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沖縄空手は行く ペルー、ブラジル、のちキューバ|Report

ペルーへの日系移民は1899年に始まり、1906年に沖縄県民36人が初めてペルーに渡りました。現在、ペルーの沖縄系移民の数は約7万人、日系人の約7割だといわれます。

ペルーでは1935年(沖縄県海外協会秘露中央支部設立年)の5月30日に、支部の青年部の発足を記念して柔道、唐手、相撲等の武術大会が開かれました。翌年の役員改選の記録に「唐手部主将 松川国春」の名前が載っています。このときにもリマ市内で武術大会が行われ、『ペルー移民75周年記念誌』には相撲の決勝戦の模様の記述がありますが、唐手については詳細が明記されていません。以後しばらくはこうした武術大会が沖縄県系移民のイベントとして開かれていたようです。

他にも、1931年に日本からの移民船上で催された懇親会の余興の様子として、「ナイフアンチに肝を冷やしたり」と『リマ日報』で報道されています。空手演武が行われた証左だとみられます。

沖縄空手会館の展示より(2023年3月に撮影)

ブラジルへの移民は、1908年に神戸港を出てサンパウロ近郊に着いた「笠戸丸」の781人が最初で、そのうちの325人が沖縄県出身者でした。沖縄系移民数は約15万人で、日系人全体の1割ほどのようです。

移民した当初のブラジルでの沖縄空手の様子は調査できていません。わかっているのは戦後からで、新里善秀と与那嶺育孝という二人の人物が主な伝道者です。

新里善秀は小林流で、古武道にも明るく、サントス市を拠点に国内外へ空手道場を広げてきました。南風原町宮城の出身で、移住したのは1954年です。2008年にお亡くなりになりましたが、教え子は1万人にものぼるとされ、アルゼンチンのパンパ州の公園内に記念碑が建立されているとのことです。

剛柔流範士である与那嶺育孝は、八木明徳を師と仰ぎます。20歳の1961年に移住し、サンパウロ市ヴィラカロンをホームとして空手活動を続けてきました。「練習と鍛錬は違う。鍛錬をしないと技が軽くなって、腰の据わらない空手になってしまう」とのことです(ニッケイ新聞記事より)。剛柔流琉翔会の瀬名波重敏は竹馬の友です。


キューバへの日系移民の始まりは1897年とも2007年とも言われています。日系人総数1200人ほどで、県系人も少なく、その多くがIsla de la Juventudという島に住んでいるようです。2000年にキューバ沖縄県人会が発足しています。

ここからは主に『ゲバラの国の日本人――キューバに生きた、赴いた日本人100年史』(ロランド・アルバレス、マルタ・グスマン著、2005年、現代書館)に基づきます。

キューバの沖縄空手の祖は古波蔵政昭とされます。もともとはマグロ漁の技術を伝えるために赴任した技師です。1964年にキューバに着任し、少林流空手を伝えます。1965年に弟子入りを志願した七人のキューバ人青年に指導をはじめ、翌年にはハバナ市のレストラン2階を道場として指導を本格化させます。彼は技師としての契約が終了したあともキューバに残り、指導を続けました。七人のうちの一人で、特殊部隊の将校のラウル・リソはキューバ空手の最高指導者と呼ばれるまで成長します。

古波蔵は自分が教えることがなくなると、同僚の小林誠基を頼り、日本から彼の師匠の池田奉秀を招きます。鹿児島経済大学で保勇に師事した池田の空手の源には、喜屋武朝徳の拳技があります。池田は常心門少林流空手道を興し、この流派がのちにキューバ空手の主流となります。現在、キューバ空手の人口は3万人を超えるとのことです。

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