アナログ派の愉しみ/映画◎湯浅憲明 監督『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』

それは現代によみがえった
日本古来の神話なのか


わたしの記事を楽しんでくださっている読者からリクエストを頂戴した。それも珍しいことに、複数の方から相前後して、ガメラについて書いてほしい、と――。まったく想定外だったものの、どうやらこちらが思う以上に重みのあるテーマらしい。そこで、かつて小学生の時分に見聞したシリーズ作のうち、最も記憶に残っていた湯浅憲明監督の『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)をレンタルビデオであらためて観てみたところ、確かにすっかり考えさせられてしまった。

 
ガメラとは名前のとおりウミガメが巨大化した「正義の味方」の怪獣で、作品ごとにユニークな悪役とバトルを繰り広げるのだが、ここでは富士山の爆発によって目覚めた身長65メートルの吸血コウモリの怪獣、ギャオスがライヴァルというわけだ。要するに、先輩格のゴジラの向こうを張って、子どもにもより親しみやすい動物をモチーフにした異種格闘技のようなものだけれど、重要なポイントは、本来四本足で這うべきガメラが着ぐるみに入った人間によって演じられるため、どうしても二本足で直立して振る舞わなければならないことだ。頭部を高々と甲羅から突きだして仁王立ちとなった姿に、どうしても男性のシンボルのイメージを重ねあわせてしまうのはわたしだけではないだろう。

 
また、もう一方のギャオスはといえば、頭頂部がおしゃれなハート形をしているくせに獰猛な性格の持ち主で、首の骨格の特殊な音叉の構造により、口を開けばけたたましい絶叫とともに超音波光線が発せられてあらゆるものを切り裂いてしまうという、いかにも女性の一面をデフォルメしたような怪獣に他ならない。すなわち、この映画はガメラとギャオスの形象を用いて、「男性なるもの」と「女性なるもの」が血みどろになってぶつかりあうドラマを描きだすのだ。おそらく、半世紀前のわたしも小学生なりに何かしらただならぬ凶々しさを感じ取って、ひときわ印象に刻み込まれたのだと思う。

 
だが、それにしても、なんだって「男性なるもの」と「女性なるもの」がかくも激烈な戦いを演じなければならないのだろう? ひとつの仮説を示してみたい。

 
 ここに、伊耶那岐(いざなき)の命見畏みて逃げ還ります時に、その妹(妻)伊耶那美(いざなみ)の命「あに辱(はぢ)見せつ」と言ひて、〔中略〕みづから追ひ来ぬ。しかして、千引きの石(いは)をその黄泉つひら坂に引き塞(さ)へ、その石を中に置きて、おのもおのも対(むか)ひ立ちて、事戸を度(わた)す時に、伊耶那美の命の言(の)らししく、「愛(うつく)しきあがなせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」しかして、伊耶那岐の命の詔(の)らししく、「愛しきあがなに妹の命。なれしかせば、あれ一日に千五百(ちいほ)の産屋立てむ」ここをもちて、一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人生るるぞ。

 
『古事記』上つ巻の一節だ。高天の原に初めて誕生した夫婦のカップル、伊耶那岐の命と伊耶那美の命はつぎつぎに日本の国土と神々を生み落として、火の神を産んだことで伊耶那美が死ぬと、伊耶那岐は黄泉国まで訪ねていったものの、その醜悪な姿を目の当たりにしたとたん逃げだし、伊耶那美は怒り心頭に発してあの手この手で攻撃を仕掛けてきたあとに続く部分を引用した。かろうじて通路を巨岩でふさいで脱出が成功すると、伊耶那美は「これから国の人々を毎日1000人ずつ殺してやる」と告げ、伊耶那岐は「それなら毎日1500人ずつ生まれるようにしてやろう」と応じたという。

 
つまり、「男性なるもの」と「女性なるもの」が激烈な戦いを繰り広げたことで、日本列島において人々の生と死による新陳代謝がはじまった、と『古事記』は伝えているのだ。これを敷衍するなら、伊耶那岐と伊耶那美の化身としてガメラとギャオスは昭和40年代によみがえり、ときあたかも高度経済成長のまっただなかにあった日本社会にカツを入れ、その人口構成を強靭化する使命を果たしたのではなかったか。さらにいえば、この映画から約30年後、平成版『ガメラ 大怪獣空中決戦』(金子修介監督、1995年)では、ガメラとギャオスのカップルは太古に水没したアトランティス大陸が出自とされて、日本の神話との糸が切れてしまった。こうして、われわれの社会はひたすら少子化・人口減に向かうことに……。

 
さて、リクエストをいただいた読者各位の要望には応えられただろうか?
 

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