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ざつぼくりん 5  「カンさんⅠ」

今日は天気がいいせいか、「雑木林」にはこけおどしのような木札がなく、庭に面するガラス戸もめずらしく全て開いている。

あっけらかんと晴れ渡った夏の終りの空に積乱雲がまだまだ元気そうにポーズを決めており、盛りは過ぎたとはいえ、日差しは厳しい。

廊下の寝椅子でカンさんが文庫本を体の上に開いたまま居眠りをしている。

南部鉄の風鈴が思い出したようにちりんと鳴り、蚊取り線香の煙が漂う。籐のスツールの上に置かれた丸くてふちの青い大ぶりの金魚鉢で丸々と太った琉金と蘭鋳が泳いでいる。

洗いざらした作務衣の胸が規則正しく上下しているのに、絹子にはそのきれいに剃り上げられたスキンヘッドの寝顔が一瞬デスマスクに見えてしまう。なにやら不吉な思いがすうと肩先を撫でていく。

外の白っぽい光とこの家に染み付いたうす闇がせめぎあってできる影がカンさんの顔をつつんでいるせいだろう。いやいやそんなことはないのだと首を振る。ここにいるのは初老で痩せっぽっちの少しばかり草臥れたカンさんだと思いなおす。

カンさん、こんにちは、という時生の声に、カンさんは遥かな夢から帰還したようなかすんだ声で、おっ、と短く答えてうすく目をあける。しばらくして起き上がり、頭から手の平をすべらして顔を撫でる。そして傍らの絹子に気づいて、いつものようにこまったようなまぶしそうな目になる。

「おや、きょうはおふたりごいっしょですか。よくぞおいでくださいました」
と頭を下げる。

それから、えっ、という感じで絹子のほうにすばやく視線を戻す。

「おおー、しかしまあ、しばらく見ないうちにものすごく大きくなりましたね、絹子さんのおなか。加速度的に・・・天に向かって突き出ている・・・」

礼儀正しいのか、無礼なのかわからない挨拶だ。悪気はない。見たままを口にしているのだから仕方がない。

どうぞ、といわれて絹子が縁側にどっこいしょと腰を下ろす。と、カンさんがいつもの擦り切れた座布団を持ってくる。並んで時生も座る。

昼下がりの日差しに苔むした灯篭のそばに生える松やらアオキやらマキやらが影を落としている。常緑樹たちは枝葉が伸び放題でもどこか紳士然としていて隙がない。その一画だけは遠い日の庭師の意思を感じる。

「カンさん、このおなかがものすごく大きいのには訳があって、実はふたごなの」

えーっ!、とカンさんはまぶしげな目を見開いて驚く。

「驚きました? 今日で丸五カ月です」
幼い頃から剣道を習っていた時生は目上のカンさんには常に丁寧な言葉で話す。 
  
「ああ、それはそれはおめでたい。ふたごですかあ。いやあ、分かちがたい美しいふたつの魂のお話のような、ポルックスとカストルで、つまり一粒で二度美味しいような……」

カンさんはごにょごにょっと語尾を空中に散らせて言葉を終える。こういうとき、カンさんの頭のなかではいっぺんにたくさんの言葉が湧いてでてきてしまい、収拾がつかなくなっているらしい。思いも言葉も過剰になって、カンさんの台詞は余人の追跡を振り切って深い迷路へ入ってしまう。

ふたりは慣れているので深追いはせず、ひょっこりカンさんが戻ってくるのを待つ。

「……あ、どうもどうも……えー、さて、今日はなにかお探しですか?」

カンさんの言葉は誰に対してもいつも変わらず丁寧だ。幼い子供にさえ敬語をつかう。

「うーん、それもありますが、カンさんに会いにきたんですよ」

「ふたごのこと、知らせようと思って何度か来たのよ。でも、カンさん、ここのところ例の地獄めぐりの日が多かったから、大丈夫かなってちょっと心配にもなったし」

「そうでしたか。それは申し訳ないことでした。いやいや、実は、閻魔がこのあたしをえろう気に入りましてな。ずっと離さないものですから、仕方がなかったんですよ」

また頭をつるりと撫でて、大真面目な顔つきでそんなことをいう。いつもの口調に時生は苦笑しつつ、自分も真面目な顔つきでいう。

「そんなウソついたらまた閻魔によばれちまいますよ」
「ふふ、そうかもしれませんね」

 カンさんは基本的には無表情なひとなのだが、たまにミツユビナマケモノのような笑みを浮かべる。

たびたびは見られないその笑顔は穏やかな地熱のように、それとは気づかせずゆっくりひとを暖める。

カンさんの本名は「莞爾」というのかもしれない、そうだったらうれしい、と絹子は思う。


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