見出し画像

本に3,000円も出すなんて馬鹿げている。書店パトロール④

書店には1時間は滞在したいところである。
なにせ、気になる本は無数にあるのだから。
けれども、毎回10分、15分しか許されない。コスパタイパだと叫ばれるこの時代、私は読書パトロールすらそのようになっている。
由々しき事態である。

まずは映画コーナーを巡る。映画の本、文学の本、美術の本、これらの棚はオアシスであり、美の源泉であるのだが、人がいない。
しょうもない啓発本を読んでいる人間はそれこそ逆タイパであり、もう少し文化系、カルチャー系を読んでほしいものである。自己啓発本にまともなものはない、基本的には。特に、こういう類で帯の惹句で売上を語り始めたら、それはもう終わりである。うーん、勉強になったぞ、気づき気づき。勝手に気付いてろ。

さて、映画コーナーには、まさかの『世界でいちばん殺された男 ダニー・トレホ自伝』が。大泉黒石の『俺の自叙伝』どうよう、まさかのトレホ自伝。ダニー・トレホといえば、有名なのは主演作の『マチェーテ』だろうが、私的には『ヒート』が好きだ。まぁ、トレホはどの映画に出ようともトレホであり、そこに魔空間が現出するため、映画は何だっていいのかもしれない。値段はなんと3,960円だ。トレホの自伝を買う人間なんて、世の中には2000人にも届かないだろう。
大抵は仕事で買う人間、真のトレホファンは200人くらいしかいないとみた。
そして、安定の柳下毅一郎氏の監修。

そして、タランティーノの小説デビュー作が軒を連ねる。

タランティーノの小説。クエンティン・タランティーノといえば、脚本の神である。なぜ、あのように素晴らしい脚本を書くのか。『パルプ・フィクション』の脚本、あれを超える映画脚本は存在しないのではないか?いや、まぁ、存在するのだろうが、然し、クエンティンは、映画として物語ることが天才的であり、汎ゆるパイオニアであって、編集者であり、芸術家である。そしてバカ。最高の存在だ。
やはり然し、私はあくまでも『デス・プルーフ』までのクエンティンが好きであり、近作は初期の三部作には到底及ばないと思っている。無論、それでもかなりの高クオリティだが、あの、観ただけで心を鷲掴みにするサムシングが、やはり初期のクエンティンには溢れている。あのLAには訪れたいだろう?ロケ地のダイナーでウダウダしたいだろう?私はしたい。
で、クエンティンの小説だが、分厚い。しかも、3,025円という超ウルトラに高い価格だ。トレホとクエンティンだけで、7,000円弱である。そんな金は当然ない。ない袖は振れない。なので、装丁と、少しの文章だけを楽しみ、いつしか邂逅する日を夢見てリリースする。
ところで、なんだなんだ、タランティーノって言えよ、クエンティンとか呼ぶな、と思うかもしれないが、クエンティンと言ったほうが通っぽいだろう?
そして、何よりも、俳優は名前で呼ばれて、監督は名字で呼ばれる。この不文律において、クエンティンは俳優もしているからしょうがないのだ。

で、美術コーナーには『絵金 闇を照らす稀才』なる美術書が。2,860円。これで10000円に到達した。

で、この絵金というのは、以前もnoteで書いたのだが、先週まであべのハルカス美術館で『絵金展』を開催していて、その流れでの出版の本だと思うのだが、オドロオドロシイ、血みどろの絵が大量に描かれていて、まぁ、酷くチャーミングだ。

私はこの画集が欲しかった。機会があれば、土佐にまで足を運んで観たいくらいであるが、まぁ、人生、そんなお金もなければワガママも赦される筈もなし、こうしてインターネッツの画像を観てしんみり過ごすしか方策はないのである。

で、その棚に1冊、美しい画集を見つけたのだった。
それは、石黒亜矢子さんの作品集其の弐であり、猫又的な、妖怪や地獄をウルトラにキュートく描いたものである。ええ、可愛い。私は本を手に取り、うっとりと、そしてパラパラと眺めた。


この、パラパラと本を捲る時に漂うインクと紙の混成の匂い、これは私には魔薬であり、幼い頃から本は匂いこそが美しいのであると、そのように思えたものだが、この本から漂う匂いもなかなかどうして。値段は3,300円。買おうか、激烈に迷ったが、然し、私は『ヴィンランド・サガ』の27巻を買うべくして訪れたので、ここは我慢のしどきである。無論、棚に差し戻す。

そして、お目当ての本に行く前に、大判の絵本を発見。然しこれも美術書である。求龍堂が出版している。フィンランドの作家さんのものだ。タイトルは『おばけのこ』。とても静謐な、かつ繊細なタッチで描かれた1枚絵が続いていく。なかなか太い本だが、『バキ道』なみの文字量だといえば、その読みやすさを想像して頂けるかと思う。

一人の女性がトランクを持って、森近くの家に行く。トランクの中にはたくさんの洋服や雑貨、そして小さな靴。女の子の。彼女は打ち拉がれている。そして、哀しみを癒やすために、この場所に一人で来たのだ。そこに、おばけの子が顕れるのだが、彼女もまた、迷子である。
子供を失う哀しみ、小さな靴、履かれなかったその小さな靴、というのは、彼女が母親であったことを端的に伝えて、このおばけの子との交流において、美しいピースとして使われている。
とても優しい絵本である。癒やしの本であり、再生を描く途中の絵本である。傷というのもの癒えないものだ。それは、身体にせよ、心にせよ、完璧には塞がらない。忘れようとしても疼くこともあるものだ。
然し、それでいいのだ。傷、というものは生きているものの特権であり、それがあるから、思い出すことが出来るのだ。然し、その思い出す中において、少し怖い、哀しみが溢れそうだという時に、この本は優しくその傷を撫でてくれる、そのような本である。

然し、私は無論この本を買わなかった。けれども、心のなかではこの5冊、全て購入している。それくらい、私はこの本たちに焦がれたのである。
占めて、16,665円。
私はコミックコーナーに赴くと、『ヴィンランド・サガ』の27巻を手にして、なけなしの1,000円札を一枚渡して、もちろん、袋はいりませんと断わりつつ、家路に着いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?