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預言書と私のプライドについて

🔴<はじめに>🔴

今回は、自らの見解、特に未来のことに関しての方向性や構想、理想などの内容と、スピリチュアルなどの預言書的なものとの関係性について示す。
またそれに関連する内容として、私個人の「プライド」と、それに関する見解についても示す。

また自分の内面のことに関しては、現段階での範囲においては、もう既に自分の中ではクリアされていたり、落ち着いている。「過去」となっている。
示す内容に関して、そんなに気にしているとかはない。
今、私の状態はスッキリしているが、あえて自らの内面を出すことが、自らの変化において意味意義があることだと想ったので示す。

🔴<YouTube動画>🔴

YouTubeにも、今回の記事と同内容の動画を投稿した。
それも示しておく。



🔴<見解等を提供や共有する際の取り組み意識・意図>🔴

また顕在的、潜在的にそれぞれの方向性や観点から何かしらプラスになる人、かつ内容に関してショックや動揺が生じない、またはご自身で影響をカットや対応できる人にのみ、届くように意図する。

内容の提供や共有に関するその他の取り組み意識については、以下の記事で示した内容に基づく形とする。

✅参考記事:

💠①闇や陰の光化:②陰的影響をカットできる橋渡し的存在たちを介しての、それぞれの管轄の光や陽を体験している存在たちへの提供:③それによる各領域の豊かさの質的向上

💠①自己の見解等の受け手として、何かしらプラスになる人々、かつネガティブな刺激等を受けない人々の意図:②そうした人々への伝播による全体にとってより効果的な浸透

💠気付き等をシェアする際の取り組み意識および留意点

💠気付きやアイデア、アプローチ等を提供やシェアする際の取り組み意識  ~ネガティブベースのものにおける、リアリティのあるおとぎ話としての提供やシェア~


🔴<関連記事>🔴

今回の記事と特に関連する記事を以下に示す。

✅参考記事:1群

💠街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成

💠地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

💠AI等による生存に関することをまかなえる段階に入った際の、生存ベースの人類社会から、個の発揮における内的感覚(幸福感等)ベースの人類社会への転換と、二重構造化

💠①現状の資本主義システムによる支配構造について、②その担い手や元になる性質や能力、ニーズの、より調和的かつ快となる形で発揮できるシステムや環境の構築と提供、③新システムにおける新たな支配構造の構築を回避するための、支配構造の構築等を担う性質や能力、ニーズ等を持つ潜在的担い手たちの倫理観およびその元になる意識や状態、エネルギー等の、全体と調和化する色合いへの昇華、それを意図したシステム、文化文明、環境の構築と提供


✅参考記事:2群

💠見えない何かしらを感知する能力に気付き高めるアプローチについて

💠①言霊による身体等への働きかけ、②言霊による一般的に意識的に動かせないとされる身体領域への働きかけの可能化、③イメージングや状態の再生、言霊等を適用した行為活動モデルの形成と実行、④言葉による状態のトレーシング、⑤状態の合成、など

💠潜在意識等の作用により、ベースとなる体験世界、流れを創っている、ということへの段階的な気付きや深まりの実感の仕方




🔻【①】🔻


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①-1「預言書との関わりや影響について」


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私は過去において、「大日月地神示」 「黎明」 「これからの世界に対するスピリチュアルな情報」などを観た事はある。参考にしたことはある。

しかし、自分の中でのフィット感から、自分の中での望ましいと感じる方向性を見出してきた。黎明などの予言書に、近しい、親和性があるとしても、属しはしない。その方向性やグループには属さない。私は、自分の感覚にフィットする方向性を見出して進むし、行う。

その上で、黎明などの予言書やそれらを、全体性の中での役割として認める。認めている。担ってくれている、と捉えている。

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私の中で個人的に生じるパターンとして、以下がある。ある時点での自分の気付きや直観で来たもの(これからの世界についてなど、また望ましい方向性など)、それらが先に来る。その後に、たまたま得た情報や人からの紹介など、ひょんな拍子で黎明などの予言書に出会う。それら預言書等の内容が自らが得た気付きと概ね同じ方向性、質のものだと気付く。というパターンがある。

預言書や未来に関する情報等を読んだり触れることで、リンクするところもあるが、自らの感性ではよりこうした方が良いといった感覚を得る場合がある。またこの予言書等の「自ら視点での宇宙」という「全体性の中での位置付け」、などが感じられる、見出される。こうしたことが生じる。それらにより、より自らの方向性が浮き彫りになる。そのため、各予言書の方向性や、グループそのものには属さないが、上記に示したような形で影響を受けることはある。より自ら自身や、自らの奥にあるものを捉えるため、浮き彫りにするために影響を受けることがある。


※<補足>※✅

(各予言やそこに属するグループ等に対して、尊重している。全体の中において、それぞれの役割を担ってくれているからだ。その上で、私は私の奥にある感覚や方向性を大切にすることがフィットしている。その情報やグループに触れていたり、属することがあっても、自分が感知するエネルギーレベル、体感レベルでは、独立した位置にいることを好むし、そうする。似た方向性を担うとしても。
協力や協調しないわけではない。むしろ、私の感性や感覚からの全体において、またそれぞれの方向性、グループにおいて、何が望ましいか、必要か、どういったアプローチが必要かを、捉え行う。私の視点からの俯瞰した立ち位置でいること、そこからアプローチすることが望ましいと感じるし、自然とそうするし、好む。だからそうする。
それぞれは認めるし、担ってくれていることに、個としての私がいろいろ反応したとしても、感謝しているし、大切な役割だと思っている。)

※<補足:終了>※✅


🔻【②】🔻



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②-1「自らのプライドについて」


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上記に示した内容を示すことは、ややもすれば、上から目線、偉そうと捉えられると思う。そうかもしれない。多分そうだ。私は偉そうなんだ、控えめに言って。

上記内容を示す理由は、自分の尊厳を守るため、プライドを守るためだ。それにより、自分で在れるようにし、スッキリした状態で自らの在り方、物事に取り組めるようにするためだ。(「自分で在れるように」については、以前にも似たことを示したかもしれないが、必要な限り繰り返し示していく。)

「プライド」という言葉を使うと、精神的な分野の方向性や価値観によっては、「望ましくないもの、劣ったもの」と捉えられる場合がある。
私は、そうした各方面での価値観、認識、尺度において、「劣ったもの、望ましくないもの」と捉えられても構わない。私にとって「プライド」を守るために、自分の性質を知ってもらうために、また自分が望む方向性において重要なことと思うため、「望ましくないもの、劣ったもの」と思われたとしても、示す。私はプライドを守るために、自分に生じるパターンを示す。他者に蔑まれたり、下に見られても、それぞれの感性や尺度でのそれを認め(自分の中では自分の確からしい世界観での自己認識の上で、他者や外部の感性や尺度での感知や判断を認め)、自分のプライドを守るため、個としての自らの尊厳を大切にしたいために示す。

そうでないと、いつも偽った自分、何か相手や各方面、グループが形成するエネルギーや価値観、在り方の中で、許容できる範囲内での自分になる。自分を出しているようで、どこか合わせた形で、エネルギーで接することになる。いつも偽ったような感覚、私で在れていないような感覚で接しないといけなくなる。その範囲内での在り方、動き方、考え方、アイデア、方針、方向性、理想、理念、アプローチ、エネルギーに限定される。
それでは、100%の自分(潜在的な可能性も含めて)を出しきれない。譲歩してしまっている。相手や各方向性、分野に対して。
それでは私は息苦しい。発揮できるもの、提供できるものも、自分の中で本当だったらここまでできたはずなのに、全体にとってもっと良くなる可能性があるのに、という感覚を感じ続けることになってしまう。おこがましいかもしれないが、自分でハードルを上げてしまっているかもしれないが。それでも、素直な気持ちとしては想うところがあるし、だから示す必要があった。

これもおこがましいかもしれないが、自分で思ったこと表現したことが叶ってしまう傾向が非常に強い。関連することが起こる傾向が強い、それを感知する傾向が強い。自分で言うのもあれだなと思われるかもしれないが。(正直、スピリチュアルな人や、スピリチュアルに限らず、こうした感覚がある人からしたら、そんなにビックリする、疑うなどすることは無いと思うが、それも含めて示す。)

記事を書き始める前からもそうだし(いろんなことを経てなっていったし)、記事を書き始めてから、今に至ってもそうだ。(叶いやすいことと、時間を要するもの(予想以上に早く叶うもの、近づくもの)、叶いづらく感じるもの等があるが。)

だからこそ言う。自分のプライド、尊厳を大切にしたいので、私の在り方を蔑んだり、ジャッジすることはやめて欲しい。それを宣言した上で、「プライドを守る」という私の在り方に対して、蔑むようなあらゆる観点からの言葉、アプローチ、エネルギーを掛けられても「構わない」
そうした意識や状態、対応で在ることにする。努める。


✅※<補足>※✅

「私の在り方に対して、蔑むようなあらゆる観点からの言葉、アプローチ、エネルギーを掛けられても構わない」ということを自らの確からしさやフィットする感覚やエネルギー感で受け止められる意識や状態に至ること、またそう在ることが、より深い自らの感覚において、求めている、フィットする感じがある。更に言えば、こうした意識や状態になることが、自らの「状態としての完全性」(到達したい魂および存在としての色合い)において、必要と感じるために、行っている。その意識や状態を自らに取り込み統合させることが重要で、実際に常に蔑まれる状況は、個としての別の側面、自己の心身の快適性、心地良さを望む側面のニーズから外れてしまう。そのため、「蔑むようなことは止めて欲しい」ということも示している。

またこれは、上述したように、自分で示したこと、意図や決意したことが叶うような流れが引き起こされやすい、という性質であるため、そうした点への考慮からも示している。こうした自己の認識や見解に対して、あらゆる様々な感性から、自己という存在や見解を蔑むことは認めるし、構わない。(という意識や状態であるようにしたい、またそうした自らにフィットする意識や状態を模索したい。これは自らのためにだ。)

その上で、繰り返しになるが、蔑むことはやめて欲しい、ということも示す。(これを示すことも、現時点での自らにとっては、私の様々な領域、方向性でのニーズ、その全体性を考慮した際に、重要だと感じるために、示している。))

※<補足:終了>※✅


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②-2「プライドの自己の宇宙的な視点からの意味意義と、その体感上で発生するキツさ等へのイメージング等による低減」


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私は私のプライドを大切にしたい。またそもそも私の感性における俯瞰した大きな視点、宇宙の視点からは、「プライド」も、「プライドを守る」ということも、「プライドに囚われないこと、そうした状態になること」と同様かつ対等に素晴らしいものである、というのが確からしいものと、捉えているし、感じている。

その上で、精神的な変化変容、成長における一方面において、その方向性での変化を成すにおいては、プライドは距離を取る(昇華させる)対象となる場合があり、それに基づいた感性や尺度、体系、価値観等がある、形成されるものとも思っている。
その感性や尺度、価値観での感知や判断は、各方面を体験していたり、担うものたちにおいては、快や不快を土台とした、様々な感覚、感情、認識として体感の伴う形で生じると思われる。しかし、それらのプライドと距離を取るような感覚や判断等によって、存在としての価値、意義、意味、存在そのものは「揺らがない」、と実感しているし、認識している。
それはプライド、尊厳を守ろうとする私のようなものも、その他様々な方面の全ての存在たちにも当てはまると捉えている。

🔶
その上で、ジャッジや、無意識にでも「陰なるもの」と判断されれば、体感上キツイ。それは個としての物理的、精神的な存在としての個性(プライド)、すなわち全体における役割、方向性を守るために生じていると、一側面から解釈している。
物理領域にて人間という器を持つ、全体そのものとしての一つ一つの個性の現れとしての個々人(個々の存在)、その発揮を守り発揮させる(体験させる)ために、その個々に物理的精神的な守りをさせるための「知らせ」としてキツさ等の感覚が生じている、と捉えている。

上記のようなことについて、気付きを得たり、腑に落ちたりしても、「体感上はキツい」場合がある。言霊やイメージングなどで軽減させたり、生じなくもできる。(外部状況において刺激が強い場合には、対応しきれない場合もある。過信はしないが、全くどうしようもなかった「内側の感覚、状態」に対して、アプローチできる。「0が1になった感覚」を得られる。そこから10にもその先にもしていける。その方面の達人たちもいると思う。無自覚な達人たちも含めて。)

ある程度イメージング等で対応できるとしても、蔑まれることを「構わない」として宣言しておくと、無限にその状態(体験)が進み、そこで対応できるようにするための言霊やイメージングなどの力を高め続ける必要が出てきてしまう。(心地良く居るためには。)

しかし、その時点で捉えている自己の性質や個性としての自ら(また潜在的な可能性としての自ら)として在るにおいて、それを蔑む、劣等なものと扱うような感性や判断に自らを寄せてしまう、譲歩してしまうと、その時点で捉えている本質的な自己や可能性としての自己で在りずらくなる。

それへの対応として、外部の感性、尺度、価値観における、「陰的な存在」として、捉えられることを「構わない」とした上で、その感性や判断を「認める」。その上で、自らにとって確からしいと感じた認識(世界認識、本質)により、自らを俯瞰した視点から「肯定する」。この肯定は二元的な陰と陽、善と悪、正と誤などにおいて、「陽、善、正=肯定」「陰、悪、誤=否定」という意味での肯定ではなく、「陰と陽、善と悪、正と誤=それら全ての本質からの肯定」という領域および意味からの肯定のことを指す。(また自らにとって俯瞰した確からしい認識から、他者や外部の感性や尺度、価値観、そこでの(自らへの)判断をも肯定する。)その俯瞰した視点からの認識およびそこでの自らの肯定感を、イメージングや言霊等に活用する。自らの意識や状態、感覚、感情、認識等にアプローチし、ネガティブと体感されるような刺激を軽減したり、カットしたり、影響の無い感覚、状態へと持っていく。

それにより、その時点で感知する本質的な自ら、本質的な自らが望む可能性としての自らとして、在れるようになる。(在れやすくなる。定着する。その状態が魂に刻まれる感覚に至る。)

イメージングや言霊などの、感覚や状態に働きかけるアプローチがピンとこない場合は、実際に「自らで在れた」体験をすることで、感覚や状態が変わり、影響を受けづらくなる。(成功体験的なもの。もっと身近なレベルでも良い。今までの自らとは違う、より本質的な自己としてフィットする対応や選択、行動をする、など。自らの内の感覚に意識を向けてみた時に、ある時点から変化している、またはある時期の望ましい状態に戻ったと感じられる、捉えられるかもしれない。そうした変化を外的な体験の中で生み出す。体験する。それぞれにおいて、身近と思えるものでも、非日常的と思えるもの(大きな出来事)でも、構わない。)


🔻【③】🔻


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③-1「意識や状態の変化による、ポジティブとされる感情や感覚自体の質の変化」


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ネガティブ面の反応ばかり言っているが、自らの内に生じるポジティブなものとされる反応、感情等についてもしかりである。その質を変えていける。

例えば、「勝つ」とか「超える」ということに関して、以下のような内的な質の変化に個人的に至った。人や物事などの対象に挑戦し、ある尺度から「超えた」と感じられる時、自らが挑戦的な意味で目標や目的として着目していた尺度において、超えたことを実感することで、上下的な感覚、相手の存在に対しての上下やマウンティング的な感覚が内的に付着していない感覚で、相手の在り方、表現、存在の唯一無二性を認め、相手の尊厳を自らと平等のものとして保った上で、この「超えた」ということを実感したり、享受することが出来るようになった。

それにより、得られる喜び、生じる喜びや満足感は、存在の価値が優劣等に無意識に程度の違いこそあれ紐づいていることによる、相手の表現や存在よりも「優れている」「勝った」と感じられた際の、「存在としての価値」が充足されることによる、喜びや満足感とは、「異なる質のもの」として体感される。
これは自らにとっては、よりフィットする質感での喜びとなった、自信となった。自分が求めていたフィットする感覚での喜びを得られた。

これは自らがある尺度において、自らよりも「勝っている」と感じられるものと接した際に、「自己自身に対しても」適用できる。
それ故に、自ら視点で見て、優れている、素晴らしいと思うものに対しても、自らの尊厳を保ち、自らの唯一無二の存在を認め実感しながら、他の優れたもの、素晴らしいものを認められる、受け止められる感覚が内的に自然と生じ実感された。この感覚は自分が求めていたフィットする感覚での喜びや肯定的な感覚、感情であった。

🔶
(過去においては、自らの中でこれが主だったにもかかわらず、それから様々な影響を受け、外れてしまっていた。今回は詳しくは示さないが、イメージング等を活用することで、自らの内で外れてしまう要因となっていたもの、影響が生じていたもの、またはそう思われるものを探り(別の目的で自らの状態を整えていた際に発見されたりもする)、それらに対してイメージング等で働きかけをすることや、自分の意識や状態を変化させて物事に取り組むことで、01的に上記のような「状態」を内的に体験できた。

繰り返しになるが、様々な影響を受けて自らにフィットする「勝つ」とか「超える」とか、「挑戦する」といった取り組みの際、または受け止める際の意識や状態から、外れてしまっていた。外れた感覚のものが内的に生じたり、また外れた意識や状態での取り組みや内外的な事象の受け取りによって、そこで生じる感情や感覚も抵抗感や違和感、フィットしていない感覚でのものとなってしまっていた。

それ故に、「勝つ」とか「超える」とかを、求めるニーズを持ちながらも、それに付随する形で生じる自らにフィットしない感覚、相手の存在を落としめているような感覚(または自然とそうしたものが付着してしまっている感覚)、自然とマウンティングしてしまっている感覚、相手への存在価値としてのジャッジが自然と生じてしまう感覚(生じてしまっている感覚)、それらへの違和感と、そうした反応が生じてしまう自らへのショックと悲しみ(より深い領域でのニーズや方向性を知らせるためのショックや悲しみ)、また逆にそれに飲み込まれての反応やアプローチへの埋没、そういったことが生じていた。

これらの質は私個人としてもっと変化していくと思われる。その上で、今言ったようなマウンティングやジャッジ、それらへの悲しみ、埋没、アプローチ等の内的な反応や動きも、私の中では肯定している。変化後も、変化前の意識や状態、内的な反応、アプローチも、「対等に尊い存在」である。ただ、変化した結果の色合いでの内的な感覚、体感、意識や状態を、私はより好むということだ。また私の感性から、これは私個人だけではなく、「私の感性や観点からの全体」においても、より幸福と感じる魂たちがいると感じられるし、思われる。意義あるものと思っている。

また「勝つこと」「超えること」「挑戦すること」などに付随するエネルギーに対して、それぞれの魂の性質や方向性、役割故に、ネガティブな刺激を感知しやすい魂たちにおいても、そうした刺激の質が変化すれば、内的な受け止め方はもちろん、行動や体験という面においても、その可能性が広がると思われる。今までの質では、望んで体験の選択をしなかった魂たち、方向性のグループたちが、それぞれにとって、フィットする形で受け止められるようになる。結果、行動や体験を享受することがしやすくなり、より内的な豊かさ、体験的な豊かさを享受できるようになる。(もちろんそれぞれの任意で。)またそれぞれにおける変化変容の質も高めていける。色合いを新しいものを生み出していける。そうした可能性を全体に「開く」ことにも繋がる。)

🔶
上記で示した、上下的な感覚、相手の存在に対しての上下やマウンティング的な感覚が内的に付着していない感覚で、相手の在り方、表現、存在の唯一無二性を認め、相手の尊厳を自らと平等のものとして保った上で、この「超えた」ということを実感したり、享受することが出来る、という意識や状態だが、過信は禁物だ。

相手や事象との関係性、周囲の状況や場の圧力等のシチュエーションによって、上記の意識や状態であれ、そうした内的な感覚を受け取れる、生じる範囲を超えるような負荷や圧、刺激が高い状況であると、自らの意識や状態をイメージング等で整えたとしても、引っ張られてしまう。そのため、内的な意識や状態も大切だが、同時に外界の状況、シチュエーション、環境も大切と思っている。

内的な意識や状態を整えることで、少しでも外界を望ましい形に変化させることが出来る余力が生まれると思う。その余力を活用して、外界の環境も自らにとって望ましい意識や状態で在れる場や環境に変えていく。
また、より深くは、意識的、または潜在的にでも意図すること、願うことなどにより、深いレベルから、体験の場や流れ、体験世界ごと変えることもできる、行われていると感じている。その領域からのアプローチも行いつつ、自らの意識や状態という領域、外界の場や状況、環境という領域でも、アプローチしていくことを奨励する。(それぞれの魂としての性質や体験したいこと、役割、方向性、それぞれにおける固有の段階などによって、各領域の重視される程度、また各々自身が重視する、好む程度も変わってくると思う。)

🔶
一度、特定の意識や状態が体感されたら、それを日々、様々な状況下で活用していく。それによって、特定の意識や状態が定着したり、更にどんどん変化していける。

ただ繰り返しになるが、過信は望ましくはない。周囲との関係性や注目度合いなどのシチュエーションによって、掛かる内外の圧が高まる、変動する。公開処刑などのようなシチュエーションである場合、そうした圧の度合いは高まるため、今回示した状態に至ったり、保ちづらくなる。

これを保てるようにするのは良いが、そのプロセスは無限とも捉えられる。
しかし、魂として求める固有の「程度や質」で得ること、深める、高めることで、より魂が望む状態に近づけることができる。これは各々自らが、直観的、体感的に「至った」ことを、感じられるものと思う。





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