隣の芝生が青く見えるのは、意外と一瞬かもしれない。
私がnote投稿を始めたのは、2022年10月。28歳の誕生日を迎えるちょっと前。それまで見る専でnoteアカウントだけ持ってて、9月頃から自分なりのブランディングを考え始めた。
そのタイミングでね、私が目標としてた人たちは、更新頻度も内容の濃度もすごくて、もちろんフォロワー数も多くて、手の届かない存在だった。憧れ、目標、尊敬、羨望。私もこんな文章を書いてみたいな、スキやコメントもらえたら嬉しいな、Twitterで紹介してもらって役に立てる記事いいな。そんな思いを抱えて過ごしていた。
いまはどうか、目標として追いつきたかった人たちを見かける頻度は、当時から比べると減った。減っただけ、止まったわけではない。note以外でも繋がってる人たちばかりなので、「note以外」であらゆる道に進んでる姿をお見かけしているので、その人たちに対して私がなにか思うことは特にない。それだけ時間が経ったんだなあ~と。変に俯瞰してる自分がいる。
私が始めた初期からずっとずっと続いてる人、頻度が減っていった人、後発的にフォローしてからずっと続いてる人、更新頻度に波がある人、いろんな人がいる。約9ヵ月間でのこと。さすがにフォローしている人全員の動向を覚えてるわけではないけど、基本的にすべての記事を読みたいタイプなので、人並み以上には把握してると思う。マガジンとか月別投稿数とか見にいくときもある。引かないでね(笑)。
完全に止めない限りは続いてるんだと思う。たとえば、もうnoteのアカウントごと消しましたとか、なんか嫌になっちゃって全記事非公開にしましたとか、よっぽどのことがない限りは、「続いてる」と思ってる。
毎日続けることは、私には到底できないことなので大尊敬。でも、それが万人にとって唯一無二の正解や成功でもない。そもそも、note発信は目的ではなく手段なわけで。人によって、noteの優先順位も、日々生きるうえで担う役割も違うじゃん。noteの頻度が下がった代わりに、新しいことを始めていたり、もっと深く、もっと広く、違うことにチャレンジしてたり、その決断も尊敬なんです。いろんな続け方があって、ちゃんと自分で決めて、「いま、大事なこと」に向き合えてる姿がかっこよくてまぶしくて。
なにを伝えたいかと言うと、
たまたま切り取られた瞬間だけを見て、
人と比較する必要ないな〜って
思ったわけです。
登山noteでも書いたけど、その人にとってのタイミング、私にとってのタイミング、ピッタリ合致するわけないのに~と思いまして。
すごく達観したような書き方してるけども、私自身はめちゃくちゃ隣の芝生を気にして、人と比べては自己否定して自己嫌悪して、自己肯定感爆下がりな生き方をしてきてる(笑)。まあそもそも自分のこと好きじゃないし、自己評価や期待度が低いし、その割に本当はもっとこんなことできるはずなのに…ってプライドだけはそれなりにある。厄介な性格だねえ。あと、人間観察が好きでよく人のこと見てるせいで、無意識のうちに自分に足りないものを探してるのかもしれない。
ただ、この1年以上「働く」という大人が当たり前にしてる世界から離れてみて、俯瞰的な視点が養われたというか。元々、斜め後ろくらいにもうひとりの自分がいる感じで、頭の中はひとりごとでうるさいんだけど、きっとその子(?)がパワーアップした感じ。「主観と客観を行き来できる強み」、コーチングで言語化してもらったこの言葉が、まさしく。
ということで、脳内のひとりごとを書いていきますね~。
隣の芝生が「青く」見えるというけれど…
もしかしたら、右隣の人は真っ青じゃなくて真っ赤を目指してるかもしれないし、左隣の人はとにかく早く芽を伸ばすために必死かもしれないし、向かい側の人(隣じゃなくなったw)は芝生だけじゃなくて花も植えようとしてるかもしれない。とにかく、理想とする芝生は人それぞれ異なるということ。
仮に、同じ青い芝生だとしても、真夏の太陽の下で見かけるときと、真冬の雪が降る夜に見かけるときとでは、まったく別のものに見えるだろう。芝生を見るときの状況と、自分が育てている芝生の状態によって、着眼点も比較する観点も変わるだろう。
「一過性のものに固執しない」、過去の自分に大声で伝えたい。どんなにいいことも、逆にどんなに悪いことも、その状態がずっと先の未来まで続いて、まったく変わらないなんてことは絶対にない。
自分で言うのは恐縮だけど、6月後半頃から私のTwitterをフォローし始めた人は、私がいろんなことを順調にこなしてるように、軌道に乗ってるように見えてる気がする。SHElikesのライターコンペで入賞、本棚コミュニティ(白いハコ)のメンバーになり自分の夢に向かって前進、希望とする業界・職種での内定が決まり転職活動終了、その他運営側での自主企画…などなど。フォロワーさんも500人の大台が見えてきて、いろんなシーメイトさんと気軽にリプし合える関係性が築けている。
過去の私が見ても、一気に進んでる感があって正直めっちゃ怖いもんね(笑)。逆に言えば、SHElikesと出会う前、前職で働いてる私を知ってるシーメイトさんはいないじゃん。入会直後の私のことを覚えてる人はどれくらいいるんだろう?初期のフォロワーさんは気づいたらTwitterからいなくなってることも多くなったし。
SNSで見えてる部分は、日常のほんのほんのほーんの一部に過ぎないな〜って改めて思う。切り取られた一瞬に翻弄されるときも多々あるんだけどさ。どうしても限られた情報の中で様々な解釈が生まれるわけで、同じ投稿を見たとしても自分のメンタル次第で素直に受け取れないときもあるよね。
発信側だと、この言い回しは誰か傷つけてないかな?と考えてるつもりでも、もしかしたらチクッと刺してしまってる可能性もあるし。意図しない伝わり方をしちゃうときもあるだろうし。たとえば、結果だけを事後報告する人もいれば、努力の過程をすべて見せる人もいれば、自慢したい内容だけ厳選して脚色してる人もいれば、もう人間の数だけあると思うのよ。
となると、
やっぱり隣から覗ける芝生なんて、その人のほんの1cm角レベルかもしれない。全貌をわかった気になるほうが、むしろ烏滸がましい。
「過去の私が見ても、一気に進んでる感があって正直めっちゃ怖いもんね(笑)。」とさっき書いたけれど、「隣の芝生=他人」とは限らないのでは?とさえ思い始めた。
だって、前職で社畜を謳歌()してた時代の私が、いまの私を見たら、真っ青なんてレベルじゃないと思う。今の私がすごいという意味ではなくて、単純にまったく違う芝生の育て方をしてるし、芝生そのものへの見方が変わってるから。ほんとに?それって綺麗事じゃない?って、自分に対して疑いかねない。「早く、大きく、成長すること」がすべてじゃないかも?って思えるようになったのは、思い切って前職を辞めてキャリアブレイクしたからこそ。
隣をよそ見してたら、自分の芝生の変化に気づけないかもよ。
哲学っぽいよくわからない話を3,000文字も書いちゃった~!(笑)
どうしても人と比べちゃう、そんなときに思い出してほしい。
私も、自分で読み返すと思う。過去の自分にも、未来の自分にも伝えたい。
おやすみ( ˘ω˘ )スヤァ…
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