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文学における美神とは

私の好きな小説家の作品は、同性愛に関しての記述が多い。

それは、同性愛というマイノリティに関しての事実がマジョリティの本質にまつわる事柄に結びついていることが多いからだろう。多くの人はそれから目を反らしているし、自分をマジョリティだと思いこんでいる。

評論する上で、同性愛・男色、というものを避けて通れない作家は多く、一番代表的な所で言えば三島由紀夫であろうし(この辺りを完全に避けている評論家はどうしたいのだ?)、塚本邦雄もそれに相当する。

非常にデリケートな問題であり、そのような描写を嫌う方も多いだろうし、本人のセクシャリティとは何ら関係はないが、作品内に取り入れる人もいるため、憶測で語られることも多い世界だ。

私の好きな小説家の故・津原泰水さんは、傑作『バレエ・メカニック』の冒頭に、主人公の造形作家と男娼の少年とのフェラチオシーンを入れているが、その少年の男性器を充血した葉巻型と表現している。この少年がイケメンではないところが味噌である。彼がしゃぶられて、そこにモーツァルトの曲が流れ出して、造形作家が気を取られて顔を外すと、自分の精液ものが顔面にかかるというオチである。

また、『ペニス』(すごいタイトルだな……。)では、主人公の井の頭恩賜公園の管理人は鳩を殺した可愛くない顔立ちの少年の死体を管理人室に隠し、それ専用の冷蔵庫を搬入する。彼は、後半、絡まれた相手にしたたかに殴られて、最終的に大きな石飛礫を肛門に入れられるというアナルセックスを体験するのだが(このシーンは本当に痛そうである……。)、今作はチャイコフスキーが通奏低音として存在している。チャイコフスキーは同性愛者だと言われている。(くるみ割り人形、である)

『ペニス』のような作品を、と言われたので『バレエ・メカニック』が誕生したので、この2作は精神的同胞はらからであり、姉妹であり兄弟である。
どちらも、異性間同士の結びつきにしたのならば、それは通俗ポルノグラフィに陥る。無論、本当の同性間の恋愛とは異なる描写だ。第一、BL自体が妄想と性欲消費の代替の産物であり、絵空事である。これらの小説も同じであるが、然し、同じ作りごとでも異性間と同性間では生み出される情緒、情念、本質への目線が異なることは確かである。

塚本邦雄は男色的な小説を多く残している。また、男色の短歌は山程ある。私はその全てを勿論識らないし、小説作品は語彙力が凄まじいので、ご、ごめんなしゃない、つかもとしぇんしぇ……意味分かんない……となることしきりなのだが、そこで描かれる描写は精彩で(正直意味分かんないことも多いのだが)、美しい文体、彫金されたような文体である。


短歌でも、まぁ先程書いたチャイコフスキーの同性愛とくるみ割り人形をかけたりとか、そんなのはないと思うが、そういう洒落たことをしている。そして、その詩情は大変に豊かである。

私は、日本の作家では谷崎潤一郎と川端康成などが好きだが、この二人は少しだけ男色の内容を描いたこともあるが、やはりそこには女性、というものは通底していて、女性の掌の上で悶え遊ぶことを楽しみながら、女性というものを欲望の対象として消費する、ごくごく普通のことしか書いていないように思える。
母恋は谷崎の小説のテーマの一つで、川端康成も同様に母恋を『住吉』四部作で書いている。女系型の作家である。
どちらも、その作品を追いかけていけば、そこには必ず女性が存在し、それは取り除かれることは決して出来ない、ある種の思想と化している。


通俗・大衆小説には必ず女性を出せ、恋愛を書け、売れるには女性を主体におけ、というのは鉄則である。
あの名探偵コナンですら、『サスペンス・アクション・ちょっとのラブコメ』という『時計じかけの摩天楼』の頃からのお約束を守り続けているのだ。

谷崎、川端も両者も女性を常に主体にしている。谷崎は美神としての藝術の神を妻君や美しい女において、それを具象化する作品を書き続けてきたし、川端康成は初恋の聖少女である伊藤初代への未練・トラウマ・思慕を何度も何度も繰り返し出会う少女たちと混合させて美神を紡いできた。
『雪国』の葉子と駒子の二人は、駒子はモデルがいるが、これもまた分裂した初代だろう。聖性としての初代、俗物性としての初代、その混成。まぁ、綾波とアスカみたいなものである(違うか)。

文学における美神は、男性か、女性か、それとも両性具有者アンドロギュノスか。美神は多く女性が祀られることが多い。女性の歓びは男性の敗北であると、私は読んだことがあるが、同様に、男性の尊厳を守るために女性が貶められているのも事実であり、互いは相容れない。根深い断絶がある。だからその崖を越えたいわけなのだろうが。

車谷長吉などは、完全に女を美神に置くタイプではあるが、然し、実は美神ではなく邪神であることが多い。ファム・ファタルうんめいのおんなである。

私個人としてはやはりそこは私のテーマである両性具有、その次に男性、最後に女性である。
然し、結局は書き手が誰を置くかで、性別を超える美が立ち上がる。
女性が書く美神として男性、男性が書く美神としての女性、それらが薄っぺらいのは異性間の恋愛と同義である。







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