空に消えた星たち — パフタコル1979
0. まえがき
(本旨とは関係ありません)
私事で恐縮だが、初めてウズベキスタンサッカーに触れてから10年以上が経つ。
2つのぼんやりしたことだけが記憶に残っている。ひとつは会場がタシケントのパフタコル・マルカジー・スタジアムだったこと、もうひとつはワールドカップ予選のウズベキスタン対日本の試合だったこと。得体の知れない代表チームの荒削りな攻撃サッカーと、日本人に似た面立ちの選手に漠然と興味を持った。(しばらく後、その顔の持ち主はアスロル・アリクロフだと分かった。)
当時筆者は高校生だった。思春期の「人はやろうと思えば何でもできる」という無垢ゆえの蛮勇に駆り立てられ、試合後すぐにパソコンを立ち上げ、ウズベキスタンという美しい国を知り、心惹かれた。そして翌年の秋、なけなしの150ドルと紺色のパスポートを持ってタシケントに降り立った。
滞在中の9月11日、パフタコル・マルカジー・スタジアムでワールドカップ最終予選ウズベキスタン対韓国の試合を観た。眼下にはあの日テレビで見たピッチと、そこで躍動する選手たちの姿があった。試合は2-2の引き分け。やたらとヘディングシュートが多かった。韓国との絶望的に悪い相性など露も知らず、手に汗握る攻防を素直に楽しんだ。
しかし内容や結果以上に心に残ったのは、会場内外の雰囲気だった。バックスタンドのサポーターが統率の取れたチャントを歌うという日本で慣れ親しんできたスタイルからはかけ離れた、各々が"O'z-be-ki-ston!"と叫ぶだけの素朴な応援。それでいて、異様な熱気と興奮。時折起こるウェーブ。スタンドに多数配備された警官。
そして、試合の余韻に浸りながら戻ったホテルで代表チームの一行に居合わせる僥倖にも巡り合った。革命のような日だった。
この日をきっかけに、誰よりもウズベキスタンサッカーを愛し、誰よりも知りたいと思うようになった。
それ以来、濃淡はあれどウズベキスタンのサッカーに触れてきた。試合観戦はもちろん、サッカーにまつわる様々な事柄を調べて、多少はこの国のサッカーを知ることができた。また、語学力と情報収集力が増し、先走る意欲に能力が追い付いてきた。社会に出てからは暮らしも変わり、学生時代ほど自由な時間が取れなくなる中、道半ばではあるが自らの到達点を残すつもりで、何かのテーマを文章でまとめることを思い立った。
今回のテーマは以前より書きたいと思っていた。ライフワークとして「これ以上に詳細な日本語の記事はない」くらいの内容と完成度を目指している。しかし「需要がない」といえばそれまでだが、本邦に詳しく紹介されていないトピックである。外国語、サッカー、文化、歴史全てに浅学のアマチュアが書く文章であるから、誤解に基づいた記述や内容の遺漏も多いだろう。これには後進の手直しを恃むところである。
1. あらまし
1979年8月11日。ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国(以下「ウクライナSSR」、ソヴィエト連邦構成共和国は断りなく「民族名+SSR」表記とする)のドニプロゼルジンシク(現ウクライナ、カーミヤンシケ)上空で2機の旅客機が衝突した。両機とも大破し墜落。ソヴィエト連邦(以下「ソ連」)の航空事故として2番目に多い、乗客乗員計178人全員が犠牲になったドニプロゼルジンシク空中衝突事故である。
犠牲者の中にはウズベクSSR(現ウズベキスタン)のサッカーチーム、パフタコルの選手・スタッフ17名が含まれていた。ソ連サッカー史上最も悲しいできごとである。
本稿では、以下の4つの観点からこの悲劇を辿ることにする。
時代背景:ウズベクSSRについて(2章)
時代背景:ウズベキスタンサッカーの歴史(3章)
パフタコルというチーム(4〜5章)
事故について(6〜11章)
立ち上げ当初はパフタコルと事故についてのみ書くつもりだった。しかし前置きや補足として歴史や背後関係を書き足していった結果、サグラダ・ファミリアのように内容が膨らんでいき、結局4章立てになってしまった。
長い前置きはどうでもいいので本旨だけ読みたいという方は、6章から読んでいただければと思う。
2. 時代背景:当時のウズベクSSR
パフタコルは旧ソ連の一部であるウズベクSSR、つまり現在のウズベキスタンのチームである。まずは事故が起きた1970年代のウズベクSSRとはどんな場所だったのか、時代背景としてその簡単な歴史とともに解説する。
2-1. ウズベクSSR黎明期
第一次世界大戦中の1917年、ロシア帝国の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)でユリウス暦の2月と10月に革命が起き、帝政が倒れソヴィエト政権が発足する。ロシア革命である。しかしソヴィエト政権はすぐさま共産党内の主導権争い、内戦、列強諸国との干渉戦に直面する。長く厳しい戦いの末にレーニン率いるボリシェヴィキが勝利。1922年にソ連が成立する。
ロシア革命直後から、ロシア帝国の事実上の植民地であった中央アジア地域にも様々な国家組織が誕生。ボリシェヴィキの権力掌握後、それまで存在していたトルキスタン自治社会主義ソヴィエト共和国を分割する形で1924年にウズベクSSRが設立、翌1925年にソ連に加わった。設立に先立ち、中央政府は地域住民を「ウズベク人」「タジク人」といった固有の民族として新たに定義しており、ウズベクSSRはそのウズベク人を主体とする連邦構成共和国として作られた。
他の連邦構成共和国の例にもれず、ウズベクSSRの船出は困難を極めた。様々な理由から社会主義体制に敵対する勢力(「バスマチ」と総称される)が各地で反乱を起こしており、ウズベクSSRは発足早々その鎮圧に追われた。ソ連の中央アジア地域の大まかな統治システムが確立するのは1936年のことだが、農業の集団化や徴兵制度、イスラームへの弾圧といった一連の改革に対する住民の強い反対を押し切ってのものだった。
2-2. 第二次大戦後の発展
破壊と混乱のただ中に生まれたウズベクSSRは、当初は特に目ぼしい産業もない、近代社会から取り残された辺境の貧しい共和国にすぎなかった。しかし第二次世界大戦が転機となりその運命は大きく変わる。
まず、激戦地となり荒れ果てたソ連西部(いわゆるヨーロッパ・ロシア)から多くの工場や作業場がウズベクSSRを含む中央アジアに疎開し、地域の重工業化の基礎が作られた。そして、戦後スターリンに代わりソ連最高指導者となったフルシチョフはシベリアや中央アジアの開発を重要視。中央によるトップダウン型の経済システムを見直し、各共和国による独自の産業の管理運営を可能にした。この結果、この時までに十分な社会資源を備えていたウズベクSSRは、ウズベク共産党第一書記シャロフ・ラシドフのリーダーシップにより工業化を推進。あらゆる分野の産業が急速に発達し、短期間で飛躍的な「社会主義的発展」を遂げる。
国土のほとんどが電化され、国内を流れる大河シルダリヨ、アムダリヨの大規模な灌漑によって砂漠は緑に変わり、多くの都市型集落や農村共同体が設けられ、人々の生活水準は大幅に上がった。僅かな間に人口は倍増、識字率はほぼ100%に達し、都市部に「近代的」な建物が林立。主都タシケントは1966年に街の半分を破壊する大地震に見舞われながらも3年ほどで復旧。中央アジアのみならずモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、キーウに並ぶソ連屈指の巨大都市に成長し、産業、学問、文化芸術の重要な拠点となっただけでなく、ソ連のアジア外交の窓口となった。
1977年には各駅に当時の国力が窺える豪華な装飾をあしらった地下鉄が開業。ソ連全土では7番目、ウラル山脈以東では初の地下鉄である。
2-3. 綿とシャロフ・ラシドフ
ウズベクSSRの成長の大きな武器となったのは、伝統的に細々と栽培されてきた綿である。ソヴィエト政権下で「共和国の戦略的産品」と再定義された綿は、1930年台に中央から優秀な品種が持ち込まれ、在来種に起き変わった。綿は日用品や軍需品の原料である良質な繊維を生み出す源となりソ連全土で大いに重宝された。中央政府の指導の元で綿花栽培は大掛かりに機械化、組織化され、生産量が大幅に増加。ソ連国民の暮らしを支える綿はウズベクSSRの象徴となった。
綿は現在もウズベキスタンの主要作物であり、輸出量は年間100万トンとも言われる。夏場には地平線まで見渡す限り真っ白な綿の畑と、そこで収穫に従事する人々(夏休みの学生や教員を動員した強制的な収穫が人権問題になってはいるが)を見ることができる。デフォルメされた綿花の図案は書物、食器、建物などあらゆる装飾に用いられる。後述するが、「パフタコル」というチーム名も「綿栽培人」を意味し、「パフタコル」という名前の、綿の農場として発足したと思しき集落も国内各地に見られる。
工業化の推進は大きな発展と近代化をもたらしたが、一方で負の側面をももたらした。大規模な汚職、闇市の出現、極端な綿のモノカルチャー、過剰な灌漑による土壌の急激な悪化や汚染とアラル海の縮小に代表される河川の枯渇など、共和国の破綻をもたらす矛盾が生まれたのもこの時期である。この中には、現在のウズベキスタンにおいても尾を引くものがいくつもある。
中でも悪名高いのは「綿花事件(Хлопковое дело)」である。1970年代初め、ソ連全土で拡大する綿の需要に応えるべくウズベク共産党第一書記シャロフ・ラシドフは到底達成不可能な生産ノルマを設定。その結果、会議室や執務室から集団農場まで共和国のあらゆる社会階層で収穫量の水増しが横行。石を詰めた袋や、賄賂によって「満杯」扱いになった空の袋がタシケント駅の貨物ターミナルに次々と搬入された。
虚偽の報告で得た中央からの事業資金はほとんど中抜きされ、一部は政治家の懐に収まり、一部は新たな賄賂に充てられた。
中央アジア地域伝統の封建的な社会とフルシチョフ時代からの政策が不正を助長した。そして、あろうことかこの欺瞞のシステムの頂点に君臨していたのはラシドフ自身だった。この大規模な汚職事件は1982年にソ連最高指導者となったアンドロポフによって終息する。毎年綿の収穫量が増加する一方で繊維生産量が減少している事実を知ったアンドロポフは、妨害・隠蔽に走るウズベクSSRに対し厳しい捜査を敢行、おびただしい不正を白日の下に晒した。
アンドロポフ自身から譴責処分を受け、アリエフ第一副首相と面会した翌日、ラシドフは「心臓発作」で死亡した。
2-4. ソ連の最盛期
航空事故が起こった1979年はソ連の最盛期だった。冷戦の真っ只中で国際社会が警戒する中、形ばかりではあるが国民の平等がもたらされ、社会の近代化が進み「社会主義文化」が成熟しつつあった。
タシケントは1966年の大地震で市街の半分が破壊されたが、国内各国からの支援で驚くほど早く復興。特に大きな被害を受けた市街東部は伝統的な家屋が立ち並び曲がりくねった路地が通る昔ながらの町並みからビルや集合住宅が林立するエリアに変貌、現在とほとんど変わらない姿になった。これは当時のソ連が謳っていた「諸民族の友好(дружба народов / halqlar do'stligi)」の象徴としてもてはやされた。
この時代を象徴するのが、1980年に開かれたモスクワ五輪である。西側諸国の大量ボイコットはあったものの、モスクワ五輪は「鉄のカーテン」越しにソ連の国力を世界に印象付けた。しかし、悲しいかな最盛期というのは衰退の始まりでもある。事実それから10年と少しでソ連は崩壊を迎える。
タシケント市民は時折ちらつく社会の矛盾に何となく気付きながらも豊かで近代的に一変した生活をとりあえずは享受する、ある種刹那的な時代であった。今でも「ソ連時代はよかった」と言う年配者は意外と多い。そういう人はこの1970年代から1980年代前半を思い出し、「モノはなかったが暮らしには困らず、何より皆が平等だった」日々を懐かしむのである。
3. 時代背景:ウズベキスタンサッカーの歴史
3-1. ロシアサッカーの出現
現在のウズベキスタンにサッカーを持ち込んだのはロシア人だった。ウズベキスタンサッカーの歴史を紐解くには、まずはロシア人がどのようにサッカーを受容したかを知る必要がある。
1880年代、サッカーがロシア帝国にもたらされた。その担い手は、他のヨーロッパ諸国と同様イギリス人だった。まず、外国船が出入りするオデーサ、ムィコラーイウ(現ウクライナ)、リーガ(現ラトヴィア)、サンクトペテルブルクといった港湾都市で在露イギリス人がサッカーチームを結成、やや遅れてモスクワを含む内陸部にも伝播した。当初はイギリス人のみがプレーしていたが、彼らからサッカーを教わったロシア人も後にこれらチームのメンバーに加わったり、チームを作ってイギリス人に腕試ししたりするようになる。
20世紀に入り、ロシア帝国のサッカーはわずか10年あまりの間に急速な発展を遂げる。1901年にサンクトペテルブルクでリーグ戦が始まったのを皮切りに各都市でサッカー大会が創設。1910年にはロシア帝国代表チームが初の国際試合(対ボヘミア代表)を行った。
1912年はロシアサッカーにおいて特筆すべき1年となる。1月に全ロシアサッカー連合が発足しFIFAに加盟、6月にはストックホルム五輪のサッカー競技に参加、9月にはわずか3チームの対抗戦ではあるが、初の全国大会である「ロシア帝国サッカー選手権」も始まった。決して「広く大衆に」というわけではないが、サッカーは着実にロシア帝国に普及していた。
しかし、1914年に勃発した第一次世界大戦とそれに続くロシア革命による社会の大混乱で、ロシアのサッカーは完全に破壊された。我が国における野球と同じで、舶来して日が浅いサッカーは外国文化に親しい上流階級の遊びだった。このことが仇となり、黎明期のサッカーの担い手の多くはソヴィエト政権によって「ブルジョワ的」と見なされ、弾圧の対象となってしまった。
結局、革命後に誕生したソ連が代表チームを立ち上げ活動を始める1924年まで、ロシアサッカーは実に10年にも及ぶ空白期間を経験することになる。
3-2. ウズベキスタンサッカーの出現
前置きが長くなったが、現在のウズベキスタンにおけるサッカーの出現はどうだったのだろうか。
20世紀初頭、ロシア人によってサッカーは中央アジアにもたらされた。当時の中央アジアはロシア帝国の「トルキスタン総督府」の統治下にあり、事実上の植民地だった。入植していたロシア人が余暇にボールを蹴って遊んでいたのを現地人が見よう見まねで始めたのだという。当初彼らは中に布を詰めただけの粗末な革製ボールを作りプレーしていたが、次第にロシア人からちゃんとしたボールを買ったり、既存の技術を応用して高品質のボール作りを会得する人物が現れたりして、少しずつサッカーに親しんでいった。
サッカーに関する中央アジア最古の記録は1906年なので、少なくともこの頃にはすでに現在のウズベキスタンの地域にサッカーらしきものが伝わっていたらしい。
なお、現地住民の間では「悪魔のゲーム(shayton o'yini)」や「野生のゲーム(yovvoyi o'yini)」と呼ばれていたらしい。不穏な響きだが、サッカーを異人の有害な遊びと見なした保守的な地元有力者が付けた呼び名である。この頃の中央アジアにはロシア人による統治に反対する現地住民が多く、彼らの不満は第一次世界大戦の徴兵をきっかけに爆発。後にバスマチと呼ばれる武装勢力による蜂起は、地域間の連携やイデオロギー的な統一を欠いたまま、ソ連成立後の1920年代半ばにフルンゼ将軍の活躍で鎮圧されるまで中央アジア各地で散発的に続いた。
創成期のウズベキスタンサッカーの担い手は、上記のような反対派ではなく「ジャディード」と呼ばれる革新的な思想を持ち、地域内の近代化を夢見る知識人たちであった。しかし、そのジャディードたちが1930年代にスターリンによって相次いで粛清されてしまったこと、戦後復興を果たし社会の発展が始まる1940年代後半まで中央アジアの情勢が極めて不安定だったことで、サッカーの普及はあまり進まなかった。
そんな中でもウズベキスタンサッカーの灯は完全には消えず、細々と命脈を保った。1912年にスコーベレフ(現在のフェルガナ)で「スコーベレフサッカー協会」が結成。このチームに関する記録はほとんどないため詳細は明らかではない。それとほぼ同時にコーカンドに「ムスコマンダ(муслиманьская команда「ムスリムのチーム」の略)」というチームが発足した。ムスコマンダはフェルガナ地方でサッカーの普及活動に従事した点、当時「サルト」や「テュルク」と呼ばれ、後に「ウズベク人」と定義されることになる現地住民によって構成されたという点で非常に大きな意味を持つ。どちらが先にできたかは不明だが、いずれにせよこれら2チームはウズベキスタン、ひいては中央アジア初のサッカーチームである。
ウズベキスタンのプロサッカーチーム、コーカンド1912のチーム名はこのことを表している。また、紆余曲折を経て奇跡的に生き延びたムスコマンダがこのチームの母体となっているとの説もあるが、詳しいことはわからない。
反対勢力も多い中サッカーは徐々に人口に膾炙していき、スコーベレフやコーカンド以外にもアンディジャン、タシケント、サマルカンドといった各都市にもサッカーチームが作られ、交流試合も行われるようになる。
当時、サッカーは一般的にロシア人の上流階級の子女が嗜むスポーツと見なされていた。しかし新たに発足したソ連は旧時代的な地方の伝統的競技を破壊し、サッカーを誰しもに門戸が開かれた国民融和の手段として再定義した。壊滅状態だった国内サッカー環境は大きく改善され、1920年代半ばに都市間での大会が、1927年には初の共和国選手権が開かれる。1928年にはソ連の全国大会にウズベクSSR選抜チームが参加、23チーム中7位と健闘した。
1936年にソ連で全国リーグ戦が始まると、ウズベクSSRからタシケントの「ディナモ」が参加。1937年に2部リーグのグループGを戦った。
ウズベクSSRのサッカーがハイペースで進歩し始めるのは第二次世界大戦の後である。戦争終結の翌年、1946年には早くも全国リーグ戦が再開。基本的に1部リーグと2部リーグは全国大会、それ以下のディビジョンは各地域ごとにグループ分けされていた。その中には中央アジアのグループも設けられ、いくつものウズベクSSRのチームが参加し実力を養った。1950年にはタシケントのДОというチームが2部リーグで5位に入った。
3-3. 第二次世界大戦後のソ連サッカー
1950年になると経済・社会の安定化、米ソデタントに代表される経済、文化水準の向上など、ソ連国民の生活も少しずつ良化の兆しを見せる。
そんな中で2つの重要な出来事があった。それはサッカーのテレビ中継開始と、スポーツ紙「ソヴィエツキー・スポルト」や雑誌「スポルチーヴヌィエ・イグルィ」といった各種スポーツメディアの登場である。アクセス可能なスポーツの情報量が格段に増加したことで、一気にサッカーは国民的人気スポーツの座を手に入れる。政府も国力を挙げてサッカーの強化に取り組んだ。結果はすぐに現れ、1956年のメルボルン五輪で金メダル、1960年には第1回欧州選手権(EURO)に優勝、続く1964年の第2回大会も準優勝、1966年のW杯イングランド大会は4位入賞。レフ・ヤーシン、イーゴリ・ネット、エドゥアルト・ストレリツォーフ、ヴァレンチン・イヴァノーフらスター選手も出現し、ソ連のサッカーは急速にレベルアップする。
これを受けて、各共和国指導部も自国の名声を高めるためにスポーツ競技を利用するようになり、サッカーもその一つとなる。当時のソ連リーグは「都市対抗戦」の色彩が強く、この頃から各地で「ご当地官製チーム」が出現する。もちろん、ウズベクSSRによって作られたパフタコルもそのひとつである。
4. 前史:パフタコルについて
4-1. チーム概要
パフタコルは、ウズベキスタンのタシケントに本拠地を置くサッカーチームである。
伝統と実力を兼ね備えたウズベキスタンサッカーの盟主と言える存在で、全てのスター選手は必ずパフタコルに在籍経験があるといっても過言ではない。1992年の国内リーグ発足以降、積み上げたタイトルは24(リーグ優勝12回、カップ戦優勝12回)。アジア・チャンピオンズリーグでも好成績を残すなど、近年は国内に留まらない活躍を見せている。
独立直後の混乱と経済の低迷によりかつての強豪が次々と経営破綻・消滅する中でひとり気を吐き、ウズベキスタンからサッカーの火が消えるのを防いだ。こんにち、ブニョドコル、ロコモティフ、ナフバホルなどのライバルチームの台頭によって以前ほど圧倒的な実力差はなくなったが、それでもなお国家を代表するチームとして君臨を続けている。愛称は「ライオンズ(Sherlar)」。
4-2. チームの歴史
パフタコルは当時ソ連2部リーグに所属していた「スパルターク」というチームを母体として、共和国を代表する強豪を目指しタシケントで設立された。最初の対外試合が行われた1956年をもって、正式な創設年とされている。
パフタコルとはウズベク語で「綿栽培者」を意味し、先述の通り綿の栽培が盛んなウズベクSSRを象徴するチーム名である。おそらく、綿花栽培従事者のДСО(「自主スポーツ協会」。ソ連時代のスポーツクラブの形態)の下に作られたものと思われる。
なお本筋から逸れるが、ДСОは各生産部門の従事者や労働組合ごとに設けられていた。よく知られるチーム名「ゼニト(防衛産業のДСО)」「ロコモチフ(鉄道従事者の労組のДСО)」「クルィーリヤ・ソヴェートフ(航空産業従事者のДСО)」「シャフチョール(鉱工業従事者のДСО)」などは、この名残である。ディナモ(内務省)とCSKA(陸軍)は中央省庁所管のため、ДСОではない。
共和国の威信にかけて精力的な強化が行われ、引き継いだスパルタークの選手の他に地元出身の有力選手を補強。急速に力を付けたパフタコルは、誕生からわずか4年後の1960年にソ連1部リーグに昇格を果たすと、1962年には最高成績のリーグ戦6位に入る。
パフタコルはその後もソ連トップレベルでの活動を続け、ウズベクSSRのみならず、サッカー不毛の地だった中央アジアの盟主となった。同時期に設立したカザフSSRのカイラトとの対戦は「中央アジアダービー」と呼ばれ大いに白熱したという。他にもキルギスSSRのアルガ、トルクメンSSRのコペトダグ、タジクSSRのパミールといった他共和国の「官製チーム」も有力なライバルと見なされていた。
先述の通り、社会が発展し生活水準が上がった人々にとって、サッカーは最高の娯楽になった。人々の話題はサッカーばかりになり、スタジアムで試合を見た後にその試合の記事をチェックする人さえ現れた。アフボル・イモムフジャエフ氏とロマン・トゥルピシェフ氏によって共和国立の解説者養成所も作られた。
パフタコルはすなわちウズベクSSRのサッカーそのものであった。国民はすぐにパフタコルのファンになった。チーム創設と同時に開場したパフタコル・マルカジー・スタジアムには、試合のたびに多くのファンが詰めかけ、愛するチームを応援した。1964年の映画「Yor-yor」にはサッカーの場面が描かれ、市民の日常にサッカーが入り込んでいる様を伝えている。
中でも子供向け番組「Ералаш」の第30回(1981年)のオチに"пахтакор чемпион"と書かれたプラカードを持った少年が登場するシーンはオールドファンの語り草となっているだけでなく、当時のパフタコル全国的な知名度を持っていたことをよく表している。CSKA、ディナモ(モスクワ)、スパルターク(モスクワ)のファンと思しき集団が、塀に愛するチームのメッセージを落書きする。熱狂的で知られるスパルタークファンが破壊した塀の向こうに件のパフタコルファンの少年がひとり立っているという、だからどうしたという内容ではあるが。
4-3. クラスニツキーとアブドゥライモフ
チーム初期の歴史において欠かせないのは、地元タシケントで生まれ育ったふたりのレジェンドストライカーだった。
一人はゲンナジー・クラスニツキー。
185cm、90kgの大柄な体格からついたあだ名は、ギリシャ神話に登場する巨人「サイクロプス」。「ゴールネットを突き破る」と形容される豪快なシュートで知られたストライカーで、チームのキャプテンでもあった。ウズベクSSRのチームからソ連代表に召集された最初の選手の一人で、現在でもウズベキスタン史上最高のサッカー選手といわれている。「グリゴーリー・フェドートフ・クラブ(ソ連とその後継国家ロシア出身で、キャリア通算100ゴールを達成した選手の殿堂)」入りした初のウズベクSSR出身選手でもある。
余談だが非常に強烈なパーソナリティの持ち主であり、高い実力や人気とは裏腹に幾度となく泥酔状態で同僚や一般人を問わず暴行・乱闘事件を起こしたり、素面でも度々不遜な態度と取ったりするなど、ピッチ外部での振る舞いに大いに問題があった。そのせいでスポーツマスターの称号取り消しも経験しており、トップ選手の栄誉を得ると同時に当時のソ連サッカー界最大のトラブルメーカーでもあった。
もう一人はビロダル・アブドゥライモフ。
右サイドにポジションを取り、高速ドリブルと鋭いカットインから放つ左足のシュートで名を馳せた小柄なフォワード。1968年シーズンには22ゴールでリーグ得点王に輝いた。ウズベクSSRのチーム所属の選手がソ連1部リーグで得点王になったのは、彼と1983年のアンドレイ・ヤクービクのふたりだけしか成し得なかった異形である。彼もまたグリゴーリー・フェドートフ・クラブ入りを果たしている。
少年時代にはボクシングやレスリングに熱中しており、実際にフリースタイルレスリングの共和国内ユース大会で48kg級を制覇したこともある格闘技の逸材だったが、17歳で本格的にサッカー選手に転向した異色の経歴を持つ。当時通っていたタシケント体育学校ではサッカーのカリキュラムが未整備だったため、後にチームの守護神を務めるユーリー・プシェニーチニコフと共にハンドボールに取り組み、球技に慣れる訓練を行ったという。
ふたりのストライカーの活躍でパフタコルは1962年にはリーグ最高成績の6位に入り、さらに1967-68シーズンにはカップ戦で準優勝の成績を収める。60年代〜70年代前半は「クラスニツキーとアブドゥライモフの時代」と呼ばれることもある。クラスニツキーは、引退後先述の激しい性格が災いしてかセカンドキャリアに恵まれず、不遇のうちに若くして命を絶った。対照的にアブドゥライモフは後に指導者として成功、現在に至るまでウズベキスタンサッカーの重鎮を務める。
ふたりの功績を称え、ウズベキスタンサッカー協会によるプロキャリア通算100ゴール以上の選手による殿堂とキャリア通算200ゴール以上の選手による名誉の殿堂はそれぞれ「ゲンナジー・クラスニツキー・クラブ」と「ビロダル・アブドゥライモフ・クラブ」と名付けられた。
5. 前史:「黄金世代」の出現
1970年代初めにクラスニツキーやアブドゥライモフらチーム黎明期からの選手がチームを去った。
チームの核を失い弱体化したパフタコルは2部リーグ降格の憂き目に遭うが、この間に世代交代に成功する。クラブは共和国全体のレベルアップを目論み、若年層の育成に力を注いだ。国各地に整備したスポーツ学校やサッカースクールには多くの才能ある若者が集まり、チーム創設時から積み上げられたアグレッシブなサッカースタイルを叩き込まれ経験を積み、トップチームに抜擢され成長していった。選手と並行して行われていた指導者の育成も功を奏し、ヴャチェスラフ・ソロヴィヨーフ氏ら優秀なコーチが若者の成長を後押しした。
その中から2人のスター選手が出現した。ヴラジーミル・フョードロフとミハイル・アンである。
フョードロフはゴールに向かうスピードと高い得点能力を持ち、闘争心あふれるプレーが持ち味の左利きFW。ダイナミックな攻撃を最前線から引っ張るチームのキーマンで、小柄ながら空中戦にも強いオールラウンドなストライカーだった。
タシケントのスポーツ学校在学中にアシガバートで行われた国際ユース大会での活躍が目に留まり、17歳でパフタコルのトップチームに引き上げられデビュー、早熟な才能を見せつけすぐに主力に定着した。
パフタコルでの活躍が評価され、1976年のモントリオール五輪のソ連代表チームに選抜。同国の銅メダル獲得に大きく貢献した。後述のアンと並びソ連フル代表でのキャリアも着実に築きつつあり、通算キャップ数は16を数えた。また、ウズベクSSR出身のサッカー選手で初めてスポーツマスターの称号を得た人物でもある。
高麗人(旧ソ連内に居住する、朝鮮半島にルーツを持つ民族集団)のアンは、広い視野と優れたテクニック、そして最大の武器である正確な長短のパスで攻撃をオーガナイズするミッドフィルダー。司令塔としての役割のみならず、強いキャプテンシーでピッチ内外でチームを引っ張る、まさに心臓のような存在だった。
10代の頃からトップチームで出場機会を得ると、すぐに高い能力を証明。線が細くフィジカルで後手を踏むこともあったが、攻撃の組み立てやアシストだけでなく機を見て自ら攻め上がって得点を決めるアグレッシブさも身に着け順調に成長、ソ連屈指の若手選手の評判を得る。チームメイトは彼の視野の広さを「目が細く鋭いからよく見える」という今のご時世では完全にアウトのジョークで讃えたという。真偽のほどは定かでないが、コーナーキックを直接ゴールに入れる、いわゆる「オリンピックゴール」を1試合で2度記録したことがあるとの逸話もある。ちなみに、ロシアではこれを「枯れ葉(сухой лист)」と呼ぶ。ポルトガル語のフォーリャ・セッカ(folha seca)に由来し、本来は1960年代のブラジルを代表するMFジジが得意とした、壁を越えてから急激に揺れながら曲がり落ちるフリーキックに用いられる表現だったが、意味が転じたのだろうか。
アンも年代別代表に選抜され、1976年のUEFA U-23欧州選手権ではキャプテンとしてソ連チームの優勝に大きく貢献した。
なお、1950年代に活動した名伯楽アンドレイ・チェン・イルソン氏の指導のおかげで、勤勉さと高い技術を持つ高麗人は高評価を得る。歴史的経緯からタシケント近郊に集住していることも手伝い、少数民族でありながらウズベキスタンサッカー界に勢力を築き、これまで多くの有名選手を輩出してきた。後進に先鞭をつけたチェン氏とアンの功績は今に至るまで非常に高く評価されている。
同じコルホーズ(現在のタシケント州ユコリチルチク地区)で育ち、同じタシケントのスポーツ学校に通い、プライベートでも仲が良かったというフョードロフとアン。駆け出しの頃には先述のレジェンド、クラスニツキーとアブドゥライモフも在籍しており、偉大な先輩から多くのことを学んだ。
前述の通り、ふたりはパフタコルと年代別代表での活躍が認められ、1979年時点でソ連のフル代表に選ばれるまでになっていた。
他にもハツィパナギス、アシロフ、ウバイドゥッラエフ、アギシェフ、サビロフ、バカーノフ、エシュブタエフ、ボゾロフといったウズベクSSR出身の10代後半~20代前半の若い選手が何人もチームの主力を担っており、彼らはいつしか「パフタコルの黄金世代」と呼ばれるようになった。
攻守ともに緻密な連携、素早い攻撃、鋭く正確なパス。ディナモやCSKAといった強豪相手に一歩も退かず勇敢に戦う選手たちの姿は、見る者の心を打った。まだ荒削りではあるが、彼らが順調に育てばタイトルやヨーロッパカップ出場権を争うチームになる。おらが国のチームがかつてない強さになった。ファンはかつてないほど高い期待を寄せ、選手たちはまさに共和国の誇りであった。
それだけでなく、若く高い実力を持つフョードロフとアンは1980年、自国モスクワで開催される夏季五輪サッカー競技のソ連代表チームに選抜される可能性も十分にあった。
この時期の試合記録を見ると、タシケントでのリーグ戦には4万を超える観客が集まっている。これは現在のリーグ戦では考えられない驚異的な動員(今は多くても1万人に届くかどうか、3ケタもザラ)である。いかに当時の国民がサッカーを愛していたかがわかるデータだ。
地元出身の若手が順調に育ち、やがて国家を代表するスター集団に成長する。全ウズベクSSRの人々は希望に満ち溢れ、想像を膨らませた。共和国のサッカーに、かつて経験したことのない新時代が始まる。そんな胸躍る予感が漂い始めていた。
6. 1979年シーズンのパフタコル
黄金世代の若手選手とポカティロフ、ザグミョーンヌィフ、マカロフ、チュルキンら移籍組が融合したパフタコルは、1978年に再び1部リーグに昇格。復帰シーズンは苦しみながらも16チーム中11位で終え辛くも残留。
シーズン終了後にはソ連五輪代表が北米遠征を実施。チームからはアンが選抜され、アメリカではかつてのスター選手たちと互角に渡り合い、高い評価を得た。さらにその後は第7回ソ連諸民族スパルタキアード(西側諸国が主導するオリンピックに対抗してソ連が主催した総合競技大会。1956~1991年の間に10回開かれた)のサッカー競技にウズベクSSR代表チームとして出場。忙しいオフを過ごした。
翌1979年シーズンは波乱の幕開けだった。
開幕戦でトルペド(モスクワ)に勝利したのをを皮切りにディナモ(キーウ)とクルィリヤー・ソヴェートフに勝利、続くスパルターク(モスクワ)にも引き分け開幕4戦無敗。しかしその後は引き分けを挟む10連敗を喫し一気に17位まで転落。2部リーグ時代からチームを指揮していたアレクサンドル・コチェトコフ監督を解任し、オレグ・バズィレーヴィチを監督に招聘した。
バズィレーヴィチは現役時代にウクライナSSRの強豪ディナモ(キーウ)で活躍。後に世界的名将となるヴァレリー・ロバノフスキーと攻撃コンビを組んだ。引退後もロバノフスキーが志向するコレクティブサッカーの薫陶を受け、彼の育成、戦術メソッドを受け継いだ、気鋭の若手指導者だった。幸運にも長年パフタコルに携わってきたベテランコーチ、イドガイ・タゼトディノフと意気投合し、バズィレーヴィチはすぐにチームの再建に取り掛かる。若く才能にあふれた選手たちは彼が導入した新戦術を難なく習得し、持ち前の攻撃サッカーはさらに進化。チームは短期間でコンディションを取り戻し、自信も回復する。
バズィレーヴィチの指導の成果はすぐに現れ、直後のリーグ戦から3連勝を記録。勢いそのままに1979年8月8日、タシケントで行われたザリャー(ヴォロシロフフラード)戦にも3-1で勝利して連勝を4に伸ばすが、これが事故前最後の試合になった。
これまでの18試合の戦績は7勝4分7敗、23得点26失点。詳しいデータを以下の記事にまとめた。
次の試合は8月13日、アウェーのディナモ(ミンスク)戦。当時はチームの移動に定期便が使われ、現在のようにでチャーター便を飛ばすということはなかった。8月11日朝、タシケント空港に集まった選手・スタッフ17名は、アエロフロート7880便に乗り込んだ……。
7. 悲劇
事故に遭った2機は共に当時の国内線で、アエロフロート(当時はソ連の国営航空会社)所属だった。ひとつはタシケント発グーリエフ(現カザフスタン、アティラウ)、ドネツク(現ウクライナ、ドネツィク)経由ミンスク行きの7880便(識別番号СССР-65816、パフタコルの選手が乗った便)、もうひとつはチェリャビンスク発ヴォロネジ経由キシニョフ(現モルドヴァ、キシナウ)行きの7628便(識別番号СССР-65735)。両機ともツポレフ航空機設計局の「Tu-134」、当時のソ連ほか東側諸国の主力機である。
7-1. 事故はなぜ起きたか
ソ連航空機関の調査では「航空管制官のミス」が原因と結論付けられているが、事故の背景は以下の通りである。
まず、両機は衝突時ハルキウ管制区を飛んでいたが、この空域は以前から大変混雑することで知られており、同時に10機以上の飛行機が飛び交うこともあった。
事故が起きたハルキウ管制区の「南西エリア」をこの日担当していたのはジュコフスキー3級管制官。経験のあるスムスキー1級管制官の補佐を受けながらの業務ではあったが、実務経験2か月の20歳のインターン生が管制するには厳しいエリアである。さらにこの日は「要人を乗せた臨時便(литерный рейс)」が飛ぶことになっていた。誰が乗っていたかは明らかではないが、休暇でクリミアに滞在していたソ連の最高指導者レオニード・ブレジネフに面会するモンゴル共産党幹部だったとも言われている。スムスキー1級管制官はこの便の管制担当になり、ほぼ手が離せない状態となる。
事故当日の1979年8月11日。この日も管制区上空は混雑していた。ジュコフスキーは何とか独力で飛行機をコントロールしていたが、未熟さからかハードワークの疲労からか、7628便と7880便を同じ高度8,400メートルに誘導するミスを犯す。
傍らで無線を聞いていたスムスキーはこの重大なミスに気付いた。このまま行くとドニプロゼルジンシク北東で両機の飛行ルートが交錯する。あわててジュコフスキーを注意し、後輩のバックアップに取り掛かる。近くを飛ぶ86676便という別の飛行機を高度9,000メートルから9,600メートルへ移動させ、7880便には空いた高度9,000メートルへの上昇を指示。ところがスムスキーも、「了解……8,400(Понял,… 8400.)」という不明瞭な返答を7880便からと思い込み、コールサイン確認を怠ってしまう(のちの事故調査で、この音声は86676便からであることが分かった)。
こうして7628便と7880便は高度8,400メートルでの飛行を継続してしまう。さらに不運なことに、この日は積雲が多く視界が制限されていた。両機とも目視での事故回避がきわめて困難な中、スムスキーの指示から4分後、ついにぶ厚い雲の中で7628便が7880便の右側面に衝突する。両機は即座に崩壊し、おびただしい破片を地上にばら撒きながら墜落した。
両機がレーダーから消失した直後、事故発生の第一報を管制センターに送ったのは付近を飛行していた複葉機「An-2」の機長だった。——「ハルキウ734、空から何かが落下している!」。「ハルキウ734、クリリウカ村付近で飛行機の残骸が落下するのを確認、Tu-134のものと思われる」。
7-2. 「チームが死んだ」日
バズィレーヴィチは許可を得て2日前にチームを離脱していた。3ヶ月間会っていない妻と病気療養中の息子と過ごすため、ソチの保養所にいた。8月11日はソ連カップ決勝戦があり、ディナモ(モスクワ)対ディナモ(トビリシ)の試合を保養所2階の部屋でテレビ観戦していた。チームには翌8月12日に合流する予定だったという。
コーチの一人、ヤコフ・アロノーヴィチも家庭の都合で8月11日、先乗りするセカンドチームと一緒にミンスクに飛んでいた。対戦相手のディナモが手配したホテルに宿泊し、翌朝、チームの到着を出迎えに空港に向かった。飛行機は遅れているようで、運行情報も「気象条件のため」「到着が遅れるため」とまちまちだった。結局その日の飛行機は来ず、午後6時半に「当該便は別の日に変更」とだけ発表があった。
ホテルに戻ったアロノーヴィチのもとに電話がかかってきた。ウズベク共産党中央委員会からだという。「ヤコフ・アロノーヴィチ、君と一緒にそっちに移動した人を教えてくれ」と聞かれたので、彼はセカンドチームと一部の先乗りした関係者の名を伝えた。
電話の主のサリモフ副委員長はしばらく黙っていたが、彼にこう告げた。「ヤーシャ、落ち着いて、しっかり聞いてくれ。チームを乗せた飛行機が落ちた」。そして泣き出した。
バズィレーヴィチもその日、保養所の1階の受付に呼び出された。電話が来ているという。電話の主はウズベクSSRのスポーツ大臣ミルザオリム・イブロヒモフだった。震える声でイブロヒモフは告げた。「チームが死んだ」。
——バズィレーヴィチはその意味をしばらく理解できなかった。
当局の情報統制により、事故から数日は事実は公表されなかった。しかし情報はどこから漏れるか分からないもので、最初にこの件を報じたのはアメリカのラジオだったという。皮肉にも鉄のカーテンの向こう側からもたらされた噂話が耳に入り、人々はやがて事実を知ることになる。
前代未聞の同一機による空中衝突事故、当時ソ連史上最悪の犠牲者179人。そして「チームが死んだ」事実……。ニュースに触れた誰もが大きな衝撃を受け、喪ったものの大きさに打ちひしがれ、深い悲しみに暮れた。事故から1週間後の8月18日、情報が公にされるとともに亜鉛張りの柩(遺体を長距離搬送する際、衛生上しばしば亜鉛の裏張りを施しハンダで密閉した柩が用いられる)がタシケント空港に到着。数えきれないほどの人々が沿道を埋め尽くし、空港から市内のボートキン墓地に向かう葬送を見守った。
事故後最初にトビリシで行われた試合では、アナウンサーが嗚咽混じりに亡くなった17人の名前を読み上げた。5万人の観衆もまたそれを聞き、涙をこらえることができなかったという。
8. それぞれの運命
8-1. 星になった者
アンは直前のザリャー戦で右足を負傷し、次の試合は欠場が決まっていたがチームに帯同、飛行機に乗り込み、仲間たちと運命を共にした。絶対的中心としてチームを離れることを嫌ったのか、あるいは別の理由があったのかは今となっては分からない。しかしタシケントを発つ直前、何かに怯えているような不安げな表情を浮かべていたという。
ミンスクへのフライトは途中エアポケットや乱気流が多く発生することから移動時に不安を覚える選手は多かった、との証言もある。
オリムジョン・アシロフはフョードロフと同い年の長身センターバック。彼も10代の頃からトップチームの経験を積み、すぐに守りの要に成長した。1977年には38試合で28失点と鉄壁の守備陣の一角を担い、2部リーグの2位入賞と1部昇格に大きく貢献した。
専守防衛に留まらず、トランジションのパスも好むアグレッシブな選手だった。またキック力にも定評があり、1979年7月12日のディナモ(ミンスク)戦では30メートルの距離からロングシュートを決めている。彼もソ連五輪代表の経験があった。
フョードロフは真夏だというのに、妻が「ミンスクは寒くなるから」と持たせた黒のジャケットを着ていた。
シロジッディン・ボゾロフは主にリザーブチームでプレーする若手選手。当時のソ連の慣習(ウズベキスタンでは現在もそうである)では、リザーブチームはトップチームと同じスケジュールで活動しており、トップチームの前日に対戦相手のリザーブチームと試合を行っていた。そのため彼は8月10日にミンスクに飛ぶことになっていたが、当日は18歳の誕生日。友人を呼んでパーティーを開き、翌11日に移動するトップチームに同行した。
アレクサンドル・コルチョーノフは1973年から在籍するベテラン選手。リーグ戦200試合近くに出場し、1977年にはキャプテンを務めたように、プレーのみならず精神的にもチームを引っ張るリーダー格の選手だった。
ユーリー・ザグミョーンヌィフは経験豊富な攻撃的サイドバック。28歳だった1975年、練習中に脊髄損傷の大怪我を負った。サッカーどころではなく、障害者認定を受けるほどの重傷で、所属していたゼニトも退団。しかし懸命なリハビリの末に引退の危機から立ち直り、パフタコルで見事な復活を遂げた。
ヴラジーミル・マカロフはドゥシャンベ生まれのミッドフィルダー。心臓に持病を持ちながら一線級のプレーを続けた。高いスキルで知られ、ウクライナのチェルノモーレツ在籍時にはチームを最高成績の1部リーグ3位に導く活躍を見せた。マカロフの妻はのちにこう語っている。
コンスタンチン・バカーノフは地元タシケント出身の左ウイング。少年時代の1966年の大地震で故郷を離れるざるを得なくなり、避難先のモスクワでサッカーを学んだ。
2年後、モスクワのチームからの勧誘を断った上で復興したタシケントに戻り、パフタコルでキャリアを始めた。息子のセルゲイは1歳で父を失ったが、長じて同じサッカー選手の道を選び、ウズベキスタン1部リーグで15年間プレーした。弟のボリスもサッカー選手で、亡き兄の分までと言わんばかりに40歳まで現役を続けた。
8-2. 地上に残った者
偶然にも事故を免れた選手・スタッフも数名いた。前述のバズィレーヴィチとアロノーヴィチ以外には、負傷離脱中のGKのアレクサンドル・ヤノフスキーとDFのアフマドジョン・ウバイドゥッラエフがリザーブチームに同行していたため先にミンスクに入り、難を逃れた。
DFのアナトリー・モギーリヌィについてはトップチームの移動に同行しなかったのは事実だが、飛行機に乗らなかった理由については情報が錯綜しており、負傷とも家庭の事情ともいわれている。そして、煮え切らない思いで空港までチームメイトを見送りに来たアンに、不要になった航空券を手渡したという。
他にも医療スタッフのアナトリー・ドヴォルニコフも事故を免れた。彼は先述のボゾロフの誕生日会に参加、その後親しい記者と夜遅くまでタシケント市内をうろついた。深酒が過ぎたのか翌日はうっかり寝過ごしてしまい集合時間に間に合わなかったのだが、それが幸いした。
直接の当事者ではないが、コーチとしてチームの黄金期を担う選手を多く育て、1975年に病気のためチームを辞したヴャチェスラフ・ソロヴィヨーフ氏は、事故後すぐに親交のあったアロノーヴィチから事態を聞かされていた。教え子の多くを喪った氏の悲しみも計り知れない。
FWのトゥラガン・イソコフは前年に膝に大怪我を負っており、モスクワでリハビリ中のためチームに帯同していなかった。クラスニツキーとアブドゥライモフの時代を知る数少ない生え抜きで実力も高い人気選手だったが、この事故が彼に与えたショックは計り知れないほど大きかった。
事故の知らせに接したイソコフは負傷も癒えきらぬ中、チームやウズベクSSR指導部からの慰留を固辞しシーズン終了後に現役を引退した。永遠に消えない心の傷を負った彼の苦しみは想像に難くない。このことについて、彼は後にこう語っている。
9. パフタコルのその後
9-1. 存続危機からの復活
突然の事故を受けて、ソ連サッカー協会はパフタコルに対し「向こう3シーズンは成績に関わらず降格しない」特別な救済措置をとった。選手の遺族にはソ連中央指導部とサッカー協会による手厚いサポートが行われた。遺族には年金が支給され、困窮する者にはアパートがあてがわれた。
さらにサッカー協会やバズィレーヴィチの働きかけ、そして国内各チームからの自発的な申し出により選手が無償でパフタコルに加入し、亡くなった選手の穴を埋めた。
これらの選手の大半はシーズン終了後に元の所属先に戻ったが、中にはそのままパフタコルに残留した選手もいた。前述のアンドレイ・ヤクービクはその一人で、その後もチームを牽引し、1983年シーズンに1部リーグ得点王に輝いた。
各チームからの「助っ人」だけでなく、セカンドチーム所属の若手選手も何人かが急遽トップチームに引き上げられた。窮余の策であったが、その中から80年代~ソ連末期のチームを長く支えた名選手が出現した。371試合のパフタコル最多出場記録を持つゲンナジー・デニーソフ(2006〜18年にウズベキスタン代表でプレーしたヴィタリー・デニーソフの父)やマラト・カバエフといった選手が10代のうちから実践経験を積み、主力に成長していった。
バズィレーヴィチはシーズン開幕当初不振にあえいでいたチームを短期間で立て直すことを目的に監督就任した経緯があったため、わずか1年でパフタコルを離れCSKAモスクワの監督になった。
選手もコーチも監督も失い、存続の危機に立たされたパフタコルは苦境を乗り越えた。特別措置が終わる3年後の1982年には得点王に輝いたヤクービク、カバーエフ、デニーソフらの活躍で1部リーグを6位で終え、イシュトヴァン・セケチ監督下で見事な復活を遂げる。
9-2. 凋落と時代のうねり
しかしチームメンバーを丸ごと失った代償はあまりに大きく、栄光は長くは続かなかった。その後は急速に成績が悪化していき、6位に入った2年後の1984年に2部リーグに降格。トップリーグに復帰できずにいる間にソ連は急速に崩壊に向かう。80年代半ばになると国民生活も目に見えて悪化し、サッカーどころではなくなっていく。そしてゴルバチョフ体制下の1991年、大混乱の果てにソ連は崩壊した。
この大事件をほとんど対岸の火事で眺めていたウズベクSSRだったが、結局はいつまでもソ連の一部ではいられず、大きな時代の波に呑まれるように1992年にウズベキスタンとして独立。パフタコルは同年から新設されたウズベキスタン1部リーグに参加することになる。旧体制下でのビッグリーグ在籍経験がある唯一のチームとして圧倒的なプレゼンスを有するパフタコルは、その後現在に至るまで国内で揺るぎない地位を守り続けている。
パフタコルの「焼け跡」からは新たな才能が芽生えた。イーゴリ・シュクヴィーリン、ファルホド・マゴメトフ、アザマト・アブドゥライモフ(レジェンドのビロダル・アブドゥライモフの息子)らが事故から数年後に次々とデビューした。80〜90年代の衰退と激動の時代を生き抜いた彼らが、パフタコルや新生ウズベキスタンサッカーの存続・成長に与えた貢献は計り知れない。1994年のアジア大会サッカー競技での衝撃的な優勝はまさにその到達点だった。
さらにパフタコルでキャリアを始めたアンドレイ・ピャートニツキーは後に現在のロシアで活躍、この時期のソ連選手は代表チームをかなり自由に選択できたこともあり、1994年ワールドカップにはロシア代表として参加した。彼はいわば「ソ連のパフタコル」が送り出した最後のワールドクラスの選手となった。もっとも、ピャートニツキーのように、低レベルのアジアでのプレーを嫌いロシアやウクライナといったUEFA加盟国に流出したウズベキスタン出身選手が多くいたことも事実である。
もし黄金世代の選手たちが健在で、新世代と融合していたら……。たらればだが、ウズベキスタンサッカーの発展が「数十年遅れた」というイソコフの言葉が重く響く。
9-3. 事故にまつわる怪情報
本筋から逸れるが、両機は「ウクライナSSRによって撃墜された」というきな臭い噂も立った。調査の結果、何らかの攻撃を外部から受けた痕跡が見つからなかったことで公式には明確に否定された。
なお、真偽のほどは想像に任せるが、以下に当時の「政治とサッカー」にまつわるエピソードを紹介する。
まず、先述の通りパフタコルは設立当初から国家を挙げて惜しみない支援を受けてきたが、それはシャロフ・ラシドフウズベクSSR第一書記のお気に入りチームだったからである。しかし、手厚いサポートの背景には彼のサッカー愛ではなく、政治的野心があったという。
ラシドフは社会主義体制のきわめて忠実な臣下で、綿の生産と工業化の推進を通じてソ連内でも名を上げていた(皮肉にも後にそのことで政治キャリアを終えることになるのだが)。彼はさらなる出世を狙い、時のソ連最高指導者ブレジネフが好んでいたスポーツを実績作りに利用することを考える。そこで、1950年代から存在したサッカーを通じて共和国のプレゼンスを高める風潮に乗り、パフタコルを作った。彼の目論見通りパフタコルは全国の強豪チームと渡り合うまでに成長し、民衆の絶大な人気を得るに至る。
そんなラシドフにライバルとして立ちはだかったのがウクライナ共産党第一書記のヴォロディームィル・シチェルビツキーである。同郷のブレジネフとも親交があり、何よりも彼には指導者としてウクライナSSRの経済とナショナリズムの問題を、中央が望む形で「解決」した実績があった。政治局内での存在感も大きく、70年代にはソ連の次期最高指導者候補と目されていたほどの大物である。そしてシチェルビツキーも、ソ連屈指の強豪ディナモ(キーウ)のパトロンとして知られていた。
同じ「中央の座を狙う連邦構成共和国の有力政治家」である彼にとって、シチェルビツキーはまさに最大のライバル。ラシドフは羨望のまなざしを向けていたかもしれないし、もっと言えば自らの野望の実現を妨げる邪魔者として妬んでいた可能性も否定できない。先述の噂を誰が流したかは定かでないが、何とかしてシチェルビツキーを排除できないか、というウズベクSSR側の思惑と猜疑心がそのような陰謀論を生んだとしてもおかしくない、というわけである。重ねて言うが、真偽は定かではない。
10. 彼らの記憶
「パフタコル1979」の悲劇は今なお語り継がれている。
タシケントやウズベキスタン各地の多くの通り名前は彼らを記念したものである。タシケントには「パフタコル1979通り」が、アンの故郷であるタシケント州ユコリチルチク地区アフマド・ヤサヴィーには「ミハイル・アン通り」がある。
毎年8月にはパフタコルの現所属選手(彼らはシーズン終了後にも墓参を行っている)、ウズベキスタンサッカー関係者、選手やスタッフの遺族が参加する記念試合や追悼式典がウズベキスタンのみならず旧ソ連の各地で開かれる。7880便の墜落地に近いクリリウカ、そして選手が眠るボートキン墓地に17人の慰霊碑が建てられている。最近になりパフタコル・マルカジー・スタジアムにも彼らの生前の功績を称える広場が作られた。ウズベキスタンの国内リーグでも、この日が近づくと事故についての横断幕やプラカードを掲げる観客の姿を見かける。国内のメディアでは、8月初旬になると事故についての特集記事を組んだり追悼式典について報じる。
彼らにちなんだ名前のサッカーチームもある。知る限り2つあり、一つはタシケントに存在したMHSKというチーム。CSKAと同じ陸軍中央スポーツクラブで1997年に1部リーグを優勝した強豪だったが、2001年頃に解散している。1992年は「パフタコル79」、1993年は「ビノコル・パフタコル79」というチーム名だった。そしてもう一つはナマンガン州ウイチにあるアマチュアの「ホティラ79」というチーム。ホティラ(xotira)とは記憶を意味する。こちらは2018年に3部リーグを戦って以降、目立った活動をしていないようだ。
ウズベキスタン青年連盟はチームと協力して、若年世代に事故の記憶を引き継ぐ活動を行っている。事故を機に引退したトゥラガン・イソコフは毎年のように各メディアのインタビューに応じ、当時の記憶を語っている。
以上のように、ウズベキスタンのサッカーに携わるすべての人々がパフタコル1979の悲劇を絶対に風化させず、栄誉や名声を守り続けようという思いを抱いている。
あれから40年が過ぎた。社会は様変わりし、サッカーを取り巻く状況も変わった。バズィレーヴィチは2018年に80歳で亡くなった。今のウズベキスタンサッカーを見て、当時の選手たちは何を思うだろう。独立国家として新たな歩みを始めたウズベキスタンサッカーの成長に目を細めるだろうか、アジア3番手の立ち位置に甘んじワールドカップなど夢のまた夢、国内リーグのスタジアムに閑古鳥が鳴く様を残念がるだろうか。
もし事故がなかったら、彼らの命運がどうなっていたかは誰にも分からない。しかし確実なのは、伝説のパフタコル1979はサッカー、スポーツという垣根を越えてウズベキスタンの歴史にその名を残し、国の誇りとして世代から世代へ語り継がれ、その記憶と尊厳は人々の心の中に消えることなく生き続けてきたということだ。そして、これからも。
事故で亡くなったパフタコルの選手は以下の17名である。より詳しい紹介はこちら(ロシア語)。
11. 終わりに代えて
最後に一編の詩を添える。これはスポーツジャーナリストのエドゥアルド・アヴァネソフ氏の作品で、パフタコル1979で犠牲になった選手・スタッフに捧げたものである。
よく引き合いに出されるのは「まるで私もあの空にいるかのように」で終わる前半部分のみのバージョンだが、以下の通り続きがあるものらしい。なお、ファキールとはイスラームにおける修行者のことで、「スーフィー」「ダルウィーシュ」とほぼ同義。ここでは目標に向かって飾らず素朴に、真摯かつ熱心に取り組む者という意味合いだろう。おそらく。
蛇足になるが最後にもう一つ、1分程度の短い曲を紹介してこの稿を終えたい。『フットボール・マーチ(Футбольный марш)』というこの曲は、大胆で勇ましく、それでいて親しみ易い曲調からサッカーに関するあらゆるシーンで使用され「ソ連サッカーの国歌」と呼ばれるほど親しまれた。現在のロシア・プレミアリーグでも選手入場曲に用いられるなど、その伝統は現在にも受け継がれている。先に紹介した「Ералаш」の冒頭にもオルゴールアレンジ版が使われている。
作曲者はマトヴェイ・ブランテル。その名前は聞いたことがなくても、彼の代表曲『カチューシャ』を聴いたことのない人はあまりいないだろう。ロシアを代表する楽曲として世界中で親しまれており、民謡と勘違いする人もいるほどである。偶然にも両曲は同じ1938年に書かれた。
パフタコル1979の選手も試合前によく聴いたであろうこの曲で、往時に思いを馳せてはいかがだろうか。
(最終更新:2023年10月29日)
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