見出し画像

グラフィック・デザイナー(50代)の苦悩 テーマ#13 日記のススメ

みなさん、こんにちは。フリーランス・グラフィックデザイナー(50代)のブブチチと申します。デザインを生業にして30数年。よくもここまでやってこれたなという思いと共に、デザイナー人生においての出来事や学んだ事を振り返りながら自由気ままにつらつらと書き連ねています。お時間ございます時にゆるくご一読いただければとても嬉しく思います。

こんちには。いかがお過ごしですか。ブブチチです。
もう、春は目の前ですね。みなさんにおかれましては季節の変わり目、
お風邪など召されておられませんか?

さて、noteではいつもデザインや仕事に関することをとりとめもなく書かせてもらっていますが、今回は少しばかり趣向をかえ「日記を書く」という行為について思うところを綴ってみたいと思います。

デザインにも遠からず関係していることとはいえ、いつもよりさらにとりとめもない話になるかもしれません。どうか、ゆるりとご一読いただければ幸いです。

#はじまりとルール

僕には日記を書く習慣があります。フリーランスを機に、これから僕の身の上に起こるであろう出来事を、できる限り記録してみようと思い立ったのが僕の日記ライフの始まりでした。

そのために奮発して、ちょっと良いめの革の手帳と一生を付き合うつもりの万年筆も買いました。新しい習慣の始まりに心が躍ったのを今でも色濃く覚えています。

ルールと書きましたが、毎日書かないといけないとか、そういった類いの強制は一切ありません。ふと思い立つ度に、手帳を手元に引き寄せて綴っている。そんなゆるい感じ。

ほら、なんだか無性に文字が書きたい時ってありませんか?スケジュール管理のすべてをデジタルに移行した昨今はとくに、筆記用具を手にする機会がすっかり減ってしまった寂しさからかもしれませんね。

そんなゆるい僕の日記ライフですが、書くにあたってはひとつだけ意識していることがあります。

それは例えば、ある体験を記録したなら、それに伴う感情で終わるのではなく、そのことを自分なりに分析してみることです。

分析とはちょっと大げさな物言いかな・・・。

つまりは感じたままで放置せず、なぜ僕はそう思ったのかを起点に、少し深掘りして考えることを習慣にしています。もちろん、なにかの結論や答えにたどり着かなくとも全く問題はありません(むしろたどり着くことの方が少ない)。分析するために一度は自分の中に取り込むという行為が重要なように思います。

#体験を経験化する

きっかけは、何かの書籍で、ある一説を目にしたことにあります。

「体験とは、出来事+感情のことであり、経験とは、出来事+感情+思考のこと。」

ちょっとした衝撃でした。
だとしたら、これまでの僕の人生はなんと体験のままに終わらせてきた出来事が多かったことだろうかって。

身に覚えなら売るほどあります。

わざわざ高いお金払ってイルカと一緒に泳いだけれど、今となってはそれもただの思い出にすぎないみたいな・・・。

誤解を恐れずに書けば、そもそも僕は体験に投資する(お金と時間を使う)ことにそれほど価値を感じてきませんでした。もっと言えば、思い出(=体験)を幾つも積み上げたところで、この先何かの役にたつのかな・・・とさえ思っていました。

体験を経験化できていなかったとは!
どおりで価値を感じないわけだと結構ショックだったのを今でも思い出します。
貴重な体験がいずれは消えてなくなる記憶でしかなく、おまけに、その記憶もろくな管理やメンテナンスもしないまま年齢を重ねてきたわけです。

ところで、思考することでなぜ体験が経験に変わるのでしょうか?

いわずもがな、それは取り込んで考えることで「学ぶ」からだと思います。また、木の根がどんどん広がって別の様々な記憶や学びに絡んでいくようにも感じます。

もう少し例えるなら、ひとときの断片的な出来事ではなく、自分の中に物語が出来上がる、そんな感じ。そして、直接的に体験したこととはちがう、別の価値を生み出しているように思います。

#比較するものが少ないと気がつく50代

先にも少しお話したように、経験化されていない体験はただの記憶に留まり、それはやがて時間と供に断片的に抜け落ちてたり、まるごとに消滅している時さえあります。

つまり、僕の中に全くといいほど何も蓄積されず消えてしまうのです。

蓄積されていないということは、様々な物事を判断していくうえでの比較する材料が自分の中にないということに気付かされます。

比較するものがないと、何かに対して判断を下す必要が生じたときに、常に丁か半かという直感的な勝負にならざるえません。なんとヒリヒリするギャンブラーな人生でしょうか。こんなにも静かで地味で刺激の少ない人生を望んでいるのに・・・(苦笑)。

#バランスの処方箋

そんなわけで、いまさら遅かりし、いや、でも死ぬまでにまだ少しは積み上げられるのではないかと未練たらしくも、せっせ、せっせと体験を経験化していく手段のひとつとして僕は日記を活用しています。

そうそう、日記についてはもうひとつ加えておきたいことがありました。

この際なので、まだ相見えぬ貴方に包み隠さず告白しますが、こんな歳になってもいまだ妬みやひがみといったネガティブな感情に自分の心が引っ張られている事を自覚することがあります。(許しや悟りにはとうてい及びません)

そういう時は誰かに聞いてもらったりして、自分の「外」に吐き出すのが一番の対処方法だと思うのですが、僕は自分の感情を自分以外の人間に伝えることがとても苦手です。

たとえそれが嬉しいことだとしても、です。

もちろん、悲しいことも、悔しいことも、イライラすることも。なんでも。

表現することを生業としているくせに不思議ですね。

たぶんそれは、極めて個人的な事を自分以外の人に伝えてしまうことで、どう思われるのかが怖い、勘違い甚だしい自意識過剰からきているのだと思います。

それはさておき、そんなとき日記はとても有効なわけです。
でも、誰かに聞いてもらう代替というわけではありません。それとは少し違う。
なんというのだろう、感情と思考をたんたんと書いているうちに、やがて少しずつ自分の手を離れていくとお伝えするのが一番近いでしょうか?

主観から客観に移り変わるその感じがデザインするプロセスととてもよく似ている気がします。

「書く」という行為はまさに瞑想に近いものかもしれませんね。たとえ恨みや妬みやひがみといったネガティブな感情を書き殴っていたとしても、ある意味、それ以外の雑念が入り込む余地がないから。

「書く」と言うことの有用性については、遠き昔から多くの有識者達によって語られてきましたので、今さら僕なんかが偉そうに講釈するのはどうかと思いながら、僕はあなたに日記をつける習慣をぜひ、おすすめしたい。

ご一緒にどうですか?

今日も最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
ストーブの前で幸せに眠る愛猫からも、あなたにとびきりのお礼と幸運を・・・。

                                 ブブチチ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?