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【エッセイ】あの日、私と京都は。その2/午前3時、坂の上のパン屋で。

学生時代、私の目覚ましは2種類のセッティングがあった。

ひとつは8時。月水金。
1コマ目の授業に間に合うように。それなりに真面目である。

もうひとつは、3時。
午後ではない。朝の3時だ。

ピンパラピンパラピンパラピ

「・・・・・・」

折りたたみケータイをパカッと開けて、時刻を確認する。
火曜、午前3時。辺りはまだ暗い。ていうか布団に入ったときと同じ、完全な夜だ。
学生的には、そろそろ酔いつぶれて締めに入る深夜27時。これから帰路につく者もいるだろう。

ベッドからごとんと落ちて、床に置いてある服をつかむ。
頭は夢の続きを探している。でも手足は勝手に動いて、着々と準備をしてくれる。三ヶ月もすれば、体が覚えてくれるのだ。慣れは強い。
コップ一杯の野菜ジュースを流し込み、コートにマフラーの完全防備で出発する。
一歩出れば、底冷えの京都。

赤い自転車にまたがり、重いダイナモライトがうぃんうぃん照らす中、今出川のゆるやかな坂を東へ行く。
大きなお地蔵さんがある、白川通りへ貫く滋賀越道をナナメに上っていくと、坂の向こうにぽつんと電気のついた緑の屋根が見えてくる。

立ちこぎで上りきる頃には、耳の奥は冷気で痛むものの、中はぽっぽと熱くなっている。
角に自転車を停め、勝手口を開ければ、ふっと視界が真っ白になる。
ホイロやオーブンのあたたかな蒸気で眼鏡が曇るのだ。

「おはようございます」

「おはようさん」
「おはよう」

煌々と照らされた作業場に、店長、奥さん、仕込みのメンバー。
外は夜でもここはしっかり朝だ。

店長は真っ白いエプロンと帽子をつけて、板場で生地をこねている。
私は奥でエプロンをつけて、作業に混じる。

「今日は冷えるなぁ。寒ぅなかったか?」

板場の下に置いた何キロもの生地を、膝をつかって持ち上げて流す。パンチング。

「そうですねぇ。でも自転車こぐと意外にあったかくなります」
「さよか。来るとき上りやもんなぁ」

パンチされてしゅんと波打つ生地を、またバケツに戻して次の生地を持ってくる。
そのうちビーッビーッとタイマーが鳴り、生地の入れ替えが行われる。

「おかあはん。今日の注文いくつやったかいな」
「はいはい。待ってぇな」

店長の声で、奥さんが壁に手書きで貼られたメモを確認する。

「クリームパン10個。あんぱんも10個。クロワッサンとチョコクロが8つ」
「10個か。店売りの少し減らそか。予約は?」
「いつもの鈴木さんと牧田さんがあるわ」
「ん。今日は先に菓子パン焼くわ。冷めたら袋詰めあるさかいな」
「わかりました」

生地や焼き方には一定の順序があるが、その日の注文によって前後する。
パン生地は何種類もあり、フィリングも違い、同時並行で進めながらも常に機械と手を動かしている。
その間にも絶えずパンは生きていて、むくむく成長する。

あらかじめ、前日に生地を仕込んで冷凍しておけば、もうちょっとラクになるらしい。
でも店長は、その日仕込んだ生地をその日に焼くというスタイルを大事にしている。だからこうして、毎朝超早くから生地をこねているのだ。寒い日の朝、暑い夏の日、その日毎に変わるパン生地の声を聞きながら、ふわふわの白、さらさらと薄茶色した麦の粉からパンは生まれる。

そうして手を動かし、店長とたわいもない話をし、そのうち、私の頭も段々と目覚めてくる。
その頃には、板場は分単位の忙しさだ。あっちこっちで色んな音のタイマーが鳴り、次は私よ私はどう?と、様子を見てもらいたがる。
彼らの状況を伺い、あるものはステージに上げ、あるものにはもうちょっと寝ててと言い、彼らの成長に応じた構い方をする。

分割するときは、スケッパーで刻んだらはかりに載せて、1gの違いもないようにしてから丸めていくのだが、慣れてくると「これで大体50g」「これで75g」などというのが分かってくる。
だから、ぽんと切ってぱっと載せてくっと丸めて、ぽんぱっくっ、という感じで一気に50個ぐらい作れる。

ごうんごうんとモルダー(生地を平べったく流してくれる機械。食パンをつくるときに便利)を動かしている店長が

「ほんと、手際もええし早いわ。感覚がええ」

と上手い具合に褒め言葉を投げてきて、たやすくえへへと木に登る私は、いい気になって次から次へと生地たちを仕分けていく。
君は今日、クリームパン。君は今日、カレーパン。君はロールパンで君はチーズパン。

中にあんこを詰め込むときは、へらを使って、これまた1g単位できっちり同じだけ入れないといけない。
でもこれも、慣れてくるとほぼ寸分くるいなく詰められるので、ぎゅっと入れてぽんと載せてきゅっと締めて、ぎゅっぽんきゅっ、と流れ作業的にぽこぽこ作れる。

天板に敷かれたオーブンシートの上に、整然と並べられたひな鳥たちは、あたたかな部屋に再び入る。
期待通りにふんわりふくらんだら、いよいよオーブン。
黄身をつけた刷毛で、赤ちゃんのほっぺに触るように、やさしくなでる。

オーブンは三段あるが、若干のクセがある。
一番上がすこし焼きが早く、また奥の方が熱いため、途中で天板を入れ替えたりする。
絶えず様子を見るのはいつもの通り。
みんな、いちばん、おいしくしてあげたい。

やがて漂う香ばしい香り。

タイマーが鳴る。伺う。
よし。

「クリームパン焼けましたー」

分厚い手袋で天板を引き、天板ごとダダンとショックを与えてから、天板棚に差し込む。

黄金色のパンたち、デビュー。
そこからは続々と、順次デビューの時間帯に突入する。

気づけば窓の外には朝日が差し込んで、レジ打ち担当の人もやってくる。
焼き上がって落ち着いたパンが並べられ、開店の準備も整う。

朝7時。

「いらっしゃいませー」

カランと、ドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませー!」

中からも、お店へ声が通るように挨拶をする。
その間にも、まだまだ焼き上がるパンがある。

8時になれば、一区切り。
私も交代。

「お疲れ。昨日のパン、持って帰ってええよ」
「ありがとうございます」

冷蔵庫の下の段に、売れ残りのパンがある。
多いとき、全然ないとき、まちまちだけど、完売のときはまかないパンが出る。

「それと新作。食べるか」

店長が、さっき隅っこで焼いていた、新作のパンを割ってくれる。

「わぁー。これ、ソースがおいしいですね。ハーブの香りがする」
「せやろ。けど、ちょっと濃いな。少なめでもええか」
「気持ち少なくてもおいしいと思います」

ほくほく。朝ごパン。

「今日はこれから授業か」
「はい。行って寝ます」
「寝るなや(笑)。けど、いつもありがとうな」


パン屋に行って、授業受けて、サークル行って。
長いときには朝3時から0時まで。

一日をえらく引き延ばして使ってたけど、それはやっぱり若いから出来た。
それと、何より好きだったから。
食べるのも好きだけど、毎日何かを育てるみたいに、ふくふくと膨らむ彼らを世に送り出し、誰かの口に入ることを想像すると、それはこの上ない創造の時間だ。

勤めていたパン屋は、もうずいぶん前に店じまいして、なくなってしまったけど。

あの朝の、京都に満ちる静かな空気。
やわらかな生地の感触、すっぱいにおい。
立ち上る熱気と、香ばしい香り。

それらはぜんぶ、昨日のことみたいに覚えてる。


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