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雨滴は続くよ、どこまでも。

西村賢太氏の新刊『雨滴は続く』をようやく読了した。

未完の作品ではあるが、ほぼ終わりまで書かれていると思われる。

大変に分厚い本で、氏の作品は基本は短編小説、長くても原稿では二百枚〜三百枚前後の内容なので、今作の千枚というのは異例の長さであろう。
千枚、と聞くと尻込みをしてしまう長さだが、安心してほしい、いつもの西村賢太作品である。

寧ろ、非常に読みやすい部類に入り、西村氏の三十七歳〜三十八歳の頃を書いている。この時期の西村氏は、ちょうど文芸誌に自作が載り始めた頃で、その顛末、つまりは小説家未満の在野の人間がプロ小説家になるまでの話を書いている。そこに、氏が没後弟子を自認する藤澤清造(漢字違いますが)話、さらに彼が岡惚れする二人の女性との恋愛(未満)の話を交えて書いた、濃厚な物語である。

今作では有名な秋恵に振られた主人公の貫多に、二人の女性、1人は藤澤清造の悼む清造忌に取材に来た○○新聞社の七尾支社の新人記者である葛山久子、もう1人は彼がよく使うデリヘルの子持ちシングルマザーの風俗嬢、源氏名おゆうこと川田那緖子である。
この二人を、行ったり来たりする。それはもう、行ったり来たりする。
基本的にはインテリ女性が好きなので、アプローチをかけていたおゆうが満更でもない対応をしてくれても、葛山と出会ってしまったがために、二人を比べてしまい、凄まじい勢いでおゆうを罵倒する(無論、本人のいないところで)。そして、頼まれてもいない清造関連の自分の関わった資料を送りつけ、自作の載った文芸誌などを送りつける。小説家志望らしい葛山に、自分は今プロの世界に入ろうとしている新進作家であることをアピールし、我が物にしようとする。然し、相手から素っ気ない返事ばかりになると勝手に落ち込んで、今度はおゆうに再びアプローチを始める。そして、初めて葛山と話した時に、葛山の口から一寸した異臭が漏れ漂っていることに貫多は初めて気付いて、少し息を詰めた、という文章が登場し、ああ、これは……と思ったら案の定、葛山も罵倒される際にはやたらその口臭のことで悪口を言う。最終的にとんでもない悪口がこの口臭と相まって放たれるが、とりあえずこの罵倒芸が円熟の域に達している。
今作は、今まで以上に罵倒の箍が外れており、読んでいて不快になる人も出てくるくらい、女性への言葉の暴力が半端ない(然し、おかしみもあるのは、貫多の負け惜しみでしかないからかもしれない)。

そして、何よりも今作は小説家小説である。私小説である。

彼が同人誌に自作掲載をしてもらい、そこから文學界(作中では文豪界)の同人誌ベスト5の作品に選ばれて、更に該誌にその作品が転載されて、それを読んだ群像(作中では群青)の編集者から、短編を試しに書いてみませんか、と話を持ちかけられる。そこから、短編小説を書いたり、同じ私小説家の車谷長吉の新刊書評を任されたり、徐々にプロの仕事が増えていく。
短編『一夜』では12万円の原稿料をもらい、長編『どうで死ぬ身の一踊り』では70万円の原稿料をもらい、それで支払いなど済ましたり、風俗に行ったりする。彼が徐々に認められていく様が描かれていく。

今作は抜群に面白い。
そして、面白いのは前提とした上で、気になる点といえば、作者本人も永遠のマンネリが出来ることを自慢していたが、然し、長編ではあまりにもクドい。同じ内容をずっとずっと繰り返しているため、うんざりしてくる。
躁鬱患者の独白、と題しても良いのではないのか、というほどに、アップダウンとそれに伴う罵倒が、繰り返し繰り返し綴られる。長編では流石に水増しを感じてしまう。然し、それもまた師匠藤澤清造の『根津権現裏』同様の繰り返し繰り返し陰鬱な同じ会話を繰り返す代表作の作風を模倣しているのだとしたら、それは見事な企みであると言えるのではないか。

正直、藤澤清造は明らかに西村賢太よりも小説は下手であり、『HUNTER×HUNTER』で例えるのならば、西村賢太氏は幻影旅団にいてもおかしくないほどの筆力だが、藤澤清造は精々がダルツォルネさんみたいなものである。明らかに西村賢太は名実ともに格上になってしまった。

西村賢太氏は20年以上藤澤清造に傾倒しているが、元々は推理小説ファンでミステリー小説などを読みまくり、文学畑には縁がなかったのを、田中英光を読んで私小説に開眼した。寝ても覚めても田中英光田中英光で、田中英光私研究という全8巻の研究本を自費で作成していて、その熱の異様な高まりが感じられる(この辺りは、『本の雑誌6月号』の荒井カオル氏の文章に詳しい)。

然し、それが認められなかったことや、田中英光の遺族にはたらいた狼藉により出禁になってしまい、全ての資料を一括八百万で売りさばき、藤澤清造に縋り付くのである。

『雨滴は続く』を読んでいても思うのだが、どうも西村賢太氏は実際にはやはり田中英光氏が一番好きであり、その本命の女性(いや、男性なのだが)に袖にされて泣く泣く二番手の女(いや、男なのだが)である藤澤清造に縋り付いたようなイメージを抱いてしまう。
まぁ、私は本当の西村賢太氏を知らないし、実際に20年間以上藤澤清造に関して資料を集めまくり、全集の刊行のために奔走していたわけで、無論凄まじい拘りがあるのは間違いはないが、ある種、芥川賞受賞、それ以前にプロ作家として認められたのがまずかったのかもしれない。

本の雑誌6月号の西村賢太特集を読みながら、様々な人の追悼文などを読みながら、西村氏の行動などを読み解いていくと、そのようにも思えてしまうのである。

そして、作中で私が一番爆笑したのは、おゆうに会うために風俗予算が必要になり、様々な不必要な古書を処分し、最早取る術のなくなった彼の下した決断、藤澤清造を売るのである、という下り。
藤澤清造本の中でも重要ではないものを売ろうという判断だが、このあたり、師匠を茶化すかのようなあたりも、どこまでも小説を面白く、何を書けば読者が受けるのかをわかっている感じ。

そして、西村賢太氏はやはりエンターテイメント作家である、ということである。元々『バイトもの』、『秋恵もの』、『藤澤清造もの』の三本柱がメインの、永遠のマンネリ、つまりはパターンでの物語構築が得意な作家である。
彼の文章には苦労はあるが、苦悩はない。さらに明晰に書かれてきれいな原稿だが、美しさはないのである。今まで読んできて、彼の文章の面白さに夢中になっても、美しい表現は一文もないし、感情や思想を刷新されることは一度もなかった。
ただただ面白い小説、それも露悪に徹底しつつも、きちんと制御された、ある種工業製品的な……。そこに彼特有の藤澤清造などが盛り込まれることで、独自性を確立している。
どこまでも計算で出来ている作品である。この辺りが、文学性を保持していて、かつ文章が研ぎ澄まされた領域にいる車谷長吉には及ばないところだが、車谷長吉もインテリで俗物的、非常にポーズの人間だった。つまりは、結句、どちらもインテリの客観性を備えた私小説という衣で上手く自分を隠すことに長けている人物であると言えるのではないだろうか。

そして、長編になると瑕疵として現れるのは、無職のはずであろう貫多が、どうやって生計を立てているのかという疑問である。毎月七尾まで新幹線で行って、寝泊まりしたり(時期によっては部屋も借りて)、滝野川に部屋を借りて、風俗に行き、高額な藤澤清造の資料を買えるのか、誰が読んでも疑問が浮かぶだろう。これは、短編ならば読み飛ばすこともあろうが、物語が長期に渡る此度の物語構成であれば、必然目につくところ。巧みにそれをいなしてはいるが、実際には古書関連の仕事で年収が同世代のサラリーマンよりも多いくらいだったそうで、虚室、とはいうが、その実それなりの部屋に住んでいる。表現だけで、自分の姿を欺き、貫多というキャラクターを造形してしまうが、やはり彼は根がスタイリストにできている男、文章も垢に塗れたようで、実際には非常にスタイリッシュなのである。

今、空前の西村賢太の本の出版ブームである。私は西村賢太氏の作品はおそらくはほぼ8割強は読んでいるが、まだ『蝙蝠か燕か』などの遺作は読めていないので、そのあたりも出版されるだろうし、楽しみである。

まぁ、空前の、といいながらも、実際には売れているのは芥川賞受賞作の『苦役列車』だけで、私としては『苦役列車』よりも面白い作品は山とあるし、この西村賢太、つまりは北町貫多ノベルティック・ユニバース(即ち、KNU)は、蜘蛛の巣のように、一本の糸では騙されたまま解きほぐされないのであるから、是非とも未読の方はたくさんの著作に触れていただきたい。

ちなみに、『本の雑誌』6月号は、結句、西村賢太特集を行っており、藤澤清造全集内容見本が全て掲載されており、非常に濃厚な1冊。

そこでの龜鳴屋の勝井氏の、藤澤清造全集は、西村氏が生きていても、結句出なかっただろうな、という追悼文が、西村氏の全てを描いているようだ。

もう西村賢太氏の作品は読めないが、然し、今までの作品を折に触れて読み返せば、それはそれでもう充分かもしれない。
そして、気になるのは今月の文學界、件の葛山久子からの追悼文があるという。これは是非読んでみたい次第。



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