親近感がある」と敦は妻の瑠璃子に語った。

「マルトは入浴好きで、ボナールの描く絵も、浴室の情景が多かったそうだ」と展覧会を振り返って、得意げに喋った。その中で、レースのカーテン越しに、描かれた「朝」と言う題名の未完成の絵があった。「衝撃を覚えて作品だった。シュミーズを着始めた女が窓の外を眺めているだけの絵に釘付けになってしまった」と敦は、瑠璃子に物語を語るように喋った。「ベットの上には、カフェオーレとクロワッサンがトレイの上に並べられている。朝の微睡んだ感じと日常のまったりとした時間が描かれていた」と感動を伝えた。日常を綺麗に描くことは、難しい。妻をモデルにしたボナールの感性がそうさせる。虚ろぎ、まどろぎ、気だるさ、まったりなどの心証も描かれている。

パリのオルセー美術館にも立ち寄ったことのある敦と瑠璃子は、19世紀の印象派の画家の作品が多く、親しみ安かったのを覚えている。しかも、開放的で、会場から自由にベランダや外に出られるのも驚いた。もちろん、バナールも展示されていた。「パリの美術館は、フラッシュさえたかなければ、写真が撮り放題なのがいいよね。日本もそうすれば、いいのに」と瑠璃子が苦言を呈した。「日本は、展覧会の本やポストカードを売るために、撮影を禁止しているんだよ。大人の事情があるから厄介だけど。昔は、模写をしている学生もいたらしいよ」

美術館を後にして、サンジェルマンのカフェでカフェオーレを飲みながら、「全く、馬鹿げた話だが、入場料をしこたま取った挙句に、本や絵はがきを売るために、写真好きな日本人に撮影させない悪どい連中に怒りを覚える。えげつなさは、グローバル社会で通用しないはすだ」と怒り心頭の敦に、瑠璃子は、「そのうち、カラクリが暴露れば、買わなくなるよ」と冷静に敦を沈めた。パリ在住の容子から教えて貰った「Une carafe d'eau s'il vous plait.(ウンヌ カラフドー シルブプレ)」と無料の水道水をたのんだ。

 

1998年から2002年までTBS系列で「ここがヘンだよ日本人」というバラエティ番組が放送されたのを敦は覚えている。『番組は国籍もバラバラな外国人100名がスタジオに集結し、ワンテーマで議論をするというものです。テーマは「日本人は平和ボケが過ぎる」「同性愛はアリか?」「少年犯罪」といったテーマから、時事ネタとしてNATO軍によるコソボ空爆の是非といった社会派のテーマも論じられました。』とホームページに載っていた。確かに、外国人が感じる日本でのへんな出来事が多過ぎる。それをダイレクトに指摘しすぎると、当の日本人が引いてしまった。

もっと、日常的なことを扱えば、無理のない内容で、反省するのだろうが、スポンサーとの関係で、本質的な問題を避けたあまり、単なる日本人イジメで終わった感が強い。この番組の発想はいいが、運用面で大失敗だったと敦は思う。

本音と建前の格差が多すぎて、議論にならない日本。「若者たちに期待は大きいが、親世代が出来ないことを子供世代が出来る訳がない。むしろ、長いものに巻かれて、保守的になっている。諦めて、ユーチューブで金を稼いだ方が楽だと誰もが思ってしまった」と敦は、嘆くが、実際は実用的で儲かる方向に向かっている。

美術館で絵画を鑑賞するほど無意味で無駄なことはないと思う。今までのどんな時代よりも心が荒廃してしまった。美術離れ、文学離れ、芸術離れをみんな離れて行く。美術館、博物館もいらないかもしれない時代に、何を指針に生きて行くのだろうかと老婆心ながら心配している敦。

ユーチューブやインスタグラム、ツイッター、フェイスブックに支配された若者の未来が心配だと思う。自己表現方法が、極端に偏っている。デジダル世代に鉛筆や紙は必要ない。タブレットが紙であり、鉛筆であるから。さてさて、次の時代はどうなるのだろうか。むしろ、楽しみだが、美術館も博物館も壊されないよう願うだけだ。ただただ願うのは、ボナールの「朝」をもう一度リアルで観たい。

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