013. 意識について(Vol.1)
意識についての本を何冊か読んだので学んだことをまとめて書く。
まず、大前提として意識の定義はバラバラで統一的な定義はなされていない。しかしながら、現在の科学は、意識というものを前提としている。養老さんは、感覚所与と意識は対立していると述べる。
意識の一般的な定義は、「睡眠に落ち、かつ夢を見ることがない場合に消えるもの」であるそうだ。つまり、人生の3分の1は無意識でいるということになる。
また、意識の特殊な点は、自己言及性である。換言すると、意識を持つ観察者である人間が、研究の対象と切り離せないという点である。
意識の基本特性は2つあって、情報の豊富さと情報の統合である。
例えば、「暗い」という感覚(クオリア)は、他の様々な異なる経験(豊富な情報量)から成り立っている。つまり、ある意識の経験というのは、無数の他の可能性を、独特の方法で排除したうえで、成り立っている。言い換えれば、意識は、無数の可能性のレパートリーに支えられている、ということである。
意識についての理論は、統合情報理論が一般的に知られている。統合情報理論によれば、意識は、情報量が最大レベルまで高まったときに発生する。意識の単位はφ(ファイ)を用いる。
情報次元の意識は統合される(エントロピーが減少する)が、物理次元では、エントロピーが増大する。秩序を立てたら無秩序がどこかに引っ越す。「動的平衡」もこの法則に当てはまる重要な概念である。
意識の世界や心の世界に関しては、感情であろうが、理屈であろうが、共通であることを前提にする以外あり得ない。
言葉は意識そのものであり、意識から派生したものである。言葉と同じように、お金や数学も「同じ」を前提にしている。一神教も「同じ」を中心としている。動物の意識には「同じ」というはたらきがほとんどないそうだ。だから動物は絶対音感だと言われている。
小脳は、ニューロンの数でいえば最も大きな神経組織なのに、意識とはほとんど関係がない。一方、視床-皮質系が広範囲の損傷を受けたり摘出されたりすると、意識がなくなる。
意識は、世界で起こっていることよりも遅れてやってくる。いまある知覚は、過去の事物の知覚である。
デカルトとモンテーニュは意識に対して相反する意見を持っていた。デカルトは、心身二元論、モンテーニュは汎心論を主張した。
汎心論の代表的な哲学者は、デーヴィッド・チャーマーズ。
意識がどこにでも見られるということは、結局、意識はどこにも見られないといっているのと同じである。
意識は自分をえこひいきする。自分の唾は、口の中にあるときには汚く思わないが、口から出た途端に汚いと考えるようになる。また、生首が怖いこともその一例と言えるだろう。
現代社会は、情報化社会、換言すると、意識中心社会、脳化社会といえる。
意識の中の私は、時間がたっても変わらないという意味で、「情報としての私」である。
意識の発生条件を脳科学、認知科学は明らかにしようと試みているが、解明されるには膨大な時間がかかるだろう。
これから解明されるのか、されないのかさえも分からない。
こういう類の本は本当に面白い。
以下が参考文献。
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