書店パトロール65 映画と古井由吉、そしてつげ義春
最近、日本映画の若手監督がわからなくなっている。これはもう、完全に老化、であり、私が若手だと思っていた方が中堅になっている。
やはり、時代は前へ前へと進んでいる。それは、こんな本を見つけたので、一層に感じたのである。
映画のシーン、邦画のシーンを追い続けるのは大変なことだ。
やはり、このあたり、感覚が鈍くなる、アンテナの受信が悪くなる。だから、こういう本は助かるのだ。然し、インタビューや記事、こういうのも、山程あって、これら全てを読む時間など、到底は、ない。
結句、選別である。最近は、娯楽が増えすぎて、全てをカバーするのは絶対に不可能だ。だから、あえて、自分の好きなものに一途に打ち込むのがいいような気がする。もはや、ベストセラーなど、滅多に出ない。映画もだ。
100億円の興収を超える映画、最近はアニメーションが多いが、洋画は死んだ。全て、一体感を得る、話題、社会現象、そういうものは活きていて、それに選ばれた作品や人、ものが一斉を風靡するが、然し、それも儚いものである。
映画、と、いうと、私も、今年はあと4、5本は、映画館で観たいものだけれども、お金も時間も有限だ。有限なのに、無駄遣いをしている。どうしてか、その無駄を、肯定してしまっている。
そんなことを考えていると、眼の前に、『タカラヅカ』の文字が飛び込んでくる。
宝塚作品、それも、日本を舞台にした作品で、歴史を学んでみよう、という本だ。うーん、マンダム。私は、どうも宝塚と聞くと、手が伸びてしまう。然し、購入は見合わせる。持ち合わせが少ないのだ。なので、だから、私は、心のメモに、タイトルを刻み込む、然し、すぐに忘れてしまう。私は、脳みそも老化してきている。
そんな私を、パトリック・スチュワートが微笑みながら見詰めている。微笑みの貴公子。
どのパトリック・スチュワートが好き?と聞かれて、私は、やっぱり、
プロフェッサーXだ。私は、昔、『X-メン』か『インビジブル』、ヴァーホーヴェンのやつだが、どちらを観るか悩んだ末、『X-メン』をとり、今思えば、『インビジブル』一択だったのに、何か、あの、ポスターのアートワークが格好良かったので、それにつられて観に行った、そんな中学生の頃、然し、アートワークの本、というものは、常に重樹を、いや、刺激を与えてくれる(重樹だって誰だ)。
広告は、普段から街で眼にする。思い出し給え!『ブレードランナー』、あの広告の地獄を。いや、『ブレードランナー』は可愛いものだった。だって、今は、スマホで凄まじい量のWEB広告が投下されている。欲しくないもの、見たくないもの、それを絨毯爆撃のごとく投下している。そんな中にあって、この本に掲載されている広告は、まだ安心する。
広告は人類史と切り離せないものだろう、広告は人を活かしもするし殺しもする。恐ろしいことだ。で、まぁ、そんな情報の波から脱出し、文芸コーナーに行くと、古井由吉の本が。
古井由吉の文体、私は、古井由吉の本は、『槿』が一番好きで、初読の時に腰を抜かしてそのまま椅子から転げ落ちてころころころころ〜っと道路に飛び出てバーンと車に跳ねられてびゅーんと空をくるくるくるくる〜と回転しながら飛んでいき窓ガラスをバリーンっと割ってガラスが刺さったおでこから血がびゅーびゅー出てそのまま椅子に着席して再び読書を再開した、なんてことがあったが、まぁ、それくらいの衝撃的な文章だった。なんというか、迷路であり、アリアドネーに糸を渡されてそれを頼りに迷宮を出口へと向かって歩いていくと、奥の方に進まされている……そんな文体である。
然し、その恐るべき文体の中に美しさが瞬いており、うーん、日本語の妙味!という感覚。大江健三郎に似ている気がするが、大江健三郎はテーマ性を持っていて思い文章だが、古井由吉はあのタールめいた感じはない。
で、そんな古井由吉大先生の翻訳作品の集成である。まぁ、然し、もちろん買わない。お金がない。
なので、講談社文芸文庫のコーナーで、中上健次の『水の女』を買おうか迷いつつ、然し、もう3年くらい迷っていて結句買わず、中上健次は、いつも迷わせるだけ迷わせて、なかなか財布の紐が緩まない。で、昨年発売された『圓生の録音室』に眼がいく。パラパラと捲る。うーん、いいなぁ。欲しいなぁ、となりつつも、2,100円もしたので手が出ない。然し、これは要チェックで、やはり、こう、落語にまつわる本はいつも気になる。
3度目の文庫化、『圓生百席』の収録の話だ。
で、最終的にはつげ義春のインタビュー本を購入し、パトロールは終了した。『マンガと貧乏』。良いタイトルだ。
シンプルだ。それが一番だ。それに貧乏という言葉に惹かれる。それに、インタビュー本は基本的には積読になりにくいので。