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小説家の誕生と死亡 久坂葉子

小説家志望の方は巷に溢れている。

恐らくは、日々したくない仕事で糊口をしのぎ、空いた時間で作品を綴っているのであろう。そうして、出来た作品を一縷の望みをかけて、文学賞に応募し、落選しては落胆する。
まぁ、あれは宝くじみたいなものなので、2000人くらい応募する文学賞で受賞するのは稀だと思って期待しないほうがいい。

とにかく、文学に生きる決心、藝術に生きる決心をした人には艱難辛苦が待ち受けているが、それは昔から変わらない。

久坂葉子は21歳で自殺した作家だが、彼女は10代で芥川賞の候補になっている。戦後の辛い時代の話である。

ヘビースモーカーな神戸の女。ゴールデンバットを愛煙していたらしい。

彼女の、青空文庫で読める作品に、『久坂葉子の誕生と死亡』という、身も蓋もないタイトルの自伝的な短編があるが、これは共感を得る方が前述の小説家志望の方には多いと思われるので紹介したい。

久坂葉子は神戸の資産家の家系であり、神戸川崎財閥のご令嬢の、完全なる高貴な人である。本名は川崎澄子。
久坂葉子は筆名であり、彼女が18歳の時に生まれた藝術家としての自分、の御名前である。
彼女は家族からは小説家になること、小説を書くことなど到底無理だと反対されながらも、生来の勝ち気な面で親と喧嘩して、書きまくったという。
19歳の時に『ドミノのお告げ』で芥川賞候補になるが、彼女自身が言うように、勉強不足の、書き始めてまだ日の浅い時の作品であり、これが候補になることに驚いたという。彼女が、他の文学者志望の女性よりも遥かに恵まれた環境にいたこともあるだろうが、天賦の才もあったのだろう。

彼女は、久坂葉子として小説を書きながらも、ご多分に漏れず他の仕事で生活の糧を得ていた。
クラブ化粧品の嘱託社員として月6,000円で雇われていて、その時のことをこう書いている。

私は、クラブ化粧品の広告部に、月六千円で嘱託にやとわれた。そしてすぐ、NJBへ月七千円で嘱託にやとわれた。私は、ガタガタした生活をはじめた。前者の仕事は、嘘をいかにうまくほんとらしく思われるかということで、化粧品を片っぱしから讃美し、その化粧をほどこしたら、あなたは、クレオパトラのようになれるんだ、ということを、簡単な文句でかくのだ。

『久坂葉子の誕生と死亡』

これは、現代の編プロなどで働いている人には共感できるだろう。

広告や雑誌などの文章は、所謂クライアントがいるわけで、そこに文学的要素を持ち込むことは多少なりは可能だが、そこに喜びを見出すのは根っからの藝術家には難しいものだ。仕事と割り切らなければ、馬鹿馬鹿しくなる。
そうして、広告や雑誌や基本的には大衆向けで、またニッチなものでもターゲットがいるわけで、そこに届けるために自分を殺す必要性がある。文章の黒子にならなければならない。顔は出さなくていい。声も。

また、

後者の仕事は、はじめ、保険の外交員のようなことをしていた。放送をおたのみしますと、デザイナーや美容師にたのむのだ。彼女等はとびきり上等の服をきこんでいたが、とびきり下等な人間共であった。

『久坂葉子の誕生と死亡』

このように、とんでもない罵詈雑言がたまさか飛び出るのが彼女の文章の魅力かもしれない。然し、まぁ、大抵の虚飾に生きる人間とは、下等なものである。俗物は、金持ちは、基本的には聖とは異なっていく。何故ならば、人間界の天上に上がるためには人間性を捨てなければ果たせぬことが多いわけだから。これが、真の意味での聖となるためには、反対にどこまでも降りていく必要性があるが、これは相当に難しいことだ。

有名な小説の朗読用脚色である。女の一生を女の半生にしてしまい、ルージンをきき物に化けさせる。最も最初にもらった仕事は、源氏物語を十五分で語らせるという、冒険ものであった。女性教養文庫の朗読は、放送以来半年位、私の仕事である。明日迄とか明後日迄とか注文され、自宅へ帰って徹夜仕事で、十五分ずつに区ぎり、明日のおたのしみをつくるのである。私の小説は、どうぞ、こんな目に会いませんようにと思ったものだ。その他、子供の童話劇を数本つくった。人のものをアレンジすることを嫌う私は、すべてオリージナルでやった。演出もした。ラジオとは、あきれたものだとアイソがつきた。私の才能は、ラジオ向に出来ていなかったので、暫くすると、童話劇など久坂は出来ないんだ、というレッテルがはられたらしい。私も、嫌で仕方がなかった。何度もやめようと思った。第一の原因は、ますます小説がかけなくなったからである。

『久坂葉子の誕生と死亡』

彼女は、このようにしたくもない仕事を、自分の才能に親しいものでものしていくわけだが、そこに諦観が生まれて、厭世的な気持ちが膨らんでいく。
彼女のはその後、自殺未遂をしたり、そのせいで病気になって、そしてまた執筆を重ねて、頑張るわけだが、然しだんだんだと、その心の闇が重く重く伸し掛かっていく。
彼女は、かなりの速筆タイプで、作品はすんなり出来たというが、なかなかの苦しみの果に書いた作品が全く評価されず、それが無駄骨だと悟った時、ついに、久坂葉子の葬式を上げることにするのである。
この、半自伝的な作品の終わり、久坂葉子という存在への葬式のシーンは大変に叙情的で品がある。

かつて、書きかけの原稿をまるめてしまうという経験のない私であったのだ。それなのに書けない。何故苦しんでまで、原稿用紙に字をうずめねばならないのか、と頭の方で手に疑問をもちかけるのだ。それが五日つづいた。私は、決心した。久坂葉子を葬ろう。私は、小さな白木の箱をつくり、白布で掩い、勿論その中は久坂葉子の名前のあるすべての紙片をつめこむのだ。そして、焼こう。線香をたてよう。ブラームスの四番をかけて、もう二度と蘇生させないようにしよう、と決心したのだ。三年半の久坂葉子の生命であった。久坂葉子の存在のおかげで得をしたのは、映画好きの私が、試写会の招待券なるものを頂戴したにすぎない。多くの知人を得たことは、得であったようで、あまり結果的にみてよかったことはない。私は久坂葉子の死亡通知をこしらえ、その次に葬式をするのだ。弔文をよもう。
 お前は、ほんとに馬鹿な奴だ、と。

『久坂葉子の誕生と死亡』

この作品の二ヶ月後の大晦日、彼女は電車への飛び込み自殺で、その生涯を終える。21年の儚い命である。

人には、どうしようもならない感情が存在する。それは、藝術だけではなく、生活、恋愛など、健康など、様々な要素が絡み合う。然し、大抵は折り合いをつけて生きていくわけで、私なんかは小説は死ぬまで書けるし、極端な話、10人くらいが読んでくれたら大変に嬉しいのだが、そうはならない人がいる。

だから、本来的に私は藝術の才能、小説の才能はないし、繊細な、どこまでもガラスめいた魂の持ち主こそが、小説の才能があるのだろう。
だが、そのような才能は、極めて薄命なことが多い。

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