読書ノート「空海の哲学」(著:竹村牧夫 講談社現代新書)
1.はじめに
本書は2020年3月に刊行されました。本書の構成は、空海の生涯の概観、密教に至る仏教史の概説、仏教における「即身成仏」の思想の概説、空海の密教思想の概説を経て、空海の著作『即身成仏義』を読み解くというものです。このような構成になっているのは、著者が「即身成仏」こそ空海の思想の核心と考えているからのようです。
2.空海の密教観
空海の著作『弁顕密二教論』に次のように記されます。
大乗仏教では一般に仏に三身があるといわれ法身、報身、化身といいます。法身とは仏の本性、報身とは修行によって報われ仏となった身、化身とは仏が人々の前に現れた姿をいいます。化身を応身ともいうので応化の開説とは釈尊が人々に語った教えという意味でありこれが顕教です。機とは対機説法つまり相手に合わせた説法で釈尊の得意とするところでした。対する密教とは法身の説く秘奥の教えでありこちらが「実説」だといいます。また『弁顕密二教論』に次のように記されます。
金剛頂経は大日経と並ぶ密教の主要な経典です。如来は仏、変化身は化身のことです。大乗仏教の菩薩の修行の階梯に十地があり十地前の菩薩が地前、十地以上が地上です。二乗は小乗仏教の声聞、縁覚を指し、これと菩薩を合わせて三乗といいます。凡夫は普通の人のことです。菩薩が修行を完成させて仏となるための教えが一乗です。他受用身とは報身の現れの一つで法楽を他者に受用せしめる様をいいます。化身が三乗の教えを説き、報身たる仏が地上の菩薩のために他受用身によって説くのが一乗の教えでこれを合わせて顕教といいます。要するに密教経典以外の大乗小乗の仏教経典にある教えが顕教です。
後段にある自性は法身を指し、受用とは報身の現れのもう一つで仏の功徳を自ら受用している様です。両者あわせて自受法楽といっています。眷属とは曼荼羅に描かれる様々な如来や菩薩等のことです。三密門とは身密、口密、意密のことで即身成仏のために必要な密教の修行のことです。如来の内証智の境界とは悟りを得た後の仏の心の内ということです。等覚とは二乗と地前のことで十地は地上の菩薩です。室とか堂は内証智の境界のことですから顕教の教えではそこに到達できないと言っています。対して三密門の実践で如来の内証智の境界に達するのが密教です。
空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』を要約したのが『秘蔵宝鑰』です。これらに書かれる「十住心」は空海独自の思想で次のとおり教の序列を示します。要するに真言宗が一番優れているぞ、ということです。
第九までの説明は省略します。華厳宗では仏の内証の世界は説けないとします。しかし密教では法身説法として説けるとします。その世界を図示したのが曼荼羅です。またこれを自分の身で体証する行法があるとします。『秘蔵宝鑰』にある秘密荘厳心を謳う詩は次のようになっています。
最初の2行は第九までの教は自立自存したものではなく密教に至るまでの段階(因)に過ぎず、密教が一番優れていると言っています。3行目の五相とは五相成身観という5つの観相による密教の修行法で五智とは密教における5種類の智慧のことです。修行や智慧が世界の本性であり4種類の曼荼羅を認得すると自分の心の中にこれらが発揮されるといっています。刹塵、海滴は多数の意味で渤駄はブッダの音訳で金蓮は曼荼羅の中の多数の仏がいる部を指します。つまり曼荼羅の世界が自分の心身になると言っています。曼荼羅に書かれる文字は世界の全てを表し仏が持つ道具はその救済のはたらきを示します。曼荼羅の世界を自身の内に証得した荘厳の仁(こころ)が秘密荘厳心であり、この一生のうちにこれを得るのが即身成仏です。
曼荼羅は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅がセットになります。胎蔵界は大日教に基づき理を表し、金剛界は金剛頂教に基づき智を表すといいます。この曼荼羅には摩訶、三昧耶、達磨、羯磨の4種があります。曼荼羅は大日如来を中央に東西南北に計5仏が描かれます。それぞれが5智の1つ1つに対応しています。5智とは大円鏡智(森羅万象を映す丸い鏡のような智慧)、平等性智(自他平等性の真如・法性を悟る智慧)、妙観察智(あらゆる事物の意味を的確に知る智慧)、成所作智(なすべき所、すなわち修行の根本を知る智慧)、法界体性智です。法界体性智以外の4智は、大乗仏教諸派の基礎となる唯識思想に由来し顕教の大乗仏教にもあります。曼荼羅では諸仏がその居場所である仏国土にいます。これは密教が心身と環境をセットとして考えているからだといいます。
密教では文字も重視されます。阿字とか吽字とか呼ばれる梵字のアルファベットのようなものが暗号として多彩な意味を持っているそうで日常語では表現できない真理を言い表すようです。
密教の修行法として代表的なものに三密行があります。身体に印を結び、口に真言を唱え、心は三昧に住す、これらを加持すると大日如来の三密(身密、口密、意密)と一体となり即身成仏するといいます。
また空海が重視する行法に五相成身観があります。『秘蔵宝鑰』に次のように解説されます。
これについては勝又俊教『弘法大師著作全集』にある注が引用されます。
これらの行もまた真言印を結びとなえて観相するそうですが著者は師について実際に修行してみなければ何も分かり得ないだろうといいます。
3.空海の即身成仏思想の概説
秘密荘厳心の解説でも触れたとおり、即身成仏とは父母に頂いたこの身でこの一生において自分が悟りを得て生きたまま仏になるということです。
小乗ともいわれる部派仏教では釈尊の悟りの智慧とは十二縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)を指し、これを聞いて学んで理解するのが声聞、縁覚の二乗です。悟りの智慧を得たら阿羅漢になれますが仏陀そのものになるわけではないようです。大乗仏教では真の悟りの智慧は歴史上の存在である釈尊が説法した十二縁起にとどまらない言葉で言い尽くせないようなものとし、この悟りを得る修行をするのが菩薩です。修行が完成すると如来仏陀そのものになれるそうで如来は釈尊以外にも多数いるという考えのようです。
菩薩の修行にどれくらい時間がかかるのかという点については唯識思想では三大阿僧祇劫の時間がかかるといいます。一大阿僧祇劫とは八百里立方の岩を天女の柔らかな衣の布で天の時間で三年(人間界の三百年)に一度撫でてその岩が磨滅するまでの時間をいい、その3倍(初発心から十地の初地まで、初地から第七地まで、第ハ地から第十地を終えるまでに区分され各一大阿僧祇劫の時間がかかるため)かかるといいます。途方もなく長い時間であり人の一生の間では無理なので何度も生まれ変わり死に変わり修行を続けなければなりません。時代を追って大乗の各宗派でもそこまでのことは言わなくなっていきましたが十住心の一つ前の華厳宗でも二生なり三生なりはかかるとしていたようです。そこで一人の人の一生の間に生きているうちに修行を完成させようというのが空海が重視する密教の即身成仏なのです。
空海は中国留学時の師である恵果から密教を学びましたがその特質を攘災招福と即身成仏の2つとしていたといいます。空海が自らその即身成仏の思想を解説したものが『即身成仏義』です。学問的にはこれが空海の真作か偽作かについて論争があるようですが本書では真作との立場をとります。
『即身成仏義』では前半に二教一論(「金剛頂経」「大日経」「菩提心論」)から八箇の教証(教論の文中から自説の根拠を示すこと。)が示され、後半に空海自作の「即身成仏頌」とその解説が置かれます。
即身成仏頌の解説は後ほどとして頌のすぐ後に次の句が置かれています。
二頌八句、両頌は即身成仏頌のことです。即身成仏の四字には限りない意味があり仏法のすべてがその中にあるとしています。空海は、即身成仏とは密教の教えの一側面ではなく、その中に密教のすべてが篭められていると考えていたのです。
大乗仏教には如来蔵思想というものがあり人間はもとより如来の胎児を有しており「衆生本来仏なり」といわれます。その意味では成仏というのはこれから成仏するというのではなくすでに成仏しているという意味もあると言います。空海の著作『大日経解題』では「成仏」の語に対して次のように注釈しています。
「成」とは因果所生に非ず、つまり時間の中で生ずるものではないので、そういう意味ではもとからすでに成仏しているということになります。
吉祥眞雄『即身成仏義講説』によると「即身成仏義」の語句は、
①「即ちの身、成れる仏の義」(この身は既に成就している仏である。)
②「身に即して仏と成る義」(現世のこの身において仏となる。)
③「即やかに身、仏と成る義」(即時に仏となる。)
と訓めるといいます。①を理具成仏、②を加持成仏、③を顕得成仏というそうです。
即身の「身」については人間の身だけではなく仏の身を含むといいます。空海の著作『金剛頂経解題』では「身」について次のように解説しています。
仏の身は無量の法の集積(積聚)だというのです。著者は、無量の法というのは諸仏諸尊等のあらゆる他者を具足した曼荼羅(に描かれるものすべて)とすると即身とは曼荼羅即自己という意味になり、即身の「即」には他者と相即しているというときの「即」が含まれるといいます。
このように即身成仏の四字に多彩な意味が込められているのが空海の密教思想なのです。
4.即身成仏義を読む① 即身成仏の教証
ここからは『即身成仏義』を読んでいきます。基本的に密教文化研究所弘法大師著作研究会編「定本弘法大師全集」収所のテキストを用いているそうです。まずは即身成仏に関する教証から始まります。冒頭の文は次のとおりです。
顕教で三大阿僧祇劫の時間かかるという成仏に対し、即身成仏というが何の証拠があるのかという問いに対し、秘密蔵の中にあると答えます。秘密蔵とは密教の根本経典となる「金剛頂経」「大日経」と論書である「菩提心論」です。インドの原典は膨大な量があるようですが真言宗では金剛頂経に関しては不空が漢訳した「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王教」という三巻ものが根本聖典とされます。これは主に曼荼羅の説明を記した部分を抜き出したものようです。このほかに儀式のやり方を記した「儀軌」というものがありこれも教証に用いられます。大日経に関しては善無畏と呼ばれるインドから中国に渡った僧が漢訳した「大毘盧遮那成仏神変加持教」という七巻ものの略本を用いるようです。
大日尊の一字頂輪王とはボロンという一字の真言を人格化したもののようです。三昧と三摩地は漢訳の違いでインドでは同じ言葉のようです。また現証というのも漢訳の違いで成仏と同じ言葉だそうです。ここでの三昧は三密行のことのようで、修する者は現(に仏の菩提《覚りの境地ないし智慧》を)証す、というのですから、答えの文の意味は、金剛頂経には密教の三密行を修する者は成仏すると書いてある、ということです。
此の教=「法仏の自内証の三摩地大教王」とは金剛頂経の別の言い方のようです。昼夜四時とは朝、昼、夕、夜、すなわち一日中という意味です。歓喜地というのは菩薩の修行の十地の初地で、これを現世に得るといいます。空海はさらに自宗=密教の初地は顕教の初地とは意味が違うといいます。初地において成仏しているが教に言う「後の十六生に正覚を成ず」とは十六大菩薩の功徳が現れることだと解説しています。即身成仏して菩薩すなわち利他行を行うと解されます(金剛界曼荼羅では東西南北の四仏をそれぞれ四菩薩ずつで取り囲んでおり合計十六の菩薩が描かれるのでそれを十六大菩薩といっています。)。なお経典における品というのは経典を構成するパート(章みたいなもの)です。詳しくは地位品に書いてあるということです。
勝義とは優れた教え=密教ということで、これを修すれば無上=最高の覚りを得るといいます。
これは五相成身観の第四、証金剛身のことを言っているようです。
大日教の中の訶字の観行なる修行についての文を引いているとのことですがこの身を捨てずに神通力を得て大空の位に遊び身秘密を成就するといいます。悉地(覚り)には2種類あって持明の悉地とは真言を持して神通力等を得ることで法仏の悉地が大空位です。大空とは法身のことで大きな虚のように何の障礙もなくあらゆる現象を含みながらそれ自体は生滅することのない不変の常恒であり、現象が成立する場であるので位といいます。法仏の三密である身秘密は等覚、十地(顕教の修行者)には窺い知ることができないといいます。
「菩提心論」から教証が引かれます。龍猛はナーガルジュナという実在したとされるインドの僧ですが時代と内容からみて「菩提心論」の真の作者とは思われません。「菩提心論」の作者は不詳というべきでしょう。これまでの経典には即身成仏の四字がそのまま書かれてはないのですがこの論書には明記されているということです。またそれが真言密教独自のものとされています。
また「菩提心論」に、菩提心に通達すれば父母から頂いたこの身で大覚の位、すなわち成仏できると書いてあるといいます。
これまでの引用によって即身成仏の意義は経論に根拠があるという教証が成り立ちます。
5.即身成仏義を読む② 六大無礙の真意
ついで即身成仏頌が示されます。
「是くの如くの経論の字義差別」という説明書きについては即身成仏の四字の語と意味内容をさらに分解したのがこの頌というのが通常の理解でしょうが、著者は空海は字義と字相を区別しており字義とは表面的な意味(字相)を超えた深い意味と解すべきといいます。
これは空海による頌の大要の解説です。前半の文は前出のものと同じです。後半では二頌八句の一句ごとに字義を当てています。これは頌の本文にも付記してあるとおりです。さらに前半の一頌四句が即身で後半の一頌四句が成仏と括られます。即身成仏には無辺の義があるがその核心をこの頌で明かすということです。即身成仏は身密や三密行だけの話でなく仏法の一切を含むといいます。
最初の一句、六大無礙常瑜伽は体、相、用の体だといいます。体は存在の本性、相は属性・性質、用は作用を意味する仏教用語です。
六大とは五大と識のことだといいます。五大は物質を構成する元素で地、水、火、風、空です。五大元素は五智と曼荼羅の五仏に対応し、密教では一般的な考え方のようですがこれに識を加えて六大とするのは空海独自の考えのようです。
空海の考えでは五大は単なる元素ではなく仏の内証の世界であり法身の体の内容だといいます。我‥から等しと知る、までは大日教の偈文を引いたもので大日如来が成仏して実現した無上菩提の内容です。空海はこれが六大の義だと言っています。本不生は阿字(梵字の文字の一つです。ほかにも◯字とあるのは特定の文字をあらわしています。)によって表現され、これが地に対応します。ついでまた別の文字と離言説(言葉で語れない)が水に対応し、離塵垢(解脱)がまた別の文字と火に対応し、遠離因縁は風に、最後の等虚空はそのままですが字は欠字に対応し、これらにより五大と偈文と文字が対応することになります。
我(本不生を)覚れり、から我覚をとってこれが識に対応します。種子真言のカタカナの部分は本来、梵字で書かれているのですがアビラムキヤムが五大に対応する文字を順に並べたものです。最後に残った字が吽字で識に対応しているのですが日本語の文には出ていません。識が因位で智が果位というのは、唯識思想で転識得智といって八識(眼、鼻、耳、舌、身の五感の五識と意識、末那識、阿頼耶識の8つ)が覚りにより仏の四智に変わるという説を前提としたもので、それゆえに智即ち覚と言っています。
没駄冒地は種子真言の冒頭部分ボダボウチを漢字で表したもの(音訳)です。没駄は仏陀と同じであり覚者の意味ですが空海はこれを覚とします。冒地は菩提と書かれることが多く、こちらを覚と訳すことが多いのですが三藐三冒地の古い訳を引いて智とすることの根拠としています。没駄と冒地はインドの言葉では同じ語源から転じたものですから覚知の義は相い渉れるとします。
此れに‥まくのみ。の2文については本書に解説がありません。最後の行で五仏が出てきます。密教思想では曼荼羅の五仏は五大に対応します。識を加えて六大とした空海ですが識大は五大にあまねく浸透しているので別に仏を立てることなく五仏で良いようです。なお五大と五仏の対応関係は胎蔵界と金剛界で異なるため識を加えて六大とすることで胎蔵界の五仏と金剛界の五仏の両方に対応すると解する説もあるそうです。
金剛頂経では、如来の内証の世界を表す大日教の偈文と同じ内容のことが諸法についていわれます。また金剛頂経には、この引用文の前に「三摩地の印を結んで、法界体性三昧に入り、五字旋陀羅尼を修習せよ」とあるので五大とこれを表す五字と、さらに諸法が識に対応するので、六大が法界体性であるということになるというのが空海の考えのようです。
諸法とは諸心法だといいます。唯識思想における法の分類では心法は心王と心数(心所有法)に分類されます(ほかに色法、不相応法、無為法があり2つの心法と合わせて五位とされます。)。唯識思想では心王には8つ、心所有法には51の詳細な分類があるとされます。心と識は言葉は違うが同じものを指すと言います。
自余は上説に同じ、とは大日教の我覚と金剛頂経の諸法がともに識だという話のほかは、残りの五大の話は大日教と同じだ(から説明省略)ということですが、細かい話をすると五大の4番目は大日教では「遠離因縁」で金剛頂経では「因業なり」なのでむしろ反対の意味ではという疑義も生じるところです。著者は因業とは衆生救済業とみる(から同じだ)と言っています。正直、私にはちょっと分からないです。
空海が大日経からまた一文を引いて解説しています。最初の句の心とは識智だとし、後ろの五句は五大としているので六大が揃うことになります。経には阿字は第一の命なりとありますが大地は生き物(有情と非情)の一切のよりどころ(処)であるのでこれが大地の意味と解しているそうです。吽字を名づけて風と為すとあるのは経の原文では風ではなく忿怒とあるそうです。忿怒とは風を体とする用(作用)だと解して空海が引用文を修正したらしいです。なお風と虚空に当てられる字が先ほどと違うのですが密教的には同じことなんだろうと思っておきます。
中の三句については普通に読むと心位(=識智)が全ての存在に浸透・普遍して自在にはたらくと言っているようなのですが、空海は六大の自在の用(はたらき)が無礙(妨げ合わないこと)であると解します。識智の智とは如来の仏智であり、その識は五大と区別された識のことではなく五大と一体である如来の性質をあらわすので、この大日経の文を六大の無礙を明かす教証とみているようです。
密教経典だけでなく顕教のいくつかの経典にも六大が出てくるといっています。
この文は六大が世界の一切を造り出していると言っています。一切の仏とは大乗仏教が説く三世十方(意訳すれば多世界の時空間の全体のこと)に住まう数多の仏すべてということです。仏教では心を持つ生き物を有情といい、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界の有情があるとします。これらのうち仏以外をまとめて一切衆生といいます。器界とは有情が住む器としての世界のことで器世間ともいいます。現代語風に言えば環境世界ということです。四種の法身とは密教独自の仏身論で、自性身、受用身、変化身、等流身です。等流身以外の3つはそれぞれ三身論の法身、報身、化身に対応します。等流身とは一時的に相手と同じ姿・形を示して教化して消える時限的な仏だそうです。三種世間とは正覚智世間、衆生世間、器世間のことで、仏の世間と衆生の世間とそれら全体を含む器世間を合わせていうようですが、要するに器界等というのと同じ意味です。仏教思想における世界の構成要素を網羅的に列記しているのです。
大日経から如来発生の偈と呼ばれる文を引用してこれを解説しています。解説文の最後の方で能生とは六大で、随類形とは所生の法であって、すなわち四種法身・三種世間だと言っています。能生とは生じさせている側のことで所生とは生じさせられた側を言っているので六大から随類形が生じているという解釈をしています。このため偈文の最初の能く随類形の・・・とを生ずというのは列記された諸法等は随類形と括られるのであって、随類形が能く生じると解するので随類形を生じさせている能生は偈文には書かれていないという読み方になります。その書かれていない能生が六大だということです。
そして所生である諸法と法相は、それぞれ心法と色法であり、通名と差別だと言っています。通名とは別れたものがまとまることで、差別とは別れることです。諸法から法相として諸仏、声聞、縁覚、菩薩、衆生、器世間といったものが次第に別出します。そして諸法と法相と別出した仏や衆生がそれぞれ曼荼羅だと言っています。また先ほど見たように器世界とは三種世間です。なお四種法身についてこの文では解説されていないのですが、空海は諸法と法相が自性身、諸仏が受用身、声聞・縁覚・菩薩・仁尊が変化身、衆生が等流身に当たると解しているそうです。このように、如来発生の偈は六大が体となって世界の一切を造り出していることを示す教証なのです。
大日経から別の偈が引用されます。これは真言者が曼荼羅を造る前に行う観行について書かれたものとのことです。円壇というのは曼荼羅のことで金剛輪は地輪の意味でその上に五大に各々に相当する水輪、火輪、風輪を自分の身体に当てはめてイメージするという内容のようです。
空海はこの偈に対して独自の解釈を施します。金剛輪は地なので阿字を当てます。これは偈文の通常の理解に沿ったものですが、円壇が空で真言者が心大に当たるというのは空海独自の解釈です。これによりこの観行において六大が説かれているとみます。大身、法身、三昧耶身、羯磨身が大曼荼羅、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、羯磨曼荼羅になるので四種曼荼羅が六大の観察から生じると言っています。詳しくは経文をつぶさに見るようにとも言っています。
これも大日経からの引用で「有らゆる諸の如来の意より作業と喜戯と行舞とを生じて、品類を広演せり」とは如来の衆生救済の意のもとに種々の示現を展開することをいうとのことです。四界は物質界で地水火風を言っているそうです。経では、心が物質界を取り込んで虚空のように包容していると説いています。
空海はこの経文も六大が一切を能生することを表すものと解釈します。心王が識大で、四界が四大で虚空が空大とします。能生から生じる所の見非見の果について、見非見とは欲界・色界・無色界であるとします。これば仏教における世界の構成の分類なのでこの3つで世界全体を表します。そして経文のとおり、六大から生じた世界の中に果として三種世間のあらゆる現象が生じると理解しているようです。(なお辟支仏とは縁覚の別の呼び方です。)
また空海のこの文には書いてはないですが、著者はさらに進んで如来の意が如来の識大と五仏を含むから六大だと解釈できると言います。
これらの教証から、六大が能生となり所生として四種法身、三種世間、十界の全てが生じ、そうした現象界の種類区分があっても六大を出ることがないから六大が法界体性だと言っています。
四大は空以外の地水火風のことです。非情とは、ここでは単に物質という意味に受け取って良いでしょう。密教では四大等(四大及び空、すなわち五大のこと)を如来の三昧耶身とするといいます。
空海は、四大等は心とは別でないと言います。心と色(ここでは物質。非情に同じ。)は性が同じと言っています。これは心法(心的存在/心理現象)と色法(物質/物理現象)はともに実体を欠く空性だということで大乗仏教に共通の考え方です。
本書の解説が分かりにくいので自分なりに解釈すると、おそらく心と物質の関係に言えることが、人なり仏が主体として持つ智(智慧)とその智の対象である境(智というのは何かに関する智なのでその対象がありそれが境です。)との関係や主体が持つ智と世界の理(法則、真理)との関係でも同じように成り立つと言っているのだと思われます。同じというのは、性が同じというだけでなく互いに無礙であるというのです。ただし空海の論法で言えば、だけでなく、という付加的なものではなく《性即同》だからこそ《無礙》となるでしょう。
さらに進んで、能生、所生の二生の区別というのも本来はないと言います。「法爾にして道理」とは言葉の意味としては「自然の理」というようなことで、著者によると人間の分別的思考を超えた道理という意味のようです。能所は密号だといいます。密教的表現なので表面上の言葉以上の意味があるということなのでしょうか。(なお空海の文中の「戯論」とは言語による形而上学的議論のことです。大乗仏教では覚りの智慧においては戯論は寂滅するといいます。)
このように六大は大日如来の内証の世界と対応しており、これが法界体性として真実の世界の本体です。六大から生じる所生が身であり一切の現象世界であり六大の自在の用であるということになります。大乗仏教の基礎である唯識思想では、環境世界である器世間は識である人の身に具わっているので身に各人の心身と環境世界が含まれると解されます。
六大無礙にして、と訓むと六大が主語のようですが六大自体が無礙というわけではなく、法界体性所成の身が相互に渉入し相応している様子が無礙と呼ばれているのです。(とはいえ本来、能所の区別はないのでその意味では同じことになるのかもしれません。)
瑜伽とはインドの言葉の音訳であり、その意訳が相応です(なお「ヨガ」の原語です。)。法界体性所成の身、つまりは自己と各人の身心と環境世界の一切を含む現象世界が無礙常瑜伽という在り様をしていると言っているのです。常というのは不動、不壊という意味です。常なのは凡人の目に見える現象世界の個別の出来事ではなく現象世界の総体の在り様について言っているのです。
さらに渉入相応が即身の即であると解説されているので、頌の初句の体としての意義の解説だけでなく、身と合わせて即身の二文字の意義もこの一句に入り込んでいることになります。
渉入相応を即と言っているのは十住心の9番目の華厳宗における華厳思想を意識しているからと思われます。華厳思想ではまず理と事物の無礙を説き理事無礙法界といい、さらに進んで事物相互の無礙を説き事事無礙法界といいます。事事無礙であるのは一切の現象が相入相即しているからだというのです。相入は溶け合う、相即は影響し合うという意味です。著者は、空海は華厳思想を踏まえてこれを即とし、さらに進んで人人無礙を言っていると解釈しています。
6.即身成仏義を読む③ 三密加持の実相
次に第二句の説明に入ります。大日経からの引用を行い解説しています。大日経では三身とあり秘密身とはなっていないのですが空海が付け足したようです。大日経では三身を字・印・形像としているのですが空海はこれに曼荼羅を対応させます。著者は、ここでの曼荼羅は絵図を超えて密教の一切の教法の集合と解すべきといいます。まず字を法とみています。(本書に説明はないですがこれまでの流れからすれば自然なことでしょう。)
印を種種の幖幟とみていますがこれは諸仏の持ち物である刀、剣、五鈷杵等のことで三昧耶曼荼羅に描かれているようです。これらの持ち物は仏の衆生救済の本願を象徴するものだそうです。
形像については仏には三十二相八十種好が具わっているとされているそうであり、そうした全ての姿かたちが集合したのが大曼荼羅だそうです。
三身に威儀事業があるといっています。仏教における威儀とは行・住・座・臥の四威儀を指し、日常生活の行動の意味です。事業というのは仏の威儀により良いことが実現していくはたらきをいっているようです。羯磨とはインドの言葉の音訳で行為とか作用という意味だそうです。これにより羯磨曼荼羅も対応するとされます。
なお著者は、字(法)は如来の言葉で、印(本願)は如来の意思で、形像は如来の身体を表すから経の三身は密教の三密である身密、語密、意密を言い表しているものと解しています。
いずれにせよ空海は曼荼羅を単に絵図とは考えておらず、如来の身そのものであり密教の教法の全てを含むとものと考えているようです。
金剛頂経によって曼荼羅の説明をすると言っていますが特に経文を引いているわけではなく空海自身の言葉で先に説明した曼荼羅の解説をしています。
またここで各曼荼羅に智印というものが対応させられていますがこれは心の中に認知するという意味合いのようで行者が手で結ぶ印のことだけではないようです。
ここはかなり難解で色々な解釈があるようですが要するに四種の曼荼羅、智印といっても4つのものが別々にあるのではなくて、むしろ諸現象の無限のつらなり、つながりが相として四種曼荼羅と心の中に認識されるのであって虚空のようにすべてを包摂する如来の秘密身(六大の法界体性でもある)の中において諸現象の諸相が無数の光のように無礙に浸透し合うということなのでしょうか。また不離の意味は即身の即であるともいわれます。
三句目の説明です。三密というとき、語密と口密、心密と意密はそれぞれ同じことの言い換えです。仏教では衆生の身、語、意について三業という概念があり、これらの3つのはたらきにかかる行為が煩悩のために悪いものになってるとされます。例えば語(口)に関していえば他人の悪口を言うといったようなことです。密教の仏ではこの三業が三密になっているのです。これは顕教では見聞されないことでありそれゆえ密というと言っています。
本書では、三密には有相と無相があるという解釈が紹介されています。有相とは身に印を結び、口に真言を唱え、心は三摩地に住する様子で、密教的な修行のことです。無相とはそうした修行をしていない時でも仏の行為はすべて真実であるとし、三密がはたらいているなら仏の相と衆生の相の区別もなくなるといいます。
「一一の尊等」とは密教において仏となったそれぞれの者は誰でも、ということです。刹塵とは無数、膨大な数の意味です。そしてその無数の三密のはたらきが諸の尊等相互に入り込んでいて、一一の尊等がこれらを受け入れて支え合っているというのです。これが「加持」ということであって、衆生についても同じと言っています。
著者は、仏の衆生救済のはたらきが相互に連携して相乗効果を上げていると理解すると水平の加持となり、六大の法界体性の仏智が衆生にも自覚されずにはたらくときは仏の三密と衆生の三密が浸透し合う垂直の加持があることになると解しています。
真言密教の修行で速やかに大きな覚りを得られるといっています。このでの「行人」の三密は有相の三密でしょう。「相応して」というところが仏の無相の三密と相応するということかと思われます。
これは金剛頂経の儀軌からの引用のようです。三字の密言とは唵・僕・欠の三字だそうです。この密言と印を結ぶ身体の箇所ごとの効能が書かれているようです。印を結ぶ修行がどのようなものかは入門して修行しないと分からないようです。これにより仏の五智とこれに対応する色々な仏身を得られると言います。曼荼羅の5仏と五智が対応しているようです。先ほどの「三密相応」を具体的に説明している文とみてるのでしょうか。修行するわけではないのでまあそういうものだと思っておけばいいでしょう。最後の毘盧遮那仏を得る印の「自身を加持」とは身体の特定の部位ではなく全身でということのようですが具体的にどうするのかはさっぱり分かりません。
また別の儀軌からの引用です。「一縁一相の平等」とは、縁が三密加持の主体を指し相が有相の三密加持の行を指すので一一の縁相が平等とは自己の三密と一切の他者の三密が平等であるということのようです。この観法を修習すれば現生において十地の初地から等覚・妙覚を経て薩般若、すなわち覚りを得るといいます。これが第三句の「速疾顕」ということです。この場合の薩般若とは密教の五智でしょうか。その中に平等性智がありますので自他平等を知り一切如来の法身と同等となって衆生救済の大仏事なすと言います。
また別の儀軌からの引用です。灌頂という密教の儀式に関する記述で、師匠から教えを授かったと認めてもらう儀式のようです。空海は中国留学時に師の恵果から灌頂を受けたとされます。「阿闍梨」とは師のことです。
「毘盧遮那仏自受用身の…法」とは密教の「五秘密の法」というものを指すようです。「大普賢金剛薩埵」とは普賢菩薩が毘盧遮那仏(大日如来)の灌頂を受けてなるものとのことで「他受用身の智」とは密教の灌頂を受けた大普賢が語ったという体裁を取っているわけです。「曼荼羅に入る」とは五秘密曼荼羅というものを安置した道場に入ることのようです。「羯磨を具足」とは三昧耶戒という儀礼を受けることで、これにより弟子の身に金剛薩埵が入るとされています。「加持威厳徳力」とは阿闍梨の力で「須臾の頃」とは「すぐに」という意味です。「無量の…証すべし」とはすぐに計り知れない効果が現れるといっているのです。「不思議の法」とは三昧耶戒の儀式の中身のようですがその実態は分かりません。この儀式を受けると一大阿僧祇劫の修行と同じ効果があって持って生まれた我執の種子が変易してたちまち仏家に生在するとされます。
そのあとの文の「如来の心」「仏口」「仏法」というのを心(意)密、口(語)密、身密の三密に対応するものと解釈しているようでこれが弟子に入ったのです。阿闍梨の三密加持が入ったというのではなく如来の無相の三密加持が入ったということのようです。経文では「仏化より…」という句が余っているようですがこれは三密の教化をまとめてもう一度述べたとみるようです。それにより法財すなわち「三密菩提心」を得るということになります。この経文の解釈は様々あるでしょうが、まとめれば密教の儀式を受けると三密加持によりすぐに菩提心(覚り)を得られるという話になっています。なお原文カッコ内の菩提心戒と三昧耶戒は同じものです。
先ほど灌頂の儀式で曼荼羅道場に入るとき覆面をして入り中で解かれるそうです。そこで曼荼羅を見てすぐに浄信を起こすことになると言います。自ずと歓喜の心が湧いて行者の阿頼耶識に金剛界すなわち覚りの種子が植え付けられると言います。
灌頂の儀式の中で受識というものがありそれを受けると金剛の称号が与えらえるそうです。そうすると二乗十地を超越し、さらに「金剛薩埵五密瑜伽の法門」(密教の修行法のようです。)を日々修習すれば現生に初地を証得し、さらに昇進するとあります。昇進とは十地の上の位に昇進と読むのが普通の気がしますが、著者は、密教の初地は既に覚りなのでその後の昇進とは利他行のことだと解しているようです。
昇進して五密(修行)を修得すれば涅槃にも生死にも煩わされず執着しなくなります。五趣とは地獄、餓鬼、畜生、人間、天上のことで迷いの世界に生きる有情です。これらに利楽をなすというのは利他行でしょう。身を百億に分けて多数の有情の中に入って覚りを成就させるといいます。
この文も儀軌の続きです。金剛はダイヤモンドのことですが三密の修飾として付いてるだけで三密金剛とは三密加持のことだと思われます。増上縁とは勝れた良い因縁という意味のようです。三密加持が増上縁(原因)となって大日如来(毘盧遮那)の三身を証得するという結果(果位)が生じます。
経の修行法に従って精進すれば現身に5つの神通力を獲得するといいます。「漸時に修練...」というのは十地の初地の先の修行をすることをいうので先ほどの「漸時に昇進」と同じことを言っているようです。詳しくは経典にあるとおりといい、これをもとに三密加持速疾顕と言っています。
如来の大悲が太陽だとすると水面に太陽の光が映るように衆生の心に仏日の影が現ずるのを加といい、三密行の行者がこの仏日を感じるのが持だといいます。行者が三密加持の道理を極めれば如来の三密と相応して速疾に本有の三身(仏身)を得るといいます。また、ここでの即には即時、即日つまり「すぐに」という意味も汲み取れるといいます。
第四句の説明です。この句は比喩だといいます。帝網とは帝釈天(インドラ)の宮殿の天井にかかっている宝石の飾りのついた網のことです。網の目の1つ1つに宝石が括りつけられていて互いに映し合っています(因陀羅珠網)。帝網は、無数の仏たちの三密の円融無礙を明かす比喩なのです。即身の身については自分を含め仏と衆生つまりあらゆる有情(心を持つ生き物)すべての身だといいます。まさにこれが帝網の宝石1つ1つにあたるのでしょう。ここで著者は、我身すなわち自己が特に挙げられているのは自己が三密加持の焦点だからといいます。さらに空海は、身は密教における仏身の四種法身だともいいます。また字・印・形は如来の秘密身であり曼荼羅であり三密なのでした。これまでにみてきた密教が説く衆生と仏のあらゆる身の意味が即身の身の字に込められているということです。
空海はこれをさらに別の比喩で解説します。内側が鏡になった箱に1本の蝋燭を入れると鏡が無限に映し合って無限の影像となります。帝網の比喩も鏡像の比喩も華厳宗に由来するもので重重無尽の縁起や一入一切・一切一入・一即一切・一切即一の相入相即を表します。これらの比喩のように自己も他者も衆生も仏も相互に渉入しているから不同にして同、不異にして異といわれます。これが円融無礙ということであり、個がくっついて1つに融合しているわけではありません。
大日経から「入仏三昧耶の真言」と呼ばれる真言を引いてます。これを三等無礙の真言とは呼ばないので「三等無礙なり。」で切って読んでいるとのことです。真言は漢字で書かれていますがインドの言葉の音訳です。最初の句の阿三迷(アサンメイ)は等しくないという意味で、無等といっています。底哩(チリ)が三で三迷(サンメイ)が等しいという意味なので三等といっています。三昧曳(サンマエイ)はいくつか意義があるようですがここでは平等の意味とみているようです。漢字から受ける印象に反してサンマエイには三の意味はありません。空海が三平等と注釈しているのは前の三等の三を引いてその三が平等とみているからといいます。
その三について空海は仏・法・僧の三宝や身・語・意の三密や心・仏・衆生を挙げています。心・仏・衆生が無差別というのは華厳経にあるそうです。これらをまとめて三法と言っています。著者はここでの焦点は心・仏・衆生だといいます。三法は平等で一体だが1つに融合しているのではなく、一にして無量、無量にして一であってしかも雑乱しない、というのはまさに帝網であるということになります。このためこの句を帝網重重名即身の教証としているのでしょう(なお真言の最後に付いている莎呵はソワカと読み、円満成就を願う呪文のようなものです。)。
著者は、空海は法華経にいう事事無礙にとどまらず、自己と他者と仏の無礙を説くのでこれを身身無礙又は人人無礙と呼んでいるそうです。それがすなわち曼荼羅の世界だといいます。
7.即身成仏義を読む④ 曼荼羅世界の風光
ここからは即身成仏頌の後半四句の解説に入りますが前半よりもかなり簡略な説明になっています。
大日経からの引用です。著者は、大日如来の種字は阿字であり本不生だから本初とは本不生を指すと言います。つづいて大日如来を「世が依る所」とも呼ぶといます。大日如来の説く説法は比べるものがない最上であるといいます。「本より寂にして」は説法について言っているように読めますが、著者は本来寂静のことであり大日如来の内証の世界のことだと解しているようです。
空海による解説です。経文の我とは大日如来です。一切を無数だといっています。本初というのは言葉自体の意味は時間的な初めのことのようです。空海の解説にある法とは心法すなわち心と知恵を指すようで、無数の衆生の心の本来的で多彩なはたらきをすべて知る智慧を得た根源的な覚者という意味でとらえているようです。これを本覚というらしく時間的に最初に覚った仏というのでなく時間を超えてそもそも覚っていると理解されてるそうです。理としては仏も衆生も本性は本来寂静なのだが衆生はこれを覚知していないので仏が理趣を説いて衆生に自覚させるといいます。
再び大日経からの引用です。「因果を楽欲する者」とは、原因があって結果があると考える人のことです。神などの実体的原因が結果を生み出すというような思想を指します。仏教の縁起はで因に対して縁が作用して結果が決まるので実体的な原因があって決まった結果を生み出すとような考え方はしません。「因は作者に非ず」です。因も縁も果もそれぞれ他のはたらきで成立するので実体としての原因はなく、そうすると結果も実体ではないので本性は空であるといいます。本性が空性であるがゆえに不生といわれます。
著者は、「真言と真言の相」の真言とは密教の教えで真言の相とは教えが明かす世界の真実相だといいます。「真言の果は因果を離れたり」は先に説明した因果論と因縁生起説の違いを述べたものでしょう。
第一句の六大の説明に用いた大日経と金剛頂経の偈文が法然具足の義を明かすとしています。もとより成仏している如来の内証智の世界に関する偈なので第一句の六大が第五句とつながっているわけです。
また別の経文が引かれます。仏の自性身から十六大菩薩をはじめ、五百億倶胝の微細の眷属が流出するというものです。倶胝とはインドの数字の単位で1千万ともいわれます。微細の法身金剛がどういうものかは良く分からず「微妙清浄の智慧」を表すとの説が紹介されます。さらにこの文がどのように教証になっているかは著者も良く分からないようで「自は他の因縁によって生じたものではないことを示し、性は法爾の意味があるから法爾所生を示すので法然具足の義にあたる」などの説を紹介していますが私には意味が良く分かりません。
ここでようやく句の解説になります。法然とは諸法の自然な在り様です。具足とは完成して欠けるところがないことです。著者は、成就とは既に成就しているという意味だと解しています。
薩般若とはインドの言葉の音訳です。これには旧訳だったり、より正確な音訳もありますが、意訳すれば一切智智です。智は決断と簡択だといいます。
五智は既に述べたとおり、三十七智は金剛界に如来菩薩の三十七尊があるのでその智、刹塵は無数でこれを一切と言っています。一切の諸仏の智ということでしょう。普通は一切智智を一切を知る智と理解するようですが空海は別の意味も込めているようです。
両句は第六句「心数心王刹塵に過ぎたり」と第七句「各五智無際智を具して」を指します。これまでしてきた第五句の解説の義が両句に書かれているといいます。決断が智なのは既に見たとおりです。集起とは一切智のはたらきが寄り集まったのが心だと言っています。軌持とは任持自性・軌生物解のことだそうで、それぞれ自身の本性を保ち続けるもの、事物の理解の基盤となるものという意味です。これに当てはまる事物が法と呼ばれます。心法、色法の法です。
「一一の名号」とは智・心・法のことで、これが人を離れないといいます。智とか心が人に具わるのは普通に分かりますが法もそうだといいます。識と色は別でないというこれまでの空海の思想の流れからすれば当然の理解でしょう。
人の数は無数だといいます。先ほどの一切智智の刹塵智のことでしょうか。一切智智には人だけでなく諸仏も当然含まれると思われます。一切を知る智という顕教の理解とは違うといいます。法界体性智等とは五智のことですがここでは五仏を表すと解されるそうです。心法のうち心王が五仏で心数(心所有法)は他の一切の諸仏に対応すると読むようです。
唯識思想では阿頼耶識は大円鏡智に、末那識は平等性智に、意識は妙観察智に、眼鼻耳舌身の前五識は成所作智に転じるといい、密教では第9識の菴摩羅識をたててこれが法界体性智に対応するとします。しかし空海は一つ一つの心王・心数におのおの五智が具わっているといいます。さらに無際智も具わるといいます。高広無数とは五仏や諸仏等が無数に存在すると解釈するのが一般的であるようです。著者は、1人の人間の中に多彩な智のはたらきが備わっていることも読みたいといいます。高広であれば縦横も含むので六大無礙や三密加持のはたらきも読み込みたいようです。
最後の句の解説です。またこれが即身成仏義の最後の文になります。所由というのは所以、理由という意味です。この文の場合は、一切の諸仏は何によって覚智の名を得るか、という疑問への答えが所由にあたります。
高台に置かれた鏡のように如来の心鏡が法界の一切を寂照して不倒不謬といいます。この比喩の解釈について、著者は静寂なる禅定に入っているとか、不倒は無分別智で不謬は後得智だとか、大円鏡智だけでなくあらゆる智を円鏡に寄せて述べたものといいます。そして円鏡のようにはたらく心は覚者である仏にほかならいといいます。著者は、第五句の法仏成仏の義に立ち返れば衆生にも同じことが言えるはずで、それが頌の後半四句の「成仏」の意味だとします。
8.即身成仏の本旨
ここからは著者による総括になります。3.で示された著者の考えがさらに敷衍されたものです。
先に述べた即身成仏の3つの読み方
①「即ちの身、成れる仏の義」(この身は既に成就している仏である。)
②「身に即して仏と成る義」(現世のこの身において仏となる。)
③「即やかに身、仏と成る義」(即時に仏となる。)
についてはこれまで見たところではそのすべてが空海の即身成仏頌に盛り込まれていました。
著者は、即身、即の意味はこれにとどまらないといいます。六大無礙常瑜伽については瑜伽とは相応であり相応相入は即の義なりといわれていました。第四句の重重帝網のごとくなるを即身と名づくというところの即がここに現れています。六大とは法界体性でありそこから生じるあらゆる身のはたらきが即という在り方をしているのです。
四種曼荼羅も三密である身・語・意とその作用に対応して四種であり全ての身の活動の全集合なのでした。著者はさらにその三密である曼荼羅のすべてが個の心身と環境とのセットとして一つの身に具わり、すべての他者の各身の三密と相即相入して不離なのが四種曼荼各不離の意味だといいます。
第三句で即を速疾というもむしろ無数の仏・衆生の三密・三業が相応して加持するということが重要なので、体・相・用のすべてにおいて同じことが示されているのです。著者はこれを人人無礙と言っています。
第四句で帝網の比喩が言われますが、これは固定したものではなくダイナミックな動態としてあるといいます。
著者は、即身とはあらゆる他者と渉入して一身に具することであり各身の活動が相互に影響し合っていることを言っているといいます。そうすると即身成仏は「(一切の他者と相)即せる身において成仏している」「(一切の他者と相)即せる身として成仏する」という読み方になるといいます。これは内証における曼荼羅そのものを表し、空海は自己と他者が重重無尽の関係を織りなすにとどまらず、その全体を自己とみているのだといいます。『秘蔵宝鑰』にある秘密荘厳心を謳う頌にも「刹塵の渤駄は我が心の仏なり、海滴の金蓮は亦た我が身なり」とありました。
『秘密曼荼羅十住心論』には次の文があります。
自心の源底は曼荼羅でありその数量を証悟するといいます。著者は、空海の思想はあらゆる他者を自己とし自己即曼荼羅であるとみています。もちろん他者もそれぞれ無量の三密を発揮しているのです。
9.雑感
即身成仏義の前半四句の即身の義は宗教というより哲学・思想の色彩が強いです。第一句から第三句までの体・相・用に関する説は存在の本性・現象・作用のどの面からみてもダイナミックな動態としての関係性が主であって、目に見え手で触れられるような物質的対象や現象も、自分の心の中に現れる心理的対象や現象も、ともに動的な関係性のネットワークのうちに自分が関係した部分を自分の立ち位置から自分の識(心)が受け止めるときに一面的にして見てしまう受け止め方にすぎず、それが実体なのではないのです。時間的な現象のつらなり・つながりも最初に実体的な原因があるわけではないのです。あるとき、ある何か(因)に対して別の何か(縁)が作用するとまた別の何か(果)が生じてくるように見えますが、その3つも固定的にそういう位置づけにあるというよりは別の何かに対しては因だったり縁だったり果だったりするのでしょう。何を因とみて何を縁をみて何を果とみるかも識の側の受け止め次第なのです。
以前読書ノートを書いた「すごい物理学講義」(著:カルロ・ロヴェッリ 河出文庫)では空間の量子がスピンネットワークを構成するとしていました。量子現象の原理である相関性もまた主客を超越する関係性の網の目でしょう。ロヴェッリ氏が同書で披露したループ量子重力理論に基づく情報理論の解釈は驚くほど空海の思想に似ています。
量子については粒性と相関性はどちらも原理として併存しているわけですが、空海の思想においても帝網と網の目に取り付けられた宝石であるところの個人は併存しています。帝網の全体性を認識したとしても個である自己の身心が消えてなくなることもないし、他の宝石(個)とくっついて融合することもありません。他方、個が個であるのは網の目の一部だからであって網の目から離れて自立自存する実体としての個というものはないのです。それがあると勘違いしてしまっているのが衆生の迷いであり、もとからそんなものがないことが本覚であり、自らの気の迷いを払うことができればそれが成仏であり、即身と表現されるところの自己と他者と世界の在り様をきちんと受け止めることだ、ということなのかなと思います。それだから成仏を表す後半四句の説明は駆け足になっているのでしょう。
密教がなぜ真言とか曼荼羅とか観相というイメージトレーニングを重要視しているのかについて私の想像では、ネットワークの全体性ということを言葉で表現するとたちまちそれは対象になってしまい全体性ではなくなるという難点があるからではないでしょうか。言語表現で説明されても説明を聞いた時点で他人事のようになってしまい、そういうものかで終わってしまうのです。西洋哲学でもヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」といったように、自分自身がその中に入り込んでいる全体性を本当の意味で言語で表現することはできないのではないかと思います。
大乗仏教もそうしたことに自覚的であったので理論を学ぶだけでなく修行を重視しているのでしょう。世界や存在を評論すること(戯論)が目的なのではなく自分が救われることが目的だからです。その上で、自己が全体性の一部であり、しかもその部分部分はぶつかり合うものではなく支え合う、無礙であるから自己に全体が入り込んでいるというところまで自覚できたら大悲といって自己の救済と他者の救済に区別がなくなり利他行に励むことになるのでしょう。このように言葉で語っても修行が足りない私にはそんな心境に到達することはできないのですが。
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