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ありのままの自分でいる多幸感/映画『さかなのこ』

いつの頃からか、ハコフグの帽子をかぶった人が、魚のことを熱弁する姿をテレビで見るようになった。

さかなクン。

ギョギョギョーッ。
そう、あのさかなクンだ。

これは、さかなクンの自伝的エッセイ「さかなクンの一魚一会~まいにち夢中な人生!~」を原作として、『南極料理人』『モリのいる場所』の沖田修一監督がメガホンを取った作品である。

上映終了間近になって、ようやく鑑賞できた。

(以下、映画の内容を一部含みます)

一番の魅力は、のんちゃんが主人公・ミー坊を演じていること。29歳の人に”ちゃん”付けするのもどうかと思うけれど、どうしても“能年ちゃん”の名残があって。

彼女がミー坊を演じることにまったく違和感がなく、するりと物語に入り込めた。私から見たのんちゃんは、キラキラが内面から溢れている人。このキャスティングを考えた人に、全信頼を置きたい。

好奇心いっぱいの瞳を魚に向けて、時には海に飛び込んで。そんなシーンに、朝ドラ『あまちゃん』の記憶がよみがえる。「じぇじぇじぇ~っ!」と「ギョギョギョーッ!」って、ちょっと似ていない? いまだに本名を使えないのはなんだかなあと思うけれど、才能をつぶす、つぶされることなく今立っている彼女を見ると、救われた気持ちになる。

そんなのんちゃんに続くのは、周りから「他の子とちょっと違う」と思われているミー坊を応援し続ける母役・井川遥さん。すべてを包み込む揺るぎない愛情は、海と同じで深くて広い。この配役も絶妙ではないか。ちなみにミー坊のごはんは毎日魚。父も兄も右に同じ。ミー坊は、この家族と暮らし、よく遊んでよく学んで、“おさかな博士”への道を夢描く。

同級生や教師たちも、はじめは「変わってる子」と困惑気味。ところが、次第に「お魚さんが大好き!」な気持ちに巻き込まれていく。「変わってる子」は「個性が魅力の子」となるわけだが、周囲の愛情の深さにほろりとさせられながらも、やさしい世界はファンタジーと捉えられかねない。「世間はそんなに甘くない」と、実際ひねくれた私は斜に構えて観ていた。

それは少し羨ましくもあったからだ。子どもの頃に、一生かけて好きでいられるものに出合う確率は、はたしてどれぐらいだろう。そう高くないと思う。もしかすると、奇跡に近いのでは? そんな出合いを幼少期に果たしたミー坊。しかも、背中を押してくれる家族がいる。私は、兄が大事にしていたぬいぐるみを、まだ小学生の彼の目の前で母が燃やしたことがちょっとしたトラウマなので、ミー坊の世界は眩しくてたまらない。

ミー坊の魚好きの熱量に圧倒されていく不良グループの総長も、幼なじみのヒヨも、また家族も(後に驚きの事実が判明するのだが)やさしすぎる。私なら絶対に嫉妬する。

しかし「魚が好きなだけでは生活できない」、もっと具体的に言うと「ただただ魚と一緒にいて、魚のことだけ考えたいのなら、水族館で働くのは無理」という現実問題も、この映画ではしっかり描いている。劇中、小学生のミー坊たちが近所で遭遇する魚好きな人として、さかなクンも登場。まちの人から怪しげな存在と認識されているあたりは、妙にリアルだ。こうしたシーンがあるからこそ、沖田監督が描いたやさしい世界を実感できるのだと思う。

「好き」だけでは、社会で生きていけない。普通の人と同じように、生活費を稼いで誰かと暮らして生きるんだ。一瞬、ミー坊にもそんな気持ちがわき上がる。それだって楽しいんだから。

あれ? でも、そもそも普通って何?

魚への好奇心と愛情を持ち続け、ありのままの自分を貫き通した先の未来。ミー坊は周りの人々と影響を与え合いながら、一歩を踏み出す。

大人になったヒヨの真摯な態度にも涙。ラストでは、これまで以上に生き生きと目を輝かせるミー坊が、のんちゃん自身と重なる部分もあって、私の淀んだ心(笑)がクリアになっていった。

主人公の幼なじみや関わりを持つ人たちとして、柳楽優弥さん、磯村勇斗さん、夏帆さん、岡山天音さんらも出演。のんちゃんと井川さん以外の出演者は知らずに鑑賞したけれど、全員自分好みの役者さんが出てきちゃった。これも何かの縁ってことか。

「こうあるべき」という固定概念や価値観を捨てたら、人はもっと互いを思いやりながら生きていけるのかもしれない。子どもの頃に観たかったなあ、この映画。



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