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幻想はまず名前から生まれる 虫明亜呂無の本

虫明亜呂無むしあけあろむの『むしろ幻想が明快なのである』が昨年の夏にちくま文庫から刊行された。

虫明亜呂無、は、スポーツ、映画、競馬、などをメインを文章を織りなしてきた作家だが、まぁ、この名前は本名なのである。

アムロ、じゃなかった、アロム、というのは仏語でのArômeが元であり、その意味は香り、である。

その名に恥じない、と書いたが、多くの作家志望の人間が持つ名前は、親からの愛情を抱えてはいても、その実ひどく凡庸だろう。
名前、というものは、本人の意志が介在する余地がない。親からの名前、或いは、名付け親からの名前をコントロールすることは本人には絶対に出来ないことの一つであるが、けれども、嘆くことはない。作家にはペンネーム、というものがあるだろう。

筆名、これは身分を隠すためのものにも成り得るが、それ以上に、自分の作品の性質を表す共通言語として人々に刻まれる、最初の詩である。
様々なペンネームが存在するが、それらは常に、自分の書くもの、自分の表明するものと地続きであり、同義である。だからこそ、人はペンネームをつけるとき、投げやりだろうが、真摯だろうが、心の奥底では、自分に相応しい筆名を選ぶものなのだ。

虫明亜呂無の文章は端正であり、その香りという名前と同様、文化の香りが漂うような文章を書く。

今巻に収められている『ベルサイユのばら』論においても、そこから女性とは何か、男性の想起する女性と、現実の女性との差異、少女がどうやって女性性を獲得していくのか、それを語っている。映画に関してもそうだ。『タクシードライバー』におけるジョディ・フォスター演じるアイリス、『がんばれ!ベアーズ』におけるテイタム・オニール演じるアマンダ、この二人の少女からの女性への変遷を抽出して、そこに眠る演出の妙、女を描くことに関して巧みに筆を走らせる。そうして、その批評はそのまま御自身のお好きな馬の話へと連なっていくー。

エッセイの中に、『女の足指と電話機』という作品がある。女の趾と電話機!この組み合わせはまるでデビッド・リンチの映画を彷彿とさせる、或いは、ロートレアモンの『マルドロールの歌』における、《解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》、と言えるような、不思議な余韻の言葉の組み合わせである。いや、無論、ロートレアモンはより意味が不明ではあるが、然し、虫明亜呂無は知性的なエロスを感じさせる。

ちなみに、このエッセイの表紙、かっちょいい写真の映画はリタ・ヘイワース主演、オーソン・ウェルズ監督の『上海から来た女』である。

オーソン・ウェルズ、と、いえば、歌人の春日井建は、親友の荒川晃に、幅80センチ、高さ1メートルのオーソン・ウェルズのモノクロポスターをプレゼントして、「これから君は、髭むくのオーソン・ウェルズに見張られて仕事するんだ。怠けられなくていいじゃないか。」と、言ったエピソードがある。私の好きなエピソードである。

ロートレアモン、といえば、そう、マルドロールの歌だが、まぁ、この人は、死んだ後に発見された作家で、詩人、というものは、やはり、夭逝薄命であることが、その作品に意義を持たせるのかもしれない。
死んだ後に発見される、それは全ての藝術家が最後に託す夢であり、ヴィンセント・ファン・ゴッホ、宮沢賢治を筆頭に、天才の代名詞だ。この無名の作家も24歳で亡くなり、死後にウルトラブレイクした。

ロートレアモン男爵、もまたペンネームであり、本名はイジドール・デュカス。デュカスは、『ラトレオーモン』なる作品を元に自分の筆名を考えたが、誤植でロートレアモンになったのだそうだ。
誤植でそんなことになるとは、どこまでも悲しい話だが、然し、誤植を馬鹿にしてはいけない。テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』だって、虫の侵入で起きた誤植でタトルがバトルになり、物語が動き出すのであるから。

然しアロムは本名である。そして香る名前である。

前述したちくま文庫のエッセイ群でも出色の出来は『朽ちぬ冠―長距離走者円谷幸吉の短い生涯』だろう。それほど長い文章ではないが、彼の祖父の時代からの物語が描かれているが、円谷幸吉は遺書でも有名だ。この文章の美しさに、川端康成と三島由紀夫のいつものコンビが、心を打たれている。

然し、虫明亜呂無は仕事で実際に幸吉に会って、彼を撮影している。その彼が幸吉の印象を語る前半部、そこには死の匂いが纏わりついていて(意図的ではないが)、より最後に引用される遺書が悲痛なものに感じられる。

遺書が美しい、というのは、川端や三島の馬鹿げた戯言であって、それは、本人が美しいのだったと、文章全体で書く虫明亜呂無に全く及んでいない、凡百の感想でしかないだろう。
川端に至っては、この遺書そのものが、川端の求める文章表現の究極系に図らずもなっていることに衝撃を覚えたのではあるまいか。
まぁ、いつもこうやって、大好きなYASUNARIをディスるのはもうやめよう。私はYASUNARIが大好きなのだからー……。

と、何故か、YASUNARIの話に自然に移ろってしまったが、何れにせよ、どちらもまた、幻想の担い手である。

そういえば、全然関係ないのだが、今日ラジオで『セッション』の話をしていて、まぁ、デミアン・チャゼルなのだが、その話から、最後に、出演している武部好伸氏が映画本を新しく出すので、買ってね!的な宣伝になったのだが、カクテルとシネマ、というテーマで描かれており、なんか、私下戸なのに、でも、カクテルが飲みたい、そんなフライデーナイト。


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