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【小説】 気になること

 「それじゃあ、おやすみなさい」そう言うと、老人は布団に入った。「おやすみさい」彼の妻もそう言うと布団に入った。しかし、老人は布団に入ってみたものの、どういうわけかなかなか眠れなかった。妻の静かな寝息が聞こえる。彼女はもう寝てしまったようだ。「まいったな」と彼は小さくつぶやいた。そして、こういう寝れないときに限って、色々考え事をしてしまうものである。

 彼には、気になる言葉の表現があった。彼は、犯罪に手を染めたのに、犯罪から足を洗う、という表現が気になった。結局、一度犯した罪は消えないということなのか、それとも足を洗うということは、当然手を使って洗うだろうから、手だけでなく足も洗う、つまり、これまで以上に正しく生きるということだろうか、と考えてしまう。

 7回転んで、8回起き上がるという、七転び八起きという表現にも気になった。この表現だと、もう起き上がってるのに、もう一回余分に起き上がってることになる。それとも、初めから転んでいる前提ということなのだろうか。つまり、一度転んだとしても、七転び八起きということなのだろうか。しかし、そうなると正確には八転び八起きになってしまう。何度転んでも、立ち上がればいいという表現なのはわかるが、彼は気になってしまった。

 彼は気になることばかりだった。ゴビ砂漠やサハラ砂漠という言葉も気になった。ゴビやサハラは砂漠という意味だから、砂漠砂漠という意味になってしまう。言われなければ気付かないことだが、一度気にし始めると気になってしかたがなかった。

 「しかし、まあ、サハラ砂漠は語感がいいのだろう」と彼は思う。一度聞いたら忘れない語感の良さがある。だから、サハラ砂漠はサハラ砂漠でいいのだろう。しかし、考えてみればサハラ砂漠に行ったことは一度もないな、とも思う。というか、そもそもアフリカにも、砂漠にも行ったことが無かった。

 「ああ、知らないことがいっぱいある。行ったことがない場所も、食べたことがないものも、観たことない映画もいっぱいあるなぁ」と彼は思った。寝ようとしているのにもかかわらず、そんなことばかりが気になってしまった。

 窓は少し開いていて、カーテンが夜風に優しく揺れた。窓の外を見ると、夜空に黄色く丸い月が浮かんでいた。美しいなぁ、と彼は思った。世界はこんなにもワクワクするんだなあ。それじゃあ、皆さん、おやすみなさい。

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眠れない夜に

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