【小説】 望郷
気付けば彼は50歳になっていた。作家という職業柄、家に籠っていることが多く、外に出ると言っても近所の川沿いを散歩する程度だった。交友関係もさほどあるわけではなく、妻との会話もほとんどなかったから、人と話す機会もめったにない。だからと言って、執筆活動が進んでいるというわけでもなく、毎日机に向かっては、何も書かないまま一日が終わるという日が何日か続いていた。
ある朝、彼はいつものように8時に起き、妻との会話も少なく簡単に朝食を済ませたあと、静かにコーヒーを飲んでいると、何となく墓参りに行きたいと思った。それで、特に用事があるわけでもないので、行くことにした。
「墓参りに行ってこようと思う」「もう40年近く経つの?」「言われてみればそうなるな」彼は、玄関で靴ひもを結んだ。妻は後ろでコートを手に持って待っていたので、ありがとうと言うと、彼はコートを羽織って家を出た。3月の終わりだが、まだ冬の寒さは残っていた。
墓参りというのは彼の弟の墓参りである。彼の弟は彼が中学生のころに病気で亡くなった。兄弟仲が特別よかったというわけでもなく、葬式で泣いたかどうかすら彼は覚えていなかった。いつの間にか、墓参りも行かなくなっていて、弟のことも忘れるともなく忘れていたのだった。
そんな中で、弟の墓参りに行こうと思い立ったのは不思議だった。加えて彼は、無信仰であり、神や霊というものを信じていない。人は死んだら消滅するだけであるというのが彼の考え方である。しかし、どういうわけか突然彼は墓参りに行きたくなったのだった。
2時間ほど電車に揺られると、弟の墓のある霊園の最寄り駅に着いた。都市や郊外からも離れ、駅前は多少発展しているといった程度で、山が近い静かな場所だった。彼は寒さに身を縮こまらせながら、タクシーに乗ると、霊園へ向かった。
タクシーの運転手とも彼は一言も話さず、車窓から見える景色をぼんやり眺めるだけだった。霊園に着くと、「すぐに戻るから」とタクシーを止めておいて、弟の墓へ向かった。
霊園は確かに見覚えはあった。しかし、彼の記憶よりも幾分か小さく感じたし、ところどころ草も生い茂っているように感じたのだった。彼は微かな記憶をたどって弟の墓に向かった。墓は花も何もく、寂しかった。そこで初めて、彼は花も線香も持ってきていないことに気が付き、彼は近くの売店で線香を買ってきた。
ポケットからライターを取り出し、火を点けると、風にユラユラと揺れて消えてしまいそうだった。彼はそっと線香に火を点けて、線香をあげると、手を合わせた。そして、足早にその場を去ろうとした、そのとき、ふと微かにお経を上げる声が聞こえた。どうやら近くの寺で供養をしているらしかった。一定の速度で、低く心臓の奥底に響くような声色のお経は、ほんの一瞬、このまま永遠に続くのではないかと思われた。しかし、彼はすぐに歩き出した。霊園の前にはタクシーがしっかりと待っていた。
帰りの電車に揺られながら、彼は流れていく景色を眺めていた。時刻はすっかり午後で、彼は西日がつくる影をぼんやりと見ていた。
人は永遠に残るものではない。天国がないのなら、人はどこに行くのだろう。人は死んだら消滅してしまう。ならば、我々は何に思いを馳せるのだろうか。それは、我々の心の何処かにある遠い記憶にほかならないのだろう。それこそノスタルジア以外のなにものでもない。しかし、一方でノスタルジアとは決して過去のことではない。それは、記憶の中にあるからである。だから、そうした意味では、ノスタルジアは過去にあるのではなく、今もどこかにあるものである。
つまり、ノスタルジアとは遊園地のようなものなのである。ノスタルジアという場所がどこかにある。どこか目に見えない遠いところにあるのかもしれないし、ベールのように重なっているものなのかもしれない。しかし、いずれにせよ、決して過去にあるものではないのだろう。
例えば、幼いころの嫌な思い出の場所に通りかかるとき、そこには不思議なノスタルジアがある。その場所に重なったノスタルジアがある。そこにはあるのは、楽しい思い出よりも、より強烈なノスタルジアである。それはおそらく、年を経ることで、嫌に思っていたことが、案外大したことではないことに気付くからだろう。もしかすると、嫌な思い出とは、他ならぬ幼少期の独特な感受性の賜物によるものだったのかもしれない。そうした今の感受性とのズレが、不思議なノスタルジアを生むのだろうか。
彼は一定の速度で走り、低く心臓の奥底に響くような電車の揺れに身を預けながら考えた。永遠に続くものではないからこそ、我々が延々とノスタルジアに思いを馳せるのである、と。
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