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リトグラフは芸術なのか

リトグラフは芸術なのかという問題。

リトグラフという媒体がある。
これは絵を石版に描いて、それを特殊な薬品を使い、原板として刷ったものだが、熟練の職人の方が刷っておられたり、作者本人の工房、或いは作者による監修などがされていて、芸術品としての地位を確立している。

リトグラフは刷る枚数が少ないものも多く、例えば、50枚刷ったら石版を壊してもう刷れない状態にして、価値を高めるなどの方法が取られていたりもする。
あくまでも、リトグラフは芸術であり、希少価値の高い、作家の原画を所有はできないけれども、少部数、それも作家の認めたものという感覚で、所有欲を満たすことの出来る、高価な遊びだ。
作家の方が完成後のリトグラフに色を添えたりもする。右下に、シリアルナンバーが書かれていて、大抵は№だが、時々、E.Aというバージョンがある。
これは作家保存用で、価値が高くなることもある。

リトグラフは、非常に質の高いコピー品といえる。
つまりは、映画の『ブレードランナー』におけるところのレプリカントである。本当の人間ではないが、人間に限りなく近い。作り方、生まれ方の違いがある。人間のコピー。芸術のコピー。


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リトグラフは高いものならば、100万円を軽く超えるものもある。
アンディ・ウォーホルの作品であれば、数千万円、或いは何億円したりもして、彼の場合はその『複製』という資質に価値を見出していたりものの持つ意味や概念、などが市場の思考にまで大きく変化を与えている。藤田嗣治のリトグラフも何十万円もするし、やはり人気作家のものは高い。

それでも、原画には勝てない。原画だと、桁が二つくらい変わってくる。
何十万円のものは何千万円、何百万円のものは何億円である。

では、ポスターはどうだろうか。ポスターも、その数やエディション、状態によりけりだが、最近は印刷技術も大変優れている。下手なリトグラフと遜色がないと言ってもいいほどに、質が高い。
けれども、多くの量産物には、よほど希少価値がなければ、精密にも関わらず、数千円程度で手に入る。

それらが観た者に与える感情は同じである。感動は変わらない。
詳しい人間が観た時に、その差異は確かにあるだろうけれども、素人が観たのならば、美しい絵は、どの媒体においても美しいことに変わらない。
本物が与える感動はあろうけれども、それが本物かどうか、誰が判断するのか。誰にわかるのか。数多の目利きも騙されている。贋作は山と溢れている。けれども、或いは、贋作師の描いた贋作は、より一層に目に力があるのかもしれない。

人はストーリーにこそ感動を覚える。それは、天体や自然を抜きにすれば全て同様である。作り上げた作品には、知らず、物語が付随している。
例えば、ぼろぼろの鄙びた本があるとして、それが小さな児童館の片隅に置かれているとしよう。手にとった人間の何人が、これはすごい本だと気づくのだろうか。
下記の本は川端康成の伊豆の踊り子の『江川版』と呼ばれるもので、江川書房から発売されている
限定180部の本である。相場は30万〜100万円くらいで大きく変動するが、
まぁ、レア本である。私なんかはこれを見たら丁重に扱うが(まぁ、まずはないだろう)、知らない人にはただのボロい本である。児童館にあっても、大分古い本だなとしか思えない人が多いだろう。
けれど、この本には物語がある。小穴隆一という装丁家が手かげたもので、芥川龍之介の親友だった人である。そのような人間が、この本を造ったのである。

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そして、この本の一つというものは、179人の仲間がいる複製の一つである。オリジナルは、作者の原稿しかない。オリジナルが上だというのならば、それにしか価値がないのか。数人だけしか見たことのない、始まりの原稿。我々は、コピー品を読んだ。けれども、その感動は同じではないのか。

どのような芸術品も、知らない人には、一切の価値がない。
絵も同様で、ゴッホなどは生前は本当に絵が売れなかったわけだが、今のゴッホは神格化されて、無論、私も素敵な絵だとは思うが、一切顧みない人々がマジョリティだった時代があったわけだ。
そして、ゴッホはその無名性、狂気ゆえの価値が物語として喧伝されて
それが価格にも反映されて、汎ゆる要素が彼を稀代の画家へと押し上げた。

誰が本物を決めるのか、複製と本物との違いは何なのか。
芸術とそうでもないもの違いは何なのか。

この二つは、本質が親しいものだと私は感じている。

汎ゆるものが偽物の世界で、本物と呼べるものは何なのだろうか。
私が思うに、それは、恐らくは貴方の感情だろう。美しいものを愛していて、きれいなものに恋い焦がれ、愛に飢えている、貴方の感情だけが、きっと、本当だろう。
私の言葉も、貴方には何の意味もない、嘘言だ。

幾千万の夜の昔、誰にも顧みられていない、まだ眠っている芸術は本物なのか。
数千年前の『未来』、まだ生まれてもいない、或いは遥か過去に既に生まれているその美しい作品は、まだ貴方が知らないだけで、いつか会える、或いは死ぬまで出会えない本物かもしれない。

今、こうして、私たちは幾千億の星に囲まれて、それらがくるりと一周したころには神話と呼ばれるであろう、遥か過去と未来を同時に生きている。
その神話の時代、少年の頃に憧れた、名前も知らない映画の複製ポスターが、初夏の夜空のポスターが、どんなものよりも美しいのは、恋をした娘も大好きな作品や風景だったからかもしれない。
そういった感情だけが、作品を本当にするのだ。

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