アナログ派の愉しみ/映画◎濱口竜介 監督『ドライブ・マイ・カー』

クモ膜下出血に
妻を連れ去られた男は


「音が死んだ日、出がけに彼女が『帰ってきたら話がしたい』と言った。柔らかな口調だったけど、決意を感じた。なんの用事もなかったけど、ずっと車を走らせ続けた。帰れなかった。帰ったら、きっと同じ僕たちではいられないと思った。深夜に帰ると、音が倒れていた。救急車を呼んだけど、意識はそのまま戻らなかった。もしほんの少しでも早く帰っていたら……そう考えない日はない」

 
広島県から北海道へと走り続ける車のなかで、主人公の家福悠介(西島秀俊)が運転席の渡利みさき(三浦透子)に向かってそう語りだす。このセリフに出くわしたせいで、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)はわたしにとってかけがえのない映画となった。

 
舞台演出家兼俳優をなりわいとする悠介は、脚本家の妻・音(霧島れいか)と結婚して20年あまりが経つが、かつて幼いひとり娘を肺炎で失ってから、ふたりのあいだに暗い闇がわだかまっているのを感じていた。いまでも口先では繰り返し愛を囁きあい、昼夜となく身体を重ねあわせながら、他方で、音がかかわりのある男優たちともセックスしていることを見て見ぬふりをしてきた。そうした日常のなかで、彼女が世を去ってしまう。実は、村上春樹の原作小説では子宮ガンが死因となっていたのが、映画ではクモ膜下出血に改変されたことにより、上記のような突発的な死のシチュエーションが生じたのだ。

 
私事にわたる話ではあるけれど、1993年11月、わたしの母親も父親と住んでいた家でクモ膜下出血の発作を起こした。その部位や規模によって程度の差はあれ、脳動脈瘤の破裂にともなって大脳の血流が阻害されるため一刻も早い対処が求められるところ、ようやく父親が勤め先から帰宅したのは数時間後で、さらにトイレで倒れた母親を見出すまでにしばらくかかり、救急車で病院へ運ばれたときにはもはや手の施しようがない状態で、集中治療室に入ったまま2週間後に57歳で他界する。こうした顛末に対して主治医は、「この病気は患者さんよりもご家族のみなさんにとって辛いものです。ご本人は発作が起きたとき瞬間的に強いショックを受けたでしょうが、あとはまったく痛みも苦しみもありません。でも、ご家族のみなさんからすると、何ひとつ言葉を交わすこともできないままにお別れしなければならないのですから」と説明してくれたが、実際、あのときわたしたちを見舞ったとめどない煩悶は、映画のなかの悠介と重なるものだった。

 
音と死別してから2年後、悠介は広島県の国際演劇祭でチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出責任者に招聘され、アジア各国から集まった俳優たちとともに、ふた月をかけて稽古と上演に取り組むことになる。この間、事務局から専属ドライバーとしてあてがわれたのが年若いみさきで、悠介は愛車「サーブ900ターボ」を託すことに難色を示したものの、その運転技術が予想以上のレヴェルで、さらには自分のひとり娘がいまも生きていたらちょうど彼女の年齢のはずだったこともあって次第に打ち解けていく。

 
多言語上演の稽古を積み重ねて、いよいよ本番が間近に迫ったとき、かつて音と関係のあったらしい主演男優がオフタイムに暴力沙汰を引き起こして警察に逮捕され、このうえは公演を中止するか、みずからが代役となるかの決断を迫られた悠介は、自己の内面を整理しようと、みさきの運転によって天涯孤独の彼女が生まれ育った北海道へ向かうことに。その道すがら、かれが亡き妻との関係について重い口を開いたのが冒頭のシーンだ。そして、まだ泥まみれの雪が残る辺鄙な土地に辿りつくなり、あたかも堰を切ったように思いの丈をぶちまけた。

 
「僕は正しく傷つくべきだったのにやり過ごしてしまった。本当は深く傷ついていたのに。気も狂わんばかりに。でも、だからそれを見ないフリをし続けた。自分自身に耳を傾けなかった。だから、僕は音を失ってしまった。永遠に。いまわかった。僕は音に会いたい。会ったら怒鳴りつけたい。責め立てたい。僕にウソをつき続けたことを。謝りたい。僕が耳を傾けなかったことを。僕が強くなかったことを。帰ってきてほしい。生きてほしい。もう一度だけ生かしたい。音に会いたい」

 
そんな悠介をみさきが抱きしめると、かれはこう告げてやっと口をつぐんだ。

 
「生き残った者は死んだ者のことを考え続ける。どんな形であれ。それがずっと続く。そうやって生きていかなければならない」

 
なんとまあ、月並みな結論だろうか。しかし、それは母親がクモ膜下出血に連れ去られてから30年ほどの歳月が流れ、わたしたち家族がいまだに口にできずにいた言葉だったのである――。


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