研究者としての価値観を変えたフレッシュホップの香り #021 村上敦司
村上敦司
Murakami Atsushi
キリンビール株式会社リサーチフェロー
BrewNote遠野 店主
プロフィール
岩手県紫波郡紫波町出身。岩手大学農学部農学研究科修了後、1988年にキリンビール入社。ホップの品種改良に携わり、「一番搾り とれたてホップ生ビール」などを開発する。2000年にホップの研究で農学博士号を取得し、2010年には、世界で6人しかいないドイツホップ研究協会の技術アドバイザーに就任。2020年、キリンビール株式会社リサーチフェローに就任し、遠野で副業としてBrewNote遠野を開業。
遠野では、8月半ば頃からホップの収穫が始まります。
キリンビールの主幹研究員だった「ホップ博士」こと村上敦司は、遠野のホップ畑に幾度となく通っていました。特にホップの収穫時期になると、頻繁に遠野へ通い、ホップの生育状況をチェックしていたのです。
IBUKIという名前のその遠野産ホップが使われるビールのひとつが、「一番搾り とれたてホップ生ビール」。2002年に「毬花 一番搾り<生>」という名称で販売開始し、2004年からは現在の商品名で販売しています(以下、両商品名とも「とれたてホップ」と表記)。「岩手県遠野産ホップ使用」と書かれているため、「遠野の地ビール」だという人もいるほど、地元遠野の人も楽しみにしているビールです。
「とれたてホップ」の特徴は、そのホップのフレッシュな香り。通常のホップは乾燥させてペレット状にするためフレッシュさは失われてしまいます。一方で、「とれたてホップ」に使われる遠野で収穫したホップは、乾燥させずに急速冷凍されるため、収穫したてのホップの香りがビールになっても感じられるのです。
しかし、「とれたてホップ」が生まれる前は、ホップの香りはほとんど注目されていませんでした。ホップはビールに苦味を付けられればいい。そんな時代にあって、香りに焦点を当てた「とれたてホップ」を開発したのが、この村上なのです。
とれたてのホップを使うことで日本産ホップに付加価値を付けた
「最初は『ホップ臭』だって言われたんですよ。『ホップ香』ではなく」
ホップの香りがほとんど注目されていなかった1999年頃のこと。ホップの香りについて研究をしていた村上が、とれたてのホップを使って試しに醸造してみたところ、ホップのフレッシュな香りのあるおいしいビールが出来上がりました。
研究の結果、とれたてのホップと通常使用している乾燥させたホップでは、水分量の違いだけでなく、熱が加わることで香り成分に大きな違いがあることがわかったのです。例えるならば、とれたてのぶどうと干しぶどうの違い。干しぶどうは干しぶどうなりの良さがありますが、とれたてのぶどうが持つフレッシュさはありません。ホップにもそのような違いが出てくるのです。
しかし、キリンビールの社内では、ホップ臭だという評価でした。それほどまでに、ビールに香りは求められていない時代だったのです。
村上は1988年にキリンビール入社。大学・大学院では植物の品種改良を学び、キリンビールでは入社してすぐ日本産ホップの品種改良に携わりました。その目的は苦味成分の多いホップを作ること。
当時は、海外産に比べ日本産ホップは高価でした。しかし、日本産ホップの毬花ひとつあたりの苦味成分を増やせば、ホップの使用量は少なくてすみます。そうすれば、高価な日本産ホップでも、海外産ホップに太刀打ちできると考えたのです。
ところが、次第に苦味成分の多い海外産ホップが安く輸入されるようになってきました。そうなると、もう日本産ホップは苦味と価格だけでは勝負できない。村上の研究も、苦味から香りへと変わっていきました。
村上がとれたてのホップを使ってビールを醸造してみたことも、そういった流れからでした。村上が香りの研究を続けていくことで、ホップ臭という社内の評価も徐々に変わりはじめ、とれたてのホップを使ったビールはおいしいということが理解されるようになっていったのです。
重要なのは、とれたてのホップで造るということ。とれたての海外産ホップを冷凍で輸入することも検討したものの、コストがかかりすぎて現実的ではない。となると、日本産ホップでビールを造れば付加価値を付けられるのではないか。そういった考えもあり、2002年にとれたてのホップを使ったビールがついに商品化されることになります。
それが、「とれたてホップ」でした。
研究者としての価値観を変えた原体験
「とれたてホップ」は、ホップの香りを意識させるという意味で、日本の大手ビール会社では初めての商品でした。その一方で、村上が開発したビールでありながら、村上自身の価値観を変えてしまうビールでもあったのです。
「当時、山手線に乗っていたら、「とれたてホップ」の中吊り広告を見ていた人たちが、『このビール、すごくいい香りがするんだぞ』って話していたんですよ。その会話を近くで聞いていて、鳥肌が立ってしまって」
それまで村上は、研究者として論文を書いて学会に認められ、いずれは大学の講師もできるようになりたいと思っていました。しかし、山手線での見知らぬ人たちの会話を聞いたことで、研究者としての価値観が一変。
「自分にとっては、お客さまが喜んでくれることが重要なんだと気づきました」
ただ研究するだけではなく、その成果や技術を使って、誰かに喜んでもらう。それが、村上の大切な原体験とも言えるものでした。
また、「とれたてホップ」は醸造家にとっても特別なビールのひとつ。とれたての生ホップは水分量が多くベタつくため手作業で麦汁に投入することになります。ほとんどが機械化・自動化されたビール工場の中で、唯一と言ってもいいくらいの手作業。醸造家たちが一致団結して作業に当たる一大イベントでもあります。
村上がビールを開発し、遠野のホップ農家が大切に育てたホップを使って、醸造家が素晴らしい味わいに仕立て上げる。「とれたてホップ」を造りあげる人たちの思いが、営業をはじめとしたキリンビール社員へ伝播し、お客さまにも伝わっていく。
「このビール、すごくいい香りがするんだぞ」
そんなお客さまの声が、また村上やホップ農家、醸造家へと届く。そして、またいいホップを作ろう、またいいビールを造ろうと、思いが連鎖し、遠野市民もそれを誇りに思う。「とれたてホップ」はそんなビールなのかもしれません。
MURAKAMI SEVENは次の「一番搾り とれたてホップ生ビール」を造るため
村上のことを語る上で、忘れてはいけないホップがもうひとつあります。それがMURAKAMI SEVEN。その名前からもわかるように、村上が育種した品種です。
村上は、基礎研究の材料として1991年に交配させた品種をいくつか保存していました。香りがどうやって遺伝していくかを調べるための材料で、それらのホップを使ってビールを造ってみたところ、MURAKAMI SEVENがいちじくやミカンのように他のホップ品種には見られない日本らしい香りを出していたのです。
とはいえ、その当時からMURAKAMI SEVENという名前が付けられていたわけではありません。
「東日本大震災後、自分たちができることをやろうという世論になっていましたよね。私にできることと言ったら、やはりホップなんですよ。なので、『とれたてホップ』の第2弾を新しい品種のホップで造ったら東北の皆さんが喜んでくれるんじゃないか、と考え、2011年から苗を増やしていったんです」
MURAKAMI SEVENという名前が付けられたのはその後。オリジナルの苗が7番目の畝(うね)に植わっていたため、村上の名前とともにMURAKAMI SEVENと名付けられました。今でも岩手県奥州市江刺区のホップ畑に、MURAKAMI SEVENのオリジナルの苗があります。
MURAKAMI SEVENを使ったビールとしては、キリンのクラフトビールを扱うスプリングバレーブルワリーより、「MURKAMI SEVEN IPA」が2019年に数量限定で販売されました。それが好評だったため、今では飲食店にて通年で楽しめるようになっています。
自分がやりたいことをやればそこに役割が出てくる
2020年春、村上は以前から構想を練っていたカフェ&バーを遠野に出店します。その名もBrewNote遠野。村上が趣味として買い集めたジャズやクラシックのCD・レコード約6,000枚を聞きながら、ビールやコーヒーが飲める店です。
ホップ研究者として幾度となく通った遠野ですが、村上は最初から遠野で店を出す想定ではなかったと言います。
村上の実家は、盛岡市と花巻市の間にある紫波町。退職後は実家に戻って、介護しながら店を出すという考えはあったものの、出店場所には悩みがありました。紫波町に出店するのは何か違うなと思ったり、盛岡だと店の初期投資が高額になったりする。そんなときに耳にした、遠野で田村淳一が株式会社BrewGoodを立ち上げるという話。
「そのとき、視界がぶわっと広がりましたね。遠野があるじゃん! と」
そして、株式会社BrewGoodのサポートを受け、2020年6月5日にBrewNote遠野がオープン。
村上は、「BrewNote遠野の空間に共感してくれるお客さまを見ることが嬉しい」と言います。それまではホップの伝道師として遠野に関わっていましたが、いまは違う形で遠野に関わるようになりました。さらに、遠野には新しい価値が生まれていることも感じています。
「バスでホップ畑に行って楽しむという企画がありますけど、実はその価値観がよくわからなくて(笑)。でも、自分の価値観ではわからない新しい価値観が生まれているんだろうなと思っています。何が生まれるかわからないワクワク感がありますね」
その何かが生まれそうな遠野にあって、ホップ博士としての村上の役割にも期待したいところ。若いホップ農家が来店してホップについて教えを請うこともあり、村上が出店して、村上がそこにいることで、周囲にいい影響が出てきています。
「遠野の役に立てるのであれば、立ちたいですよ。ただ、その前に私がやりたいことをやりたい。それが前提。その中で何か自分の役割が出てくるんじゃないかな」
村上の遠野での役割が見えてきたとき、ビールの里はまた一歩先へ進んでいくのかもしれません。
ホップの里からビールの里へ VISION BOOK
https://note.com/brewingtono/n/nd0f3fe5f11c6
文
富江弘幸
https://twitter.com/hiroyukitomie
企画
株式会社BrewGood
https://brewgood.jp/
info@brewgood.jp
内容全ての無断転載を禁じます。
2020年8月時点の情報につき内容が変更されている場合もございます。予めご了承ください。
村上が開発した「一番搾り とれたてホップ生ビール」は2022年も発売が決定しました。発売日は11月1日(火)です。村上のストーリーを思い浮かべながら飲んでいただけると嬉しいです。
遠野市の個人版ふるさと納税で寄付の使い道に「ビールの里プロジェクト」を指定いただけると、私たちの取り組みを直接支援することができます。
「一番搾り とれたてホップ生ビール」は遠野市のふるさと納税の返礼品にも選ばれております。
寄付金は下記に活用されます。
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