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書店パトロール27 え!漱石の文体で?!

久方ぶりに現代一般文芸の本を買った。まだ読んでいない。
津原泰水の遺作長編となった『夢分けの船』である。

主人公は映画音楽を志す青年、で、現代を舞台に漱石を模した文体で描く、と。そのような本らしい。ああ、楽しみだ。読むのが。

まぁ、私はnoteでも散々書いてきたように、津原泰水が大好きである。

小説家(あくまでも、小説家、としての括りで。文章藝術家と小説家は異なる。)として好きなのは津原泰水、川端康成、谷崎潤一郎、車谷長吉だ。
全員、鬼籍に入っている。一度だけ実際にお会いできたのは津原泰水だけだが、私は今でも文章力では天才的だと思っている。

津原泰水の本では最近では『五色の舟』が宇野亞喜良の絵をつけた新装版で発売されている。

『五色の舟』は傑作である。これは昭和を舞台にした小説で、フリークスの見世物一座が主人公で、主人公は手がない。見世物小屋なので、無論全員がそのような状況だ。
彼らが『くだん』という人の顔をした牛の妖怪、未来を告げるその存在と邂逅する。
これは『少女椿』の如しフリーク残酷世界を耽美に描きつつ、そしてSF的なマインドで読むものは一気に違う宇宙未来へと導く、傑作短編である。
漫画にもなっているので興味がある人は読んでね♡

津原泰水は広島出身で、被爆二世であるから、今作にもそのことが物語に丁寧に織り込まれている。
くだん』という生き物はまるでコンピューターのように、『2001年宇宙の旅』におけるHAL9000、『インターステラー』のTARSのように、明晰な言葉で未来を告げる。まぁ、それは理由があるのだが、発想を昇華させて美しい物語へと帰結させており、やはりとんでもない筆力である。

さて、津原泰水の小説も、もう読み収めである。これは哀しいことだ。
何れは終わりを迎える。

然し、意外にこの作家の本を全部観ました(未発見以外)、という人は少ない。
好きな作家で言うと、私は多分、津原泰水は少女小説時代も含めて8割ほど、川端康成は全集を読み通したが、歯抜けや日記、評論で飛ばしたものが多数あるので、体感的にはこれは7割強、谷崎潤一郎などは代表作は網羅しているが、大正期の作品は取りこぼしが多いので、実際的には5割強ほど、車谷長吉は他3名と比べて作品数も少なく全集は3冊だけ(第4巻が死後刊行される契約らしかったが、これは結句まだ出ていない)で、第3巻の他作家への言及などの取りこぼし、俳句なども全部読み通してないので、まぁ8割ほどは読んでいる。
他には西村賢太とかだと、おそらく同人時代の作品や評論や日記に取りこぼしが多々あるし、多分7割強、馳星周は最近作はあまり読んでいないのでこれも7割強くらいだろうか。
こんな感じで、100%を読んでいる、という作家はなかなかいない。頑張っても90%くらいが限界だろう。

大抵の人は谷崎とか川端とかはよほど好きではない限り、2割読んでいたら十分識っているレベルだろう。つーか、2割読んでいたらめちゃくちゃ好きな方である。

谷崎だと、『春琴抄』、『細雪』、『痴人の愛』、『盲目物語』、『卍』、『少将滋幹の母』、『蓼食う虫』、『蘆刈』、『鍵』、『瘋癲老人日記』、『猫と庄造と二人のをんな』、『刺青』、『悪魔』、『続悪魔』、『秘密』、『人魚の嘆き』、『魔術師』、『金色の死』、『二人の稚児』、『陰翳礼讃』、これくらいで2割くらいだろうか。
川端だと、『雪国』、『伊豆の踊子』、『千羽鶴』、『波千鳥』、『たんぽぽ』、『古都』、『花のワルツ』、『舞姫』、『美しさと哀しみと』、『浅草紅団』、『十六歳の日記』、『少年』、『日も月も』、『虹いくたび』、『眠れる美女』、『禽獣』、『女性開眼』とか、まぁこれくらいで2割だろうか。

今、適当に書いていたが、つまりは2〜3割くらいでもこれくらいはあり、最低限これくらいは読まないと、その作家のことはわからないわけだ。
そして、その作者の代表作といえるのは全体の1割、そこそこ有名なので2割、残りの7割は大抵の読者は識らない、のである。
超有名な一流作家でも、大勢書き連ねてきて、ようやく宝石が姿を現す。玄人好みの装飾もあれども、本を読まない人は川端康成は『伊豆の踊子』と『雪国』だけ、谷崎潤一郎に至っては、識らない、という人もいるのだ。代表作としても『細雪』か『春琴抄』だろう。

然し、上記のような代表作以外にこそ、その作家の本質が立ち現れる時があり、かつ、やはり同一の匂い、性質、そして意識が根底に流れているのである。
だから、同一の作家の同一の作品を読み続けること、漁ることは大切であり、作者の人間性と作品との切っても切れない共犯関係はそれを続けることでつまびらかになるのだ。
川端康成を読む時、そこに伊藤初代を紐付けることは当然であり、それがないと空中分解して表層にとどまる。また、天涯孤独の人生や人間関係、分断での立ち振舞をこそ作品の裏に見なければならない。
川端康成はロリータ・コンプレックスだとそんなことがよく言われているが、ロリータ・コンプレックスというよりも女性蔑視の人である。極めて男性性の強い作家で、それが柔らかい日本語の巧みな使い方で、何か女性の気持ちをわかる作家、的な感じで誤解されているが、ものすごく女性に対して厳しい視線を持っている。
常に聖なる女性、野生の女性、それらを出してきて、人生の苦境に立たせて、そこから醗酵する美を、偉そうなブルジョワ主人公が眺めるのである。セックスに淡白な描写なのは、YASUNARIがキモオタだからである……。
でも、そんな風に彼が形成されたのは、天涯孤独の境遇や、非常事件など、様々なことがあってである。

谷崎潤一郎は足フェチでありマゾヒストである、というのも、実際にはそれに加えてサディストであり、スカトロジストである。特にスカトロジーにまつわるあたりは作品に度々うんこを出し、うんこ知識を披露したりするあたり、大変重要なことである。

※自分の出したうんこに、女優の顔を見る…!

まぁ、つまりは小林秀雄の言う、全集を読め!という教えである。
小林秀雄は私は嫌いで、この人の本を有難がる人とは永久に相容れないと思うが、この全集を読めい!というのは深く同意する。
文学とは人である、というのはよく言われることで、たくさん読めば、その作家の他の顔も見られて、多面的に理解できるのだ。

と、まぁ、完全に何を言いたいのかよくわからない文章。とりあえず、私はこれから『夢分けの船』を読まなければならない。そして、他にも読みたい本がいっぱいあるのだ。
特に今は、あるDVDを15,000円で買うか迷っており、かつ、ある本を15,000円で買うか迷っている。どちらにすべきか……。

ちなみに、この記事にハンターハンターは一切関係ない。









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