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なんだかなあ……とやるせなくなる──『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』読書感想文

都を戦場にして11年もの間争われた日本史上最大の内乱の一つ。
本書では、当時、大和国興福寺の別当であった経覚・尋尊の二人の日記を中心に、乱前、乱中、そして乱後の経緯が緻密に書かれている。

特有の権力を持つ二人はもちろん乱の渦中の人物たちとも交流があるのだが、山一つ隔てていわば対岸の火事のように応仁の乱を見つめている。
時に巻き込まれつつ、情勢を見極めながら、決して自分の方に飛び火しないように立ち回る様はしたたかだなあと思う。


相関が複雑すぎてわからん……

畠山氏の内紛に乗っかって室町幕府における覇権勢力である細川氏に新興勢力の山名氏が挑んだという構図が説明としては一番わかりやすいのだが、AvsBとわかりやすくいかないのがこの乱の意味がわからないところ。。。
幕府将軍(主に義政)の日和見に見える態度もそうだし、同族内でも西軍についたり東軍についたり、時間を追っていつの間にか別陣営に属したり、そもそもどっち派なのかもわからなかったり。

義教時代の圧政・粛清・将軍暗殺など、前々から蓄積された因縁が絡み合った対立構図が「管領家の相続争い」というわかりやすい構図に乗って発露しただけだったりして、結局どこが発端かもわからないし、誰のどの決断や動きがこの乱を焚き付けたのかももはやよくわからない。

そのくらい、ものすごくいろんな要素が絡み合っている。
なので、読んでも相関関係が複雑すぎてようわからんwww
こういうのでまとめて欲しい。絡み合いすぎて図式化無理だと思うけども。

「すみだ水族館」ホームページより。これはすごい力作!!
https://www.sumida-aquarium.com/sokanzu/

誰も長引かせたくなかった戦い

周知の通り、応仁の乱は1467年から1477年までの約11年続いた。
主戦場になった都は当然のように、荒廃していく。

戦乱の進展につれて、京都のあちこちで「溝」、すなわち要害が築かれていった。東西両軍は公家たちに堀の築造を手伝わせた。公家たちが自衛のために屋敷の周囲に堀を掘ることもあった。

選局打開のための新戦力として浮上したのが足軽である。足軽は甲冑などを着けない軽装の歩兵である。 〜中略〜 足軽たちは機動力を活かして略奪や放火によって敵軍を疲弊させた。しかし、略奪や放火は敵軍だけでなく、京都在住の公家・寺社・庶民にも大きな被害をもたらした。

足軽の実態は慢性的な飢饉状況の中、周辺の村落からの流入により新たに形成された都市下層民だった。また、足利義教以降の将軍の恣意的な裁定によって没落した大名家の牢人などの参加によりそれらの下層民は土一揆として組織された(逆に大名家に抱えられて土一揆を討伐する側になる者もいた)。

このように世も末な状況で、10年以上も戦いが続く。
誰もが終息させたいと思っていたのに違いないのに、コミュニケーションのすれ違いやタイミングの不一致でだらだらと。意味がわからないし信じられない。
実際、どうにもならなかったからこの後戦国時代に突入していくのだろうけど……なんだか想像を絶する。
乱の間、都の人はどうやって生きていたのだろうか。

興味深いなと思ったこと

現代から見てだいぶ考え方が違うな、だったり印象に残ったところを。

名字を籠める

寺社に逆らったものへの懲罰として”呪詛”を真面目に行っているという点で印象に残った箇所。
名字を籠めるとは、寺社に反抗した者を特定する「名」を紙片に書きつけ、それをどこかに封印し、呪詛する行為を意味するとのこと。これは興福寺内の意思決定機関において一定の手続きに則って実施されていた公的な刑罰であるらしい。

名を籠められた者には、発病・発狂・急死といった災いがふりかかる。この時代、悪病にかかって頓死することは珍しくないが、名を籠められた者が急死したら呪いのせいだと人は考えた。

現代人にはない感覚だなと思う。

日本最古のダンスホール

乱の最中であるにもかかわらず、古市胤栄は、自邸の娯楽・接待用の風呂釜の修理のために小屋を仮設し、その中で踊れるようにして有料で解放した。周辺の百姓に人を出すように命じ、サクラとして動員したというのだから面白い。しかもその当時、大和では念仏風流禁止令というものが出ていたため、踊ることに飢えていただろう住民たちのニーズを汲んでいるというマーケティング力のすごさ。

古市胤栄の興行は大成功で、3000人もの人が集まったとのことである。彼らから六文ずつ取り立てたとすると、十八貫文になる。 〜中略〜 胤栄は文化的な催しを企画する才に長けていたようである。

どの時代でも、どこにでも、経営企画の才覚を持つ人物はいるんだなあと単純に感心した箇所。

和睦の雰囲気を生んだ要因

後期にはデマなども交ってはいたものの和睦の動きが見え、両軍に終戦の機運が高まっていたのは事実であり、その和睦の雰囲気を生んだ最大の要因は士気の低下であると著者は見ている。

(1472年正月に西軍内で開催された毬杖という球技遊びの席で)その勝敗をめぐって喧嘩になり、双方合わせて80人の死者・負傷者が出たという。長期在陣のストレス発散のためにゲームをやったのだろうが、逆効果になってしまったわけで、厭戦気分の蔓延をうかがわせる。彼らを率いる大名たちが出口戦略を考えるのは当然といえよう。

本当に血の気が多いな……。
しかし両軍のトップ細川勝元・山名宗全の引き方がまずかったために、乱は首脳不在になることにより、さらに継続することになるという地獄。

宗全と勝元が真になすべきだったのは、諸将を説得して正式な講和交渉を始めることだったが、彼らはおのおのの政権を投げ出す形で辞任してしまった。諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだら続いたのである。

現代の政治家や企業トップの進退を見るようで、忍びない。いなくなればいいってものでもないだろうに。

*   *   *

本書は応仁の乱とその周辺の物事について経緯を追ってとても丁寧に書かれているのだが、関係する人物の多さと固有名詞が錯綜して、素人に全貌が掴み切れるわけなかった。
……ということはある程度予測していたので、並行してこれを読もうと思っていたのに、注文後に欠品連絡……無念です。


#日本史
#応仁の乱
#読書感想文

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