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小説は人間を突破できるのか


塚本邦雄の短歌はムズカシイ。
どれくらいムズカシイかというと、意味が複雑だったり、暗喩に富んでいたり、それからカンジがムズカシカッタリで、ムズカシイ!

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けれども、美しい詩篇のような短歌である。

割礼の前夜 無花果の杜で少年同士ほほよせ

いもうとよ髪あらふとき火あぶりのまへのジャンヌの黒きかなしみ

少年蝶を逸せり さはれ一瞬を漆黒のヒットラーの口髭

氷塊のうちのうす緑の地獄・未婚のテネシー・ウィリアムズ

照る月の黄のわかものの尿道のカテーテル***聖母哀傷曲(スタバト・マーテル)

芍薬置きしかば真夜の土純白にけがれたりたとふれば新婚

六月の夜への挨拶「殺される美しいお婆さんおやすみ」

などなど。

意味がわからないと思う。安心してほしい。私も意味がわからない。
意味がわからないから、色々と解説や、本人の解説文を紐解く。それが楽しい。

塚本邦雄の知識量は半端ない。おそらく、普通の人を100としたら、そこらのプロの小説家で400〜500くらい、塚本邦雄は5000くらいある。
自作解説を読んでいくと、そこでも意味不明の言葉が頻出して、まぁ置いてきぼりを食らう。凄まじい知識量である。
塚本邦雄は『HUNTERXHUNTER』で言うところの護衛軍くらいの実力者だと思って差し支えない。

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塚本邦雄の短歌を読んでいくと、神話やキリスト教など、様々な事柄が登場する。壮大なイメージが浮かぶこともあるし、禍々しい感覚もある。
最近、「プレバト」をよく見ているが、ああ、いいなと思う俳句はあっても、頓狂なほどの飛躍のあるものはないように思える。
私は俳句に明るくないので、その辺りはよくわからないが、日本的な、内省的な傾向にあるのだろうか、
叙情や叙述に傾倒しているように思える。
日常の気付きではなく、巨大な星図を描くような俳句も見たい。
まぁ、あれはお題が決まっていたりするので、難しいのかもしれないが。

人間の感情、人間であることを突破できないことが、文学の問題の一つであるという。どうしても卑近な恋愛、家族関係、友情、夢、闘争、自己実現、償い、互助、命、などの、人間関係に終止してしまう。
例えば、恋愛の話など、日本だけで、冗談抜きで数百万程の作品があるだろう(プロ・アマ問わず、汎ゆるジャンルで)。今更、そのような話に何の意味があるのか、という問題である。
そのテーマこそが、人間としては一番共感を得やすく、一番しっくりくるものだからに他ならない。
私とあなた、僕と君、俺とお前、僕らと君たち。
このテーマはもう使い古されているが、未だに文学者はこれを書くわけだ。人間を突破できない。谷崎潤一郎も、川端康成も、三島由紀夫も、歴史に囚われて、人間関係に囚われて、人間を突破できない。安部公房は、少し違うかもしれない。

塚本邦雄が人間を突破できていると思えないが、表現形態は汎ゆる面で突破を試みている。塚本邦雄は前衛短歌なので、異端なのかもしれないが、短歌や詩は人間を突破する可能性があるように思える。俳句は、人間の側に立っていると思う。けれども、俳句は17音である。これは、数学的で、人間を突破するヒントのような気がする。

小説には期待出来ないだろう。小説は関係性で成り立つジャンルであるから、これで人間を突破することが出来れば素晴らしい。けれども不可能に近いと思われる。
何故ならば、小説家を目指す人間は人間性の中で生きているからであり、人間性を重んじる傾向が著しく強いからである。要は真面目、融通が効かない、根本に人間至上主義があり、人間礼賛がある。どうあがいても、僕はこう思う。君はどう思う?から抜け出せない。
だから、実は全く新しい文学を生み出すのは、小説を書かない人間かもしれないのである。

『三島由紀夫VS東大全共闘-50年目の真実』を先日Netflixで観て、その考えが強くなった。

三島先生は単身、全共闘1000人が待ち構える東大駒場キャンパス900番教室に向かうわけだが、既に、この時点で恐らくは先生の興奮は最高潮だろう。三島先生は役者なので、ここからもう演技がかっている。あのような状況では、スイッチを入れないとなかなか上手く立ち回れないと思うが、三島先生は全てが演技であるから、問題はない。平岡公威本人としてあそこに立つのは、難しかったのかもしれない。
自決にせよ、構成(プロット)ありきで、一つの芝居である。だからこそ常人には計り知れない狂気的な凄みがあるわけだが、その代わり、三島は力強く語ってはいても、言葉が空虚に聴こえる。
そして、彼と討論する芥正彦は、大多数の方が屁理屈野郎だと感じたかもしれない。時間(歴史)を重んじる三島と空間を重んじる芥とでは、目指すベクトル、語るベクトルが異なるために、終始噛み合わない。
けれども、芥の話は、私には人間を突破する類の話のように思えた。反対に、三島はあくまでも人間礼賛の側に立っている。国家に絶望しているのに、大戦において天皇の為に死ねなかった無念があるのに、人間を礼賛している。どこまでも繊細な神経だと思われる。そして、本心を隠すことに長けているように思える。彼は行動と言動とが乖離している。

三島由紀夫はもう少し、平岡公威に戻って、本当の感情を書くことが重要だったのではないかと思われる。

孰れにせよ、人間関係から自由になることなど、人間である以上は不可能である。けれども、人間関係を脇において、新しい地平を拓こうと苦闘することは、人間には可能のはずである。

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