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今日の晩ごはんも残酷な生き死にも全部人生/小説「川っぺりムコリッタ」#読書の秋2022

本当は映画を観るつもりで公開を待っていたのだが、近所の映画館で上映がないことに気づいた。別の機会を待つしかないかと思っていたところ、荻上監督が書いた小説バージョンがあると知った。

(以下、小説の内容を含みます)

個性的な住人たちのいる川べりの古いアパート「ハイツムコリッタ」。そこへ引っ越してきたワケありな主人公――。

映画の公開前からそんな風に話題に上がっていたので、ドラマ『すいか』や小説『れんげ荘』シリーズをイメージして読み始めた。ところが、冒頭からそれは打ち砕かれる。主人公・山田の背負ってきたものが、あまりにもずしりと重く感じられたからだ。

絶望的な子ども時代を経験していた彼の願いは、「誰とも関わらず、自分だけでいい。つつましく、目立たず、ひっそりと過ごしたい」ということ。生きていれば、だいたい誰かと関わって面倒なことに巻き込まれる。山田は、私が想像する以上の、生命を脅かされる面倒なことに巻き込まれて生きてきたのだ。

そう考えると、本を読み進める手が止まってしまった。

それでも、彼が住むことになった「ハイツムコリッタ」を知りたくて、また読み始めた。

鞄ひとつ、ほぼ無一文の山田。小さなイカの塩辛工場で働き口を見つけ、黙々と働き、どうにか給料を手にできるようになる。風呂上がりの牛乳、炊きたてのごはんと勤め先の工場で製造している塩辛。それだけで幸せを噛みしめる。生きがいは何もないが、生きるメドが立った安堵感が伝わってきた。

しかし彼の静かな生活は、隣人の島田によってあっけなく壊される。遠慮を知らない人たらしな島田のペースにのせられて、風呂を貸し、菜園づくりを手伝い、ごはんを一緒に食べるようになる。この島田を映画で演じるのが、ムロツヨシさん。島田を地でいくようなキャスティングである。島田の背景もまた、何かありそうではあったが、山田はそこにほとんど触れることがない。程よい距離を保ちながら、やがて大家の南さんと娘のカヨコ、墓石を売り歩く溝口と息子の洋一など、他の面々とも接するようになる。

友達でもないし、家族でもない。
でも、一緒に食卓を囲む日もある。
人生の落ちこぼれ、貧困、繊細、生きづらさ。
生きる意味を考える余裕などない。
でも、ささやかな幸せを見つけてなんとか乗り切っている。

ハイツムコリッタの人々は、ギリギリのところでそうやって生きている。昨今の疫病で自分もギリギリのところにいるので、それが一番身に沁みた。

ある日、溝口親子の特別な昼ごはんとなったのが「すき焼き」だ。図々しい島田と共に、山田や南さん親子も加わったちゃぶ台の食卓。一段とおいしそうなのは、肉が上等であること以上に、誰かとごはんを食べる幸せが漂うから。映画で溝口を演じるのは吉岡秀隆さん。住人たちが部屋に来てしまい、困り顔になる吉岡さんが目に浮かぶ。そんな溝口が、別の日、ある話をカヨコに語る場面がある。そのとき横で聞いていた山田だけでなく、読み手の私も溝口の背景をなんとなく知ることとなり、ハッとする。彼もギリギリのところで生きてきたのだと思うと、自然と涙が出た。

孤独死した父親のことを知ろうと役所を再び訪れたり、カヨコや洋一の繊細な部分に寄り添ったり。あんなに一人で生きていくと決めていたのに、周囲と関わることで少しずつ変化する山田。彼も彼を取り巻く人々も、島田以外は淡々としたやさしさで相手に関わっていくのが印象的だ。塩辛工場のベテラン従業員・中島さんが、映画では江口のりこさんであることを知り、妙に納得した。

物語の住人それぞれに背負っているものがあるように、現実の世界を生きる自分たちにも背負っているものはある。個人個人、違うけれど。生きていれば、つらいことの方が断然多い。人生投げやりになっても、時間が経てばお腹が空く。だから、ささやかな幸せを見つけて生きていく。「なんだ、そんなことか」と笑われても別にかまわない。生きる術なのだ。それを知っている人は強い。

父親が最期に電話をかけた相手について、山田の解釈が変わるのは役所の堤下の説明からだが、父親にもささやかな幸せがあったんだと思いを馳せる山田に対し、冷えた体にじわじわと温かな飲みものがしみこんでいくような気持ちになった。

川べりの古いアパートに住む彼らから、小さな希望をもらった気がする。



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