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不読の読について考えてみることは決して無駄ではない(読書論エッセイ)

 花村太郎著『知的トレーニングの技術』で、読書術の秘中の秘、不読の読について、語られている。最初に読んだときから、この考え方に共感を覚えた。
 読書という行為は、ちゃんと読もうとすると、ある程度の知的体力がいると思う。少なくとも、私の場合はそうだ。書物を絶対に読みたくないときがある。座右だと自認している書物でさえ、例外ではない。
 書物を読みたくないときとは、ぼんやりと考えごとをしているときだ。手が離せない時もある。歩いているときにも、書物のことをほとんど考えてないことが多い。博物館や美術館にいるときでは、書物を買うことがあっても、読むことはほとんどない。展示の解説などは読むけれど、本は読まない。

 また、日々の日常で、書物を集中して読んでいる時間は、合計しても、4時間か3時間くらいで、日によっては、2時間くらいの時もある。

 つまり、私自身、読書は好きではあるが、書物を読むベストなタイミングというものがあり、思索の時間を確保することに重きを置いているということ。
 ここで、読書術の秘中の秘、不読の読に繋がる。すなわち、「不読の読とは、万巻の書物を読破することなど、到底無理なのだから、書物ばかりに知恵を求めるのではなく、思索者になろう、という最高の読書戦略である。」
 私なりに再解釈するとこうなるけれど、不読の読は、ニーチェの言葉、「多読は思索を妨げる」とも通じている。

博学な書物を眼のあたりにして。ーわれわれは、書物の中にうずくまり書物の刺激を得てはじめて思想に達するような連中には、属さない。ーわれわれの習慣とするところは、野外で思索することにある。しかも、歩きながら、跳んだり、登ったり、踊ったりしながら、何よりも好んで、孤独な山中やあるいは海辺の近くなど、そこでは道さえもが熟慮に耽る趣を呈するような場所で、そうするのである。
          
          (『楽しい知識』)『知的トレーニングの技術』より

 こういった点から、私は、博読家や読書家に憧れない。むしろ、読書家とは、読む量(絶対量)によって決まるのではなく、いかに良質な書物をしっかりと血肉として、創作や著述や人生や公的活動に生かしているかという一点に関わっているのではないかと思う。
  また、書物とは、紙の書物だけではないとも思う。電子リーダーのことをいっているのではない。世界や人間自体も、内包している知恵(叡知)自体は、書物と変わらないか、それ以上の価値があるといえる。つまり、中身を読み込むまで理解がしっかりとできないという点では、世界や宇宙、人間も、書物と同じ、ブラックボックスである。世界や宇宙、人間というブラックボックスから、二次的存在として、書物というブラックボックスに叡知的情報が移行され、記録・保存されているといっても過言ではないと思う。書物の価値もそこにある。

 書物には、言葉が詰まっているけれど、その言葉とは、遡れば、人間の思考や思索、会話や講演などを含む、話し言葉からきている。言葉を生み出した、人間に対する理解なくしては、書物の価値は減じてしまう。書物だけを拠り所にして、人(聖賢)を見なければ、真の理解は得られない。つまり、書物を書いた人は、書かれた書物以上のもの、すなわち経験知をもっている。

 読書をするのは愉しいけれど、読んでいる最中に安堵感が生じるのは、他人の思索に身をゆだねているためである、というようなことを言った哲学者がいた。たしか、ショーペンハウエルかな?

 忘れたけれど、ショーペンハウエルは、読書中心主義を「他人の思想の運動場」だと皮肉ったという話があった。先ほどのニーチェの不読の読とも通じている気がする。しかし、私は、これらの指摘を聞いたとき、不思議と納得、いや、共感してしまった。

 ショーペンハウエルは、読書自体を批判しているのではなく、あまりに読書ばかりして、思索、つまり思考や考えが鈍くなってしまい、考えることをやめてしまう人に対して、注意しているとも読める。

 というわけで、本を読むことで、何かを得ようとするのと同時に、世界、人間という書物を読むことも、同じくらい大切だという考えを語ってみました。

ご清聴ありがとうございました。








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