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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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2020年8月の記事一覧

ざつぼくりん 1 「雑木林Ⅰ」

ざつぼくりん 1 「雑木林Ⅰ」

「雑木林」と書いて「ざつぼくりん」と読ませる。そんな名前の古書専門店が小さな海辺の町の駅前にある。

しかし、町のほとんどのひとはその字をそう読むとは夢にも思わない。店主のカンさんは懇意になったひとだけにこっそりその呼び名を明かす。

「なんでそんな漢字テストの珍回答のような名前にしたんですか」と時生が聞くと、カンさんは毛のない頭をつるりと撫でて、さてね、と真顔で答える。

もう少し懇意にならない

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ざつぼくりん 4 「古い本」

ざつぼくりん 4 「古い本」

絹子と時生が暮らすアパートの窓から欅が見える。そのほっそりとした枝に猛烈な勢いで茂った葉が初夏の日差しを浴びて日に日にその色を濃くしている。

欅の葉擦れの音はどこか爽やかな感じがするなと絹子は思う。その音を聞きながらふたりで本の整理をしているところだ。

時生は本が好きだ。いろんな種類の本を手当たり次第に読む。絵本から小説、専門書、洋書に古書。絹子が道に迷うように、きっと時生は広大な本の森のなか

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ざつぼくりん 3 「銀杏」

ざつぼくりん 3 「銀杏」

絹子はときどき道に迷う。もういい大人なのに迷子になってしまう。

地図を手にしながら行き先までたどり着けない絹子を見て、その迷い方はむしろ才能と言うべきかもしれないと時生は言う。

そんなときの時生の顔は若いくせにちょっと分別くさいなと絹子は思う。そして自分が道に迷うのは、なにかしらひとならぬものに呼ばれてしまうからだとこっそり思ってもいる。

時生が生まれ育った小さな海辺の町でふたりいっしょに住

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ざつぼくりん 2 「雑木林Ⅱ」

ざつぼくりん 2 「雑木林Ⅱ」

この庭がまた野性的だ。ランダムに植えられた植木が野放図に育っている。さながら極小自然園といったふうだ。

この目で見なくても信じられることはある。今は見えないけれど、地の上、地の底、天井や影の中、薄闇にまぎれて生きるものは確かにいる。

彼らはほんとにいじらしいくらい健気に生きている。時折そうとはわからぬように彼らのサインが届く。そんないうにいわれぬとしかいいようのない不思議が漂うこの店もこの庭も

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ざつぼくりん 8 「ひきこみ運河Ⅰ」

ざつぼくりん 8 「ひきこみ運河Ⅰ」

季節が秋へ移ろうかというころ、昼間の熱気が引く時刻になると、ひとびとは運河沿いの遊歩道を散歩する。近所のアパートに住む若い夫婦、時生と絹子も、休日の夕刻には並んでその緩やかにカーブした道を行く。

海から続く運河はその地名から「勝島運河」と呼ばれている。流れのない運河は気温が上がると濁った翡翠色になり、空の色も雲の形も映さない。あたりには磯の匂いが漂い、海が近いのだと教える。

引き潮になると、運

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ざつぼくりん 7 「カンさんⅢ」

ざつぼくりん 7 「カンさんⅢ」

ふっと視線をそらした先の黄ばんだカーテンをカナブンが昇って行くのが目に入った。

メタリックな緑色をした虫はためらうように歩を進め、これからどこへいこうというのだろう。絹子にはわからぬ行き先があるのだろう。

「しかしそれだったら名付けの本はいらないんじゃないですか? おふたりでじっくり考えればいいですよ」

カンさんは何事もなかったような顔つきで首筋を掻き、商売っけのないことを言う。

「でも、

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ざつぼくりん 6 「カンさんⅡ」

ざつぼくりん 6 「カンさんⅡ」

「カンさん、なんか姓名判断のいい本がありますか。由緒正しきって感じのやつ」

「それはまたえらく、気が早いですねえ。おなかはこんなに大きくても、まだ五カ月になったばかりなんでしょう?」

カンさんは絹子のおなかをのぞきこむようにしていう。

「ふたり分だから、今から余裕もって考えといたほうがいいんじゃないかなってこともあるんですけど・・・」
「けど、なんですか?」

「いや、ほんとはね、早く決めと

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ざつぼくりん 5  「カンさんⅠ」

ざつぼくりん 5  「カンさんⅠ」

今日は天気がいいせいか、「雑木林」にはこけおどしのような木札がなく、庭に面するガラス戸もめずらしく全て開いている。

あっけらかんと晴れ渡った夏の終りの空に積乱雲がまだまだ元気そうにポーズを決めており、盛りは過ぎたとはいえ、日差しは厳しい。

廊下の寝椅子でカンさんが文庫本を体の上に開いたまま居眠りをしている。

南部鉄の風鈴が思い出したようにちりんと鳴り、蚊取り線香の煙が漂う。籐のスツールの上に

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