見出し画像

独断と偏見によるウズベキスタン名選手列伝

 ウズベキスタンのサッカーには100年を超える長い歴史がある。帝政ロシア時代にマー・ワラー・アンナフルにもたらされたサッカーは当地に根付き、その文化は「母」がツァーリからソ連共産党に変わっても、その母が1991年に亡くなり国際社会に放り出されてもなお受け継がれてきた。これまで幾人もの名選手が現れ、そのプレーで人々を魅了してきた。そのほんの一部を筆者の独断と偏見を交えてご紹介する。
 「ウズベクSSR期」「ソヴィエト末期 - ウズベキスタン独立初期」「21世紀初頭「黄金世代」期」「現在」の4つに分けて、年代ごとに選手をリストアップした。実際にプレーを見たことのある選手は、どうしても記述が多くなってしまうことをご了承いただきたい。

ウズベクSSR期(~1980年代)

画像1

ゲンナジー・クラスニツキー(Gennadiy Aleksandrovich Krasnitskiy)


1940年8月27日生、タシケント出身(1988年6月12日没)
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコル
 「ゴールネットを突き破り、ゴールポストをへこませる」と形容された強烈なシュートと、185cm90kgの力強いプレーが武器のストライカー。巨体を投げ出してゴールに迫ったりハイジャンプしたりする写真が残っており、動きも機敏なデカくて走れるタイプだったらしい。豪快かつ繊細なキックを持ち、壁に入った相手選手を恐怖に陥れるフリーキックの名手でもあった。「20世紀最高のウズベキスタン人サッカー選手」との呼び声もある伝説的選手で、アブドゥライモフと並ぶパフタコル初期の名選手。大柄な体躯と持ち前のパワーから、ギリシャ神話に登場する隻眼の巨人「サイクロプス(Циклоп)」と呼ばれることもあった。また南米遠征での活躍から、プレースタイルは全く違えど「ウズベク・ペレ」などともいわれていたという。
 大祖国戦争で父を喪い、貧しい環境から這い上がり18歳でパフタコルに加入。1960年に「ソ連1部リーグにはすべての共和国のチームが1つは参加すべきだ」との決定から昇格したパフタコル。若くして最高峰の舞台で戦い経験を積む。最高成績である1962年のソ連1部リーグ6位の立役者で、12年間の現役生活で通算112得点を挙げ「グリゴーリー・フェドートフ・クラブ(キャリア通算100得点以上のソ連またはロシア出身選手の殿堂)」入りした初のウズベクSSR出身選手。また、ウズベクSSR出身者で初めてソ連代表に選出された選手でもある。
 1963年にソ連リーグ選抜の南米遠征に参加、リマで行われたスポルティング・クリスタルとの試合では、本当に「ゴールネットを突き破る」直接フリーキックを決めた。幼いディエゴ・マラドーナがこのプレーに驚き、記事の切り抜きを大事に保管したという逸話がある。

我々はよく、「強い」「頑丈」「がっしりした」そして「パワフル」といった言葉を用いてサッカー選手を評価します。クラスニツキーに関して言えば、それらの言葉はすべて色あせてしまいます。彼は巨人のように見えたものです。
    ―レフ・フィラトフ(ジャーナリスト、著書「Форварды」にて)

Лев Филатов(1986), «Форварды»

 一方でスターとしてのプレッシャーからか、生来の激しく攻撃的な性格が次第にエスカレートしていく。泥酔しての乱闘事件や当局との対立などピッチ内外で数々の問題行動を起こし、1年間のキャリア停止処分を受けたりスポーツマスターの称号を剥奪されるなど、キャリア後半は万事順風満帆とはいかなかった。同時期に台頭したアブドゥライモフにパフタコルのエースの座を譲ると、1970年に30歳の若さでひっそりと現役を退いた。
 引退後はパフタコルの監督に就任するが、1976年に1部復帰のタスクを果たせず解任。下部リーグのチームを率いた後は労働組合スポーツ協会サッカー部門の代表という現役時代の実績に見合わぬ閑職に置かれる。待遇改善を当局に要求するが申し出は却下、さらにウズベクSSRでの審判員の監視員への配置換えという左遷に近い扱いを受け、苦痛を深める。この時期にも「いい男だが、あまりにも酒を飲みすぎる」という評判だったという。1988年6月、クルガン・チュベ(現タジキスタン、ボフタル)での試合の視察に向かうことになったクラスニツキーは、「最後に見送りに来てくれ」という不穏な言葉を家族にかけた。しかしちょうどその日妻は体調を崩し、幼い娘を一人で空港に行かせるわけにはいかず、母だけが彼を見送ったという。
 6月12日、訪ねて来た友人の目の前で「さようなら!」と言い残し滞在していたホテルの窓から身を投げ、スキャンダラスで波乱に満ちた47年の生涯を終えた。
 生前の功績を称え、ウズベキスタンサッカー連盟によるプロキャリア通算100得点以上の選手による殿堂は「ゲンナジー・クラスニツキー・クラブ」と名付けられている。読書好きな思慮深い人物で、趣味のチェスはアマチュアレベルではあるがなかなかの腕前だったそうである。


画像3

ビロダル・アブドゥライモフ(Birodar Hasanovich Abduraimov)


1943年5月14日生、タシケント出身
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコル
 高速ドリブルと巧みなフェイントで敵陣を突破したフォワード。得点能力が非常に高く、右サイドにポジションを取り、鋭いカットインから小さい足の振りで放たれる正確かつ強烈な左足シュートがトレードマークだった。
 当時としては異例の若さの17歳でデビューすると、後述の通り前年までレスリングとの掛け持ちだったにも関わらず1部リーグで3得点を挙げ早熟な才能を見せる。1968年に22得点でソ連1部リーグ得点王に輝いたが、ウズベクSSRのチーム所属選手の得点王は彼を含めふたりだけの快挙である。その後もエースとして活躍、グリゴーリー・フェドートフ・クラブ入り(17歳で得点経験のある会員は彼とトルペドの伝説的選手エドゥアルト・ストレリツォーフのみである)を果たす。キャリア通算221得点はパフタコル歴代最多記録、そのほとんどをソ連1部リーグで挙げた。1972年には2部リーグで34得点の活躍、格の違いを見せた。
 ソ連代表経験はなかったが、長年国内トップレベルで実績を残した。ヨーロッパ系住民ではない、所謂「ウズベク人」としては最初の、そして当時唯一といってもいい全国的知名度を持つスター選手だった。クラスニツキーと並ぶパフタコル初期のレジェンドプレーヤー。
 32歳で引退後は指導者の道に進み、様々なチームを率いた。1994年にはアジア大会に臨むウズベキスタン代表監督を務めた。コシモフ、シュクヴィーリン、ブガロ、息子のアザマトらの活躍で、現在も国内のサッカー界隈で語り草となっている国際大会デビューでいきなり初優勝に導いた。同時期に活躍したクラスニツキーとは対照的にセカンドキャリアにも恵まれ、現在はウズベキスタンサッカー界の元老的存在。彼の功績を称え、ウズベキスタンサッカー連盟によるプロキャリア通算200得点以上の選手による名誉の殿堂は「ビロダル・アブドゥライモフ・クラブ」と名付けられている。
 デビュー当時からかわいがっていた「パフタコル黄金世代」の死には大きなショックを受け、その後もしばらく黒い服を着用し続けた。後述のイソコフと並び、現在も当時の記憶を語ることが多い。
 少年時代にはサッカー以外にボクシングやレスリングに熱中しており、実際にフリースタイルレスリングの共和国内ユース大会で48kg級を制覇したこともある格闘技の有望選手でもあった。17歳で本格的にサッカー選手一本に絞ってキャリアを始めた異例の経歴の持ち主。


画像3

トゥラガン・イソコフ(To'lagan O'lmasovich Isoqov)


1949年4月21日生、タシケント州ヤンギユル出身
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコル
 小柄だが抜群のスピードと巧みなフェイントを駆使したドリブルが武器のストライカー。ファンから親しみを込め「トゥーリャ」と呼ばれた人気選手。駆け出しの頃にクラスニツキー、アブドゥライモフの両レジェンドと共にプレーしトップレベルの経験を積み、2人の退団後は前時代を知る生え抜きの中堅選手として、アン、フョードロフら若手で構成された「パフタコル黄金時代」の中核となった。
 1979年はシーズン第10節のディナモ(モスクワ)戦にて相手DFのタックルを受けかかとに大怪我を負う。モスクワの病院で懸命にリハビリを行い戦列に復帰するもフィットネスは戻らず、ミンスクにはセカンドチームのメンバーと共に移動した。このことが幸いし、偶然にもドニプロゼルジンシク空中衝突事故を免れる。しかし家族同然に親密だった17人の同僚を一瞬にして失ったショック、喪失感、無力感は計り知れないほど大きかった。仲間の訃報に接した直後、ウズベクSSRのシャロフ・ラシドフ共産党第一書記からの説得も固辞し、打ちひしがれ負傷も癒えきらぬまま現役を引退した。

 彼らとは7-8年間共にプレーし、兄弟のようになりました。他の都市へ行って、ホテル、食事、試合、飛行機……。家に帰ってきて、すぐに翌日また出発して、そんな感じでした。

 彼らにもたくさんの夢があったんです。私がなぜサッカーを辞めたかですか?シャロフ・ラシドフは私に3度電話をかけてきました。「プレーを続けたまえ」と。「いいえ、もうこれ以上プレーはできません」と。クラブハウスに行って、そこで過ごして、そんな私の目には彼らしか映っていませんでした。そんな彼らがいない。朝起きたら、別のチームになっていた。私は何度乞われても「サッカーはもうできません。耐えられません」と言って、そのまま引退しました。

 (中略)葬儀の時に言いました。「友よ、また会おう。言い方が悪かったら許してほしいが、この国のサッカーは50年死んだ。この先の50年、きっと元には戻らない。君たちのような存在は現れない」と。
(2019年、事故から40年に寄せてのTribuna.uzのインタビューにて)

 その後は90年代まで指導者を務め、現在はウズベキスタンサッカーの光と闇を知る人物として、そして人生を一変させた「パフタコル1979」の証人として、歴史の語り手となっている。事故の当事者としては唯一のウズベキスタン在住の存命人物。インタビューや各種出版物で当時の出来事を語るなど、70歳を超えた現在も精力的に活動している。あまり関係ないが、彼の父称"O'lmasovich"の意味は「不死」。空の星となった犠牲者の存在が消えてしまわないよう、その栄光や名誉を守り続けている。

 あれから40年が経ち、私の髪もすっかり白くなってしまいました。彼らがどんな風に歳を取っていっただろうか、私には想像できません。私の瞳の奥に残された彼らは、ずっとあの時の若者のままですから。
(2019年、事故から40年に寄せてのЎзАのインタビューにて)


画像4

ミハイル・アン(Mikhail Ivanovich An)


1952年2月19日生、タシケント州ユコリチルチク出身(1979年8月11日没)
ポジション:ミッドフィルダー
主なチーム:パフタコル
 広い視野、優れたテクニック、最大の武器である正確な長短のパスで攻撃をタクトを振るった高麗人(旧ソ連内に居住する、朝鮮半島にルーツを持つ民族集団)の司令塔。
 タシケントのスポーツ学校で学び、ポリトートデルというファームチームで経験を積み20歳で実質的なパフタコルデビューを飾ると、アブドゥライモフ、イソコフ、フョードロフらの前線にキラーパスを供給。キャリア後半には自ら得点を狙う積極性も身に着け、生来の強いキャプテンシーでチームを牽引した。
 1976年のUEFA U-23欧州選手権ではキャプテンとしてソ連代表の優勝に大きく貢献、70年代のパフタコル「黄金世代」の心臓部で、同郷で親友のフョードロフと並び、数少ない全国的知名度を持つウズベクSSRの選手だった。
 1979年8月11日、タシケントからミンスクに向かう飛行機が墜落(ドニプロゼンジンシク空中衝突事故)し、乗っていたチームメイトやスタッフ16名と共に命を落とした。直前の試合で右足を傷め遠征に帯同しないはずだったが、どういうわけかチケットを入手し事故機に搭乗していた。何が彼を空港に向かわせたのか、真相は闇の中である。事故で主力を一度に失ったパフタコルは低迷。1984年に2部降格し、そのままソ連崩壊を迎える。当時ソ連最高のミッドフィルダーだった彼の死は「国家的喪失」とまで言われた。 
 出身地のアフマド・ヤサヴィーは現在も高麗人が住むタシケント近郊の小さな農村。生家の前の道は「ミハイル・アン通り」と名付けられている。事故直後に生まれた息子のドミートリー氏もサッカーのキャリアを歩み、有名な若手選手の指導者となった。

 詳細は、以下の記事にて解説しています。


画像5

ヴラジーミル・フョードロフ(Vladimir Ivanovich Fyodorov)


1955年1月5日生、タシケント州ユコリチルチク出身(1979年8月11日没)
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコル
 「気配のないところから得点ができる」と称された高い得点能力を持つスピードが武器の左利きのセンターフォワード。小柄ながら空中戦にも強いオールラウンドなストライカー。闘争心溢れるプレーでも知られ、70年代パフタコルの攻撃サッカーを最前線で引っ張った。
 タシケント近郊のコルホーズで生まれ育つ。ウクライナ出身の父イヴァン氏は大祖国戦争で片腕を失いながらも村のチームで草サッカーを嗜み、子供達にサッカーを教えていた。タシケントのサッカー学校を経て17歳でパフタコルでデビュー後、10代のうちに主力に定着。アブドゥライモフに変わって新エースの座につくと得点を量産、若くして当時のソ連最強フォワードとして全国区の知名度と評価を得た。
  パフタコルでの活躍が評価されソ連年代別代表に選出、1976年のUEFA U-23欧州選手権の優勝、同年のモントリオールオリンピックの銅メダル獲得に大きく貢献。その後は順調にソ連フル代表でのキャリアを築き、24歳にして国際Aマッチキャップ数は16、非公式試合を含むと45試合に出場した。その高い能力は、国際試合でも遺憾なく発揮された。
 同郷で親友のアンとの連携は抜群。彼のパスをことごとくゴールに突き刺し、ソ連屈指のホットラインと恐れられた。「黄金世代」と呼ばれた70年代パフタコルの中でも最高の実力と人気を誇る中心選手で、モスクワの強豪チームからの誘いを断りパフタコルでプレーし続けた。ウズベクSSR出身で初めてスポーツマスターの称号を得たサッカー選手でもある。
 心身ともに充実しさらなる飛躍が期待された中、1979年8月11日、タシケントから現ベラルーシのミンスクに向かう飛行機が墜落(ドニプロゼンジンシク空中衝突事故)。チームメイト、スタッフ16名と共に命を落とした。
 よく歌い、ギターを弾く明るく陽気な人物だった。

 詳細は、以下の記事にて解説しています。


ソヴィエト末期 - ウズベキスタン独立初期(1980年代 - 2000年)

画像6

ゲンナジー・デニーソフ(Gennadiy Anatoliyevich Denisov)


1960年8月20日生、シルダリヨ州シルダリヨ出身
ポジション:ディフェンダー
主なチーム:パフタコル、スパルターク(ウラジカフカース)
 80年代のパフタコルを支えたディフェンダー。17歳でのデビュー以降、1986年の兵役期間(CSKAに在籍)を除き1992年まで13年間パフタコルに所属し、1985年からは7年間キャプテンも務めた。左サイドバックがメインポジションだが、中盤やセンターバックもこなした。守備的な選手ながら得点能力が高く、1985年には37試合で8得点を記録している。またパフタコルでのリーグ戦最多試合出場記録(通算377試合)保持者でもある。
 19歳だった1979年にはドニプロゼルジンシク空中衝突事故に遭うが、当時はセカンドチーム所属だったために事故機に搭乗せず奇跡的に難を逃れる(当時セカンドチームはトップチームのスケジュールと連動しており、トップチームの数日前に遠征地に前乗りするのが慣習だった。この時も2日前にミンスクに移動している)。チーム崩壊後は出場機会が急増、若くしてチームの中心選手に成長。ジリ貧になり低迷するパフタコルで奮闘した。
 キャリア後半は主にソ連2部リーグでのプレー。ソ連崩壊後の1992年にロシア1部、ウラジカフカースのスパルターク(現アラニヤ)に移籍、すでにベテランの域に達していたが、1992年のリーグ戦2位に貢献し健在ぶりを見せた。最晩年には再びウズベキスタンに戻り、37歳まで第一線でプレーした。引退後は指導者になったが成功せず、現在はパフタコルのスカウト。
 息子はヴィタリー・デニーソフ。父と同じ左サイドバックとしてロシアで長くプレーし、ウズベキスタンを代表する名選手となった。


画像7

イーゴリ・シュクヴィーリン(Igor Anatolyevich Shkvyrin)


1963年4月29日生、タシケント出身
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコルほか
 抜群のスピードと両足からの正確なシュートで活躍したウズベキスタン最強フォワードの一人。
 1983年に3部ヤンギイェルでデビュー。1988-89年のドニエプル以外は下部リーグを転々とした。才能が開花したのはソ連終末期の1990年、パフタコルで37試合出場37得点の大爆発(2部リーグ得点王)。翌年開幕したウズベキスタン1部リーグでも14得点。ソ連崩壊後多くの選手国外に移籍する中、彼も1992年からロシア、イスラエル、マレーシア、インドでプレー。ロシア以外のチームで国内リーグ優勝を経験した。同一チームに連続4年以上の在籍経験のない渡り鳥だが、2001年に38歳でブーツを脱ぐまでの21年間、14チームで積み重ねた通算得点数は275。
 なお1992年の国外移籍の際、フランスのサンテティエンヌからオファーがあり、チーム間も合意していたが金銭面で折り合いがつかず破談になっている。ロケレン(ベルギー)、フォアヴェルツ(オーストリア)への移籍話も同様の理由で流れた。その中で当時マッカビ・テルアビブ監督だったアヴラム・グラントが彼に注目。チームのフロントは獲得に意欲を示さなかったので、グラントは善意で同じ町のハポエル・テルアビブに彼を紹介し、イスラエル行きが決まった。
 ウズベキスタン代表でも数少ない国外チーム所属選手として活躍。1994年には広島で開かれたアジア大会サッカー競技に出場、コシモフ、アザマト・アブドゥライモフらと強力攻撃陣を形成し7試合で8得点の大暴れ。ウズベキスタンの国際大会初参加・初優勝に貢献、同年の年間最優秀選手に輝いた。29歳での代表デビューだったが、通算31試合で20得点を記録。初期の絶対的エースとしてアジアで格の違いを見せた。なお、1992年に行われた独立後最初の試合(対タジキスタン)でキャプテンを務めた。
 引退後は指導者に転身。2008-2016年に率いたオルマリク(現AGMK)では中堅チームを4位に引き上げたことが評価され、2009年の年間最優秀監督賞を受賞。最優秀選手賞と最優秀監督賞を受賞しているのは彼とミルジャロル・コシモフのみである。また2008-2010年はウズベキスタン代表でコシモフ監督のアシスタントコーチも務めた。2021年にはトゥロンの指揮を執った。
 少年時代はサッカーにあまり興味がなく、飛込競技やサンボをしていたという。将来は軍人に憧れていたが、陸軍学校の入学試験で発音に訛りがあるとして不合格、夢を諦めサッカー選手の道を選び、大成した。


画像8

ミルジャロル・コシモフ(Mirjalol Qo'shoqovich Qosimov)


1970年9月17日生、タシケント出身
ポジション:ミッドフィルダー
主なチーム:パフタコル、アラニヤ
 左足から繰り出す高精度のパスとセットプレー、変幻自在のドリブル、高い得点能力が武器のプレーメーカー。1990-2000年代を代表する選手で、年間最優秀選手賞を4度受賞、「ウズベキスタンサッカーの王」と呼ばれたポスト・ソヴィエト時代のウズベキスタン最高の選手。
 少年時代から才能に恵まれ、故郷を離れモスクワのスポーツ学校に学ぶ。1987年にタシケントに戻ると、同年のFIFA U-16世界選手権カナダ大会にソ連代表として出場し優勝。さらに翌1988年のUEFA U-18欧州選手権も「連覇」する。このときコシモフは両チームで代表キャプテンを務めた。
 パフタコルの若き中心選手として活躍し、ウズベクSSR最高の選手の評価を得ると、ソ連崩壊後の1992年にウラジカフカースのスパルターク(現アラニヤ)に移籍。以降はロシアとパフタコルを往復するキャリアを送る。
 強豪スパルタークでは、若き指揮官ヴァレリー・ガザエフに率いられた多士済々の好選手をパスで操り八面六臂の活躍。1995年にはロシア1部リーグで優勝。同年のUEFAカップ(当時)1回戦のリヴァプール戦で得点を挙げ、UEFA主催大会で得点した史上初のウズベキスタン人選手となった。
 ウズベキスタン独立直後から代表に選出、1994年のアジア大会ではシュクヴィーリンらとともに優勝に貢献。ソ連時代の選手や指導者が国を離れ、レベル低下が続く中でキャプテンとしてウズベキスタンを支え続けた。国際舞台では得点が多く、歴代3位の通算31得点を記録している。2005年、ドイツW杯アジア予選の大陸間プレーオフ進出決定戦のバーレーン戦を最後に現役を退いた(この試合について日本人である筆者が語るのは心が痛むので、詳細はリンク先で確認していただきたい)。
 現役引退後はすぐにオリンピック代表監督を務めたのち、2007年に新興勢力クルフチ(現ブニョドコル)の監督に就任。1年目で古巣パフタコルの8連覇を阻止しリーグ初優勝。同年のAFCチャンピオンズリーグでもベスト4とウズベキスタンサッカー界にセンセーションを巻き起こす。その後はジーコやスコラーリの大物監督招聘の煽りを受けてやや雑に扱われるも、ブニョドコル最強時代の指導者として活躍した。
 代表監督としても2度のW杯予選を戦った。特に2度目の2014W杯アジア最終予選は最終盤に驚異の追い上げ見せるも、結果は得失点わずか「1」の差で韓国に次ぐ3位、大陸間プレーオフ進出決定戦ではヨルダンと2試合合計2-2、最後は壮絶なPK戦の末敗れW杯出場を逃した。蛇足だが筆者がサッカーの試合で涙を流したのはこのときだけである。
 現在はAGMKの監督。ベテランを中心に据えた堅実な戦いぶりと無類の勝負強さでチームを上位争いの常連に仕立て上げた。華々しい経歴と確かな実績を持つウズベキスタンサッカー界の重鎮。息子にはAGMKのミッドフィルダー、ミルジャモル・コシモフがいる。

 ウズベキスタンの名選手に共通することだが、真面目で口数の多くないタイプの人物。1992年、スパルターク(ウラジカフカス)でのプレーが評価され、当時スペイン1部のバジャドリードとログロニェスからオファーを受けた。ウズベキスタン中が沸き立つ中、テレビ番組のインタビューで「ここ(パフタコル)にいると成長が止まるので、よりレベルの高い欧州リーグで挑戦したい」と話した。このことが国内サッカーファンに誤解を与え怒りを買い、「国の裏切り者」の烙印を押され、「イスロム・カリモフ前大統領も彼の発言に腹を立てた」など根拠もない噂を含む激しい非難にさらされた。慌てて交渉を切り上げスペインからタシケントに戻るも、古巣パフタコルからも締め出され、練習には参加するものの契約は用意されず、1993年シーズンの開幕から数ヶ月間フリーエージェントのまま過ごした辛い過去がある。
 もちろん、彼はソ連崩壊後の混乱で代表国を変更する選手が続出(例えばソ連末期の名選手アンドレイ・ピャートニツキーはタシケント出身で、1992年に一度はウズベキスタン代表を選ぶも後にロシア代表に変更。1994年のW杯をロシア代表として参加した。)する中、より「成長が止まらない」国の代表チームでのプレーを選ばず、長らくウズベキスタン代表の一員として活躍した。現役引退後も指導者としてウズベキスタンサッカーに携わっている。自らの成長が国家に還元されることを望んでの発言だったのは言うまでもない。

ニコライ・シルショーフ(Nikolay Vladimirovich Shirshov)

1974年6月22日生、タシケント出身(2021年12月28日没)
ポジション:ディフェンダー
主なチーム:パフタコル、ロストセリマシュ(現ロストフ)
 スピードに優れ、正確なクロスと積極的な攻撃参加が持ち味の左サイドバック。ロシア1部リーグでも長くプレーし、低迷が続く1990年代後半から2000年代前半のウズベキスタン代表を支え続けた選手。
 18歳でパフタコルの門を叩くと、すぐに頭角を表し若くして主力選手の座を掴む。ちょうどネフチの黄金時代に重なるため優勝回数は多くないが、国内を代表するサイドバックの評価を確たるものにし、代表チームにも定着。転機が訪れたのは2000年。ロシア1部のロストセリマシュ(現ロストフ)に、同僚のアンドレイ・アコピヤンツと共に移籍。ロストセリマシュは決して強くない中堅チームだったがここでも主力として5シーズンプレー。その後はウズベキスタンには帰らずにロストフ近郊に留まり、アマチュアレベルでプレーを継続。2013年からはノヴォシャフチンスクのチームの監督を務めていた。
 ウズベキスタン代表では、1996年から2005年まで9年間で63試合に出場し13得点。先述の通りソ連崩壊により国家のあらゆるリソースが失われ、当然代表チームもその煽りを受け急速に弱体化していった時代にプレーした。3度出場したアジアカップは、1996年と2000年(ワースト失点記録の日本戦:●8-1にもフル出場している)はグループリーグ最下位。2004年大会のみ決勝トーナメントに進むも、ベスト16でバーレーンに敗北。後述の「黄金世代」が台頭し始めてからもプレーを続け、2001年のW杯予選では突破に望みをつなぐ劇的なゴールを記録したりもした。しかし2005年のW杯予選クウェート戦で負傷。大陸間プレーオフ出場決定戦に駒を進めたウズベキスタン代表は、その後悲劇的な敗戦を喫することになる。そのクウェート戦以降、彼が代表チームでプレーすることはなかった。
 残念ながら輝かしい実績はなかったが、多くの批判にさらされた同時代において、ロシアとウズベキスタンを往復しながら、黙々と自分の仕事を続けた彼の評価は非常に高い。2021年12月28日、「血栓による血管の破裂」により47歳の若さでこの世を去った。


21世紀初頭「黄金世代」期(2001年~2010年)

画像9

マクシム・シャツキフ(Maksim Aleksandrovich Shatskikh)


1978年8月30日生、タシケント出身
ポジション:フォワード
主なチーム:ディナモ(キエフ)
 しなやかな身のこなしと力強いプレーを兼ね備え、類まれな得点感覚と正確無比のシュートで得点を量産したウズベキスタン史上最強、不世出の伝説的ストライカー。代表通算34得点は歴代最多である。
 パフタコルの育成組織で育ち、ウズベキスタンでプロ経験のないまま18歳でロシアに渡ると、2部のチームを渡り歩き技を磨いた。キャリアの転機は21歳だった1999年。スパルターク(モスクワ)のトライアウトに落ち、ゼニトのオファーを断った直後にウクライナの名門ディナモ(キエフ)に移籍すると突如才能が開花。アンドリー・シェフチェンコの後釜に収まると、常勝チームをエースとして引っ張り、6度のリーグ優勝に貢献した。
 その後アルセナル(キエフ)、ホヴェルラに移籍し2015年に第一線を退くまでウクライナ1部リーグで積み上げた得点数は歴代最多の171。2度のリーグ得点王に輝いた。国際大会でも他国の強豪チームと渡り合い、UEFA主催大会通算出場75試合と通算得点数23。どちらもウズベキスタン出身選手では断トツの最多記録、アンタッチャブルレコードと言ってもいい圧倒的な数字である。2006年のCLグループステージのディナモ対レアル・マドリーの試合で挙げた2得点は、ウズベキスタンでは半ば神話の出来事となっている。
 1999年にウズベキスタン代表デビュー。母国でのプレー経験がなく、ロシア人家系のためロシア代表も選択可能だったが「ウズベキスタン以外選択の余地はなかった」という。すぐにエースの座につき、アジア最強フォワードとして相手国から恐れられた。日本代表とも何度か対戦しており、その名はウズベキスタン人選手にしては比較的知名度が高い。アジアカップには2000年、2007年、2011年の3度出場。2011年大会は中盤の黒子にスタイルチェンジし、4位入賞を陰に陽に支えた。2014年に代表引退するもウズベキスタン代表は彼の後継者探しに苦労し、2020年にショムロドフが出現するまで深刻なフォワード不足に悩まされることになる。
 ディナモ時代は個人名とトレードマークの背番号16(代表でも長らく背負った)にちなみ「マックス16」という爆撃機を模した愛称で知られた。あまり知られていないが兄のオレグ氏もウズベキスタンで活動したサッカー選手で、ナフバホルのエースとして若くして2度のリーグ得点王になり将来を期待されたが、怪我により若くして引退した。
 現役引退後はウクライナの市民権を取得。ロシア1部のロートルのアシスタントコーチを務めた後、2022年夏にパフタコルのSDに就任し、すぐに監督に異動。母国に帰還したレジェンドが、王者らしからぬ戦いを続けるチームの立て直しに着手する。


ウルグベク・バコエフ(Ulug'bek Istamovich Baqoev)

1978年11月28日生、ブハラ出身
ポジション:フォワード
主なチーム:トボル、ジェティス、イルティシュ(いずれもカザフスタン)

 2000年代前半〜2010年代前半の代表を地味ながらしっかり支えたフォワード。身長は183cmほどで特筆すべき高さではなく、俊足ではなく技術も拙くやや気性の荒い選手だったが、最大の武器は岩のように屈強なボディと尽きることのない闘争心。相手ディフェンダーに遠慮なくぶつかっていく気迫あふれるプレーの傍ら、巧みにフリーの状況を作り出しワンタッチゴールを決めるしたたかさも持ち合わせていた。空中戦にめっぽう強く、ヘディングシュートも得意。華やかさとは無縁の選手だったが、常にアクセル全開、熱く、泥臭くゴールを目指し続けた。また、大舞台で力を発揮する勝負強いタイプでもあった。
 キャリアを始めたのは地元のブハラ。22歳でリーグ戦23得点を挙げブレイクすると、CSKA(モスクワ)に将来性を見込まれロシアへ。しかしレベルの違いを埋めることはできず、大半をリザーブチームでプレーし、ほとんど何もできずに帰国。その後もロシア2部に挑戦したりもしたがうまく行かず。転機が訪れたのは20代も半ばに差し掛かった2004年。カザフスタン1部のトボルに加入するといきなりリーグ得点王。4シーズンで55得点をマークし一躍リーグのスターになる。その後一旦国内に戻りブニョドコルでプレーしたりUAEでプレーしたりするものの、キャリア大半をカザフスタン1部で過ごし、外国人選手最多記録の111得点。スポーツ紙"Goal"が選ぶ2011年のMVP、ウェブサイト"Sports.kz"が選ぶ2011年、2012年のMVP、4度のリーグ得点王など輝かしい実績を残した。キャリアの大半を国外で過ごした渡り鳥で、珍しくパフタコルの所属経験がない。
 ウズベキスタン代表に定着したのは、まさにカザフスタン1部で覚醒していた2006年。やや遅咲きだがすぐにチームに欠かせない選手となり、数々の試合に出場。代表での得点数は16と多くはないが、多くの印象的なゴールを決めた。彼を語る上で欠かせないのは2011年のアジアカップ。負傷離脱したDFクルシェルニツキーの代役でメンバー入り、彼の背負うはずだった、FWには似つかわしくない「背番号2」のジャージを与えられた。グループリーグは出番がなかったが、奇襲好きのアブラモフ監督が準々決勝のヨルダン戦でスタメンに抜擢。大会初出場ながら2得点。2-1の勝利に大きく貢献し、ヒーローとなった準決勝のオーストラリア戦では退場処分を受け一足先に大会を終えてしまったが、ウズベキスタンの4位入賞は彼なしではなし得なかった。相手のマークを振り切り、空中を走るかのような八艘飛びからジェパロフのクロスを頭(ヘディングを空振りし、左肩に当たったボールが運良くゴールインした)で合わせた先制点、そしてハサノフの低いクロスに相手DFを背負いつつ倒れ込みながら左足を合わせ、狭いニアサイドを抜いた2点目は、まさに彼の真骨頂だった(冒頭の写真は2点目直後のシーン)。
 同い年のシャツキフやゲインリフら同年代には有力なFWが多く、彼らの影に隠れていた時期もあった。起用も不安定だったが、時に彼らの相方、時にスーパーサブとして結果を出し続ける様には職人の趣さえあった。
 現役引退後は指導者の道に進み、現役時代さながらの成功を収めている。地元のブハラで1シーズン監督を努めた後、2018年からソグディアナへ。2021年シーズンはチーム30年ぶりのリーグ戦2位フィニッシュに導くなど黄金時代を迎えており、守備に軸足を置く堅実な戦法を好むその手腕は高い評価を得る。コーカンドのアシュルマトフ監督と並ぶ若き敏腕。
 真偽の程は定かでないが、エネルヘティクBGU(ベラルーシ)所属の若手FWアミルベク・バコエフは彼の息子との情報がある。
 完全に蛇足だが、筆者が2番目に名前を覚えたウズベキスタン人サッカー選手で、一番好きなウズベキスタン人サッカー選手でもある。


画像10

テムル・カパゼ(Temur Takhirovich Kapadze)


1981年9月5日生、フェルガナ州フェルガナ出身
ポジション:ミッドフィルダー
主なチーム:パフタコル、ブニョドコル、アクトベ
 メスヘティア・トルコ人(ジョージア南部に住むテュルク系言語を話すムスリムの社会集団。第二次世界大戦期に多くが中央アジアに強制移住させられた)のミッドフィルダー。機動力と強靭な身体を併せ持ち、装甲車のような縦方向への豪快な突破が武器。ダイナミックなフリーラン、意外と器用なボール捌き、中盤より前ならどこでもこなすポリバレントさを持ち、ウズベキスタンの素早いコンビネーション攻撃に不可欠な存在だった。常にチームの勝利を信じ闘う姿は精神的支柱でもあった。
 著名なサッカー指導者タヒル氏を父に持ち、地元のツェメンチやネフチで頭角を表し21歳でパフタコルに移籍。ここで国家を代表する選手に成長するが、2008年に同僚のジェパロフと共にブニョドコルに電撃移籍。在籍した3年間でリーグ戦の敗北はたったの「2」という驚異の最強時代を支えた。
 その後は韓国、UAE、カザフスタンのチームを渡り歩き、最後はロコモティフ(タシケント)に所属。大型補強で強豪に変貌したチームをキャプテンとして率い、2017年にリーグ連覇を置き土産に36歳でブーツを置いた。20年のキャリアにおいて、3チームにまたがり2001年から2011年まで何と個人10連覇(ネフチ:2001年、パフタコル:2002-2007、ブニョドコル:2008-2010)を達成、それ以外のシーズンでも2位以下で終えたシーズンが1度もないという圧巻の戦績。キャリア通算での獲得タイトルは25、行く先々でチームを勝利に導いたまさに「優勝請負人」。
 代表キャップは歴代2位の119。独立後の混乱・衰退期を経て、ウズベキスタンをアジア第二勢力としてW杯にあと一歩に迫るまでに押し上げた「黄金世代」の一員で、21世紀初頭のウズベキスタンを代表する選手の一人。アジアカップは2004年大会から2015年大会まで4回連続出場、背番号18を長く背負った。
 引退後は指導者になったが、最初の仕事が代表監督(暫定)という異例のものだった。ロコモティフのコーチとウズベキスタンU-19代表監督を兼任していたが、クラブチームと代表の兼任を禁止するルールの制定に伴いロコモティフを退団、サッカー連盟が運営するU-21選抜のオリンピクとU-21代表チームの監督(両者は同一人物が指揮することになっている)となった。


画像11

セルヴェル・ジェパロフ(Server Reshatovich Djeparov)


1982年10月3日生、タシケント州チルチク出身
ポジション:ミッドフィルダー
主なチーム:パフタコル、ブニョドコル、FCソウル
 21世紀のウズベキスタンを代表するレジェンド。正確無比の左足から繰り出す多彩なキックが武器の攻撃的ミッドフィルダー。テクニシャンにありがちな当たりの弱さもなく、空中戦もインファイトも果敢に挑むアグレッシブさも持ち合わせていた。寡黙な性格だがチームを90分間プレーで引っ張る闘将で、代表キャップは歴代最多の126。
 ナフバホル、パフタコルを経て2008年にブニョドコルに電撃移籍すると、無敵のチームで大活躍。キャプテンを務め中盤の選手ながらリーグ得点王。リーグ、カップの2冠、ACLでは初出場で準決勝進出。ウズベキスタン年間最優秀選手賞、ウズベキスタン人選手初のアジア年間最優秀選手賞に輝くなど完璧な1年を過ごし、一気に国際的知名度を上げた。2012年からはウズベキスタンを離れ韓国へ。FCソウルなどで計5シーズン活躍し、Kリーグでプレーするウズベキスタン人選手の先鞭をつけた。その他サウジアラビア、イラン、カザフスタンのチームに所属。国内のメタルルグでのプレーを最後に、2019年にキャリアを終えた。
 代表でも2005年から引退する2017年まで12年間チームキャプテンを務めた。アジアカップは2004年大会から2015年大会まで4回連続出場、2011年大会はシャツキフ、カパゼら実力者とアフメドフら若手をまとめ、自らも大活躍。自身2度目のアジア年間最優秀選手賞に選ばれた(複数回受賞は彼の他に3名のみ)。しばしばW杯予選戦ったことから日本人にもある程度その名を知られており、未だに「ウズベキスタンといえばシャツキフとジェパロフ」というサッカーファンも多いようだ。W杯出場はならなかったが、2000年以降ウズベキスタンは80年代前半生まれの新世代(筆者は「ウズベキスタン黄金世代」と呼ぶ)が台頭しアジアの第3勢力からW杯が狙える位置にまで成長。その世代の中心として奮闘した。長く背負った背番号8はシャツキフの16、カパゼの18と並ぶ当時の名物番号。
 全盛期の2000年代前半から半ばにかけて、襟足だけを長く伸ばした、かの悪名高い「マレット」に似た奇妙な(ダサい)髪型をしており、彼に憧れる少年が真似るという異常事態が発生した。幼少期に習っていた体操で身に着けたバック宙から右手を突き上げるゴールセレブレーションが有名。
 自らの出自(クリミア・タタール人の家系で彼自身はロシア語が第一言語。クリミア・タタール語はウズベク語に比較的近縁の言語だが、話者数の激減で存続が危ぶまれている)もあってか、公用語のウズベク語が苦手なことを明かしている。インタビューでもウズベク語の問いかけにロシア語で答える不思議なシーンがよく見られる。余談だがピアノがうまい。
 現役引退後はウズベキスタンU-14代表監督を務めていた。2022年8月にロコモティフの監督に就任したが、降格圏ギリギリで低迷するチームを立て直すことはできず、10月にあっさり解任されてしまった。


画像12

イグナチー・ネステロフ(Ignatiy Mikhailovich Nesterov)


1983年6月20日生、タシケント出身
ポジション:ゴールキーパー
主なチーム:パフタコル、ブニョドコル、ロコモティフ
 21世紀のウズベキスタンを代表するゴールキーパー。身長は180cm前後(資料によって177cm~183cmとまちまち)と小柄だが、素早い身のこなしでボールを弾き返す「動」タイプのゴールキーパー。至近距離や混戦からのシュートに非常に強く、当たると止まらない。上背ゆえにハイボールに弱かったが、ミスの少ない高いセービング技術や安定感も備えた総合力の高い選手。戦犯探しが大好きなウズベキスタンのサッカーファンが、全くと言っていいほど"aybdor"に認定しなかった守りの要。
 タシケントのスポーツ学校でサッカーを学び、サマルカンド・ディナモ(現ディナモ)で17歳でデビュー。翌シーズンに強豪パフタコルに引き抜かれエリートキャリアを歩み始めると、その後パフタコルから王座を奪ったブニョドコルに移籍。2014年からは大型補強でウズベキスタン最強チームにのし上がったロコモティフに所属。2002年から2019年までウズベキスタン1部リーグ13回(それ以外のシーズンも全て2位)、カップ戦13回優勝と輝かしいキャリアを送る。
 ウズベキスタン代表には2002年から招集され、2007年ごろ名手ブガロからレギュラーを奪う。その後はいつの時代も貧弱なディフェンス陣を前にしながらもゴールを守り、またライバルに付け入る隙を見せない圧倒的な能力で自身の守護神の座も守り続けた。キャップ数はゴールキーパーでは最多、他を大きく引き離す109。歴代で見ても3番目の数字である。
 アジアカップには2004、2007、2011、2015、2019年の大会に出場。5大会出場は大会最多記録。2011年大会では4位入りに大きく貢献。2015年以降は世代交代の波に揉まれ代表から遠ざかったが、新選力が軒並み不安定だったことで再び代表に。すでに歴代最年長出場記録(35歳7か月1日)保持者だったが、2019年大会でも変わらぬ好プレーを披露。ベスト8を置き土産に代表引退を表明した……。
 しかし大会後にドーピング検査違反が発覚。パフォーマンス向上のために摂っていたダイエット薬に禁止成分が含まれていたという。代表のチームドクターは悪意ある医薬品メーカーにハメられたと弁明したが、処分を受け入れ8か月の出場停止に。
 停止処分が明けた後もプレーを続け、2020年からはロコモティフからキジルクムに移籍。かつて所属したような常勝チームではないが、37歳の今も老け込むことなくプレーを続ける。2000年代半ばから2010年代初頭にかけて代表の中心を務めた「黄金世代」の中では数少ない現役選手。


画像13

アレクサンドル・ゲインリフ(Aleksandr Rudolfovich Geynrikh)


1984年10月6日生、タシケント州アングレン出身
ポジション:フォワード
主なチーム:パフタコル、アクトベ、オルダバス
 スキンヘッドのヘアスタイルが印象的なフォワード。特徴的な名前は、彼がドイツ人の家系であることを示している。
 フォワードだが純粋な点取り屋ではなく、やや下がった位置でのドリブル、パス、ミドルシュート、セットプレーの能力が高い少し変わったスタイルの選手。カシモフやジェパロフも精度の高いスワーブのかかったキックを蹴ったが、彼のボールは鋭く落ちる独特の軌道で伸びのある球質だった。また、浮き球のコントロールに関しては世界レベルの技術を持っていた。
 あまりにも少ない運動量、低い守備の意識、体力のなさ、足の遅さなど欠点も多く、30台を前にフィジカルが衰えますますピーキーな選手に。キャリアを通じて起用する監督やパートナーを選ぶ選手だったが、2009年の親善試合ボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦では不甲斐ない試合展開に苛立ったファンから愛称の「サーシャ!」の大合唱が起こる(この試合は招集外)など、ファンからの人気は非常に高かった。
 早くから将来を嘱望され、18歳で年間最優秀選手賞を受賞。パフタコルでの活躍が目に留まり、翌年にロシアの強豪CSKAに移籍。しかしロシアではメインチームに割って入れず、わずか2年でパフタコルに復帰。その後も再度ロシアに挑戦するも、2年でみたびパフタコルに復帰。欧州挑戦は失敗に終わったが、国内を代表する選手に成長する。現役後半は主にUAE、韓国、カザフスタンのチームでプレーした。
 2002年に代表デビュー。2003年にネステロフと共にFIFA U-20世界選手権に出場、2得点を挙げる。翌年には20歳でアジアカップに出場し、ここでも2得点。2007年大会も1得点、2011年大会ではグループステージの中国戦で決めたゴールが今でも語り草である。3位決定戦の韓国戦でも、敗れはしたがファインゴールを含む2得点、4位入りに貢献した。
 その後も長く代表の攻撃を引っ張り、2017年、ロシアW杯アジア最終予選の悲劇的な韓国戦(「勝てばW杯」という試合だったが、終始韓国の守備を崩せずスコアレスドロー。大方の予想に反し3位のシリアがイランに引き分けたことで大陸間プレーオフ進出決定戦にも出場できず、4位で予選を終えた)を最後に代表を引退。試合後に涙を流したシーンは多くのファンの記憶に残っている。代表キャップは98、歴代2位の通算34得点を挙げ、2000年代のウズベキスタンの得点源として活躍した。
 引退後はカザフスタンのアクトべでユースチームのセレクション責任者を務めたが、現在は何をしているか不明。2002年のアジアユース選手権では"Нас не догонят(誰にも止められない)"と書かれたアンダーシャツを着てプレー。エースとしてウズベキスタンのU-20W杯初出場に大きく貢献した。


画像16

アズィズ・ハイダロフ(Aziz Saidrahimovich Haydarov)


1985年7月8日生、タシケント出身
ポジション:守備的ミッドフィルダー
主なチーム:ブニョドコル、アッ・シャバーブ
 豊富な運動量が持ち味の守備的ミッドフィルダー。伝統的に守りが脆弱なウズベキスタンには非常に珍しい専守防衛タイプで、自らは積極的に攻め上がらず、後方で組み立てやサポートに従事する黒子。広い視野、正確なロングキック、ワンタッチプレーという武器も兼ね備え、縦に急ぎたがる選手が多い中、攻撃のスピードを変えられる数少ない存在だった。目立たない存在ながらウズベキスタンに不可欠な「縁の下の力持ち」として長年活躍した。
 早くから将来を嘱望されたような選手ではなく、18歳の時点では2部のチロンゾルというチームにいた。紆余曲折を経て当時は中堅チームだったロコモティフに移籍し技を磨く。2007年に1部昇格したばかりのクルフチに引き抜かれる。翌年から「ブニョドコル」と改名したチームで主力に定着、無敵のチームでプレーするうちに自らの能力もさらに向上、ウズベキスタン代表にも定着した。2011年のアジアカップ後に、カパゼ、ジェパロフ、イスモイロフら同僚と同じく国外にキャリアを移し、UAEのアッ・シャバーブに移籍。ハイレベルのリーグで揉まれ、さらにレベルアップ。2010年代後半から中東でプレーするウズベキスタン人選手がちらほら現れ始めたが、彼はその嚆矢と言える。
 2018年に古巣ブニョドコルに復帰、2019年にプロキャリアを開始したロコモティフで1年プレーして現役を退いた。ウズベキスタンのスター選手としては非常に珍しく、王者パフタコルの所属歴がない。
 ロコモティフ時代にU-23代表のキャプテンを務めており、フル代表ではクルフチ加入の2007年から招集。アジアカップのグループステージという少し異例のデビュー戦となった。いつの時代も中盤は人材飽和気味だが、高い守備力と配球能力で代表の中心戦手であり続けた(アンカーを置かない監督の下では控えになることもあるにはあったが)。彼の引退後、代表には純粋な守備的ミッドフィルダーが長年出現していない。なお背番号7を長年着用していた。日本とも対戦経験豊富だが知名度は高くない。
 チロンゾルでプレーしていた18歳時にロシアに向かいロコモチフ(モスクワ)のトライアウトを受けるという大胆な行動に出ている。あっけなく不合格となるも、悪徳代理人に目を付けられカザフスタンのチームへの契約を持ちかけられる。この時期、不正入手したカザフスタンのパスポートを使用して国籍、生年月日、名前を偽った上でチームに売り込みをかけるケースが続出していた。しかし彼はこの申し出を断り、ウズベキスタンサッカー連盟により紹介されたロコモティフ(タシケント)へセレクションの末加入した。ひとつ間違っていたらウズベキスタン屈指のボランチは存在しなかったかもしれない。
 なお2011年にはアッ・シャバーブのほかにロシアのロストフからも誘いがあり、代表のアブラモフ監督と「センターサークルからシュートを打ち、ポストかクロスバーに当たった場合はUAEに、そうでなかった場合はロシアに行く」という遊びを行い、クロスバーに当てたためアッ・シャバーブに移籍したという。
 引退後はウズベキスタンサッカー連盟の代表チーム部門の事務方として働いている。以前から噂になっていた2013年のU-20W杯に出場したウズベキスタン代表の年齢詐称疑惑について、個人を特定しないものの実際に年齢の改竄が行われていたことを明らかにし、大きな波紋を呼んだ。それ以外にも連盟の記者会見に出席したり、リーグ戦のジャッジに怒り狂ったファンに引っ張り出され、彼らをなだめて帰したり、メディアのインタビューでウズベキスタンサッカー界の現状や問題点について直言したり、現役時代さながらウズベキスタンを後方から支えている。2021年のW杯2次予選敗退時に連盟の代表チーム担当から退き、古巣ブニョドコルの育成統括に就任。2022年8月の大規模人事異動でチームの代表に昇進した。


現在(2011年~)

画像15

アンズル・イスモイロフ(Anzur Husanovich Ismoilov)


1985年4月21日生、タシケント出身
ポジション:ディフェンダー
主なチーム:パフタコル、長春亜泰、AGMK
 190cmを超える長身と筋骨隆々の肉体を活かした密着マークで相手エースを封殺するセンターバック。意外と足も速く、引き剝がされても巨体を揺らしカバーリングもこなす。サイズと身体はセットプレー時は攻守ともに大きな武器。しかしながら肝心のマークを外すことが多く、ボール扱いがあまりうまくないのに持ちたがる悪癖もある。良くも悪くも大雑把なプレーヤーだが、90分間勝利を諦めない迫真の熱血プレーと明るく陽気なキャラクターでファンから絶大な人気を集める。日に焼けた健康的な肌と世紀末世界を彷彿とさせるド派手なモヒカンヘアがトレードマーク。
 地元のチームから19歳でパフタコルに入団するも長年控えに甘んじていた。2007年から主力になり、2010年にブニョドコルへ加入するも1年で中国の長春亜泰に移籍。ブニョドコルが資金難に陥ったことが原因と言われており、実際にカパゼ、ジェパロフ、ネステロフらも同時期にチームを離れた。8年間過ごした中国では異文化に戸惑うことも多かったが、各国のスター選手と対戦し実力を磨く。2018年にロコモティフに移籍し国内復帰すると、2020年には古巣パフタコルにカムバック。経験豊富な頼れるベテランとして最強チームを最後方から支えると、2022年からはAGMKに移籍。
 代表では2007年から招集も、不安定なプレーから批判を浴びることも多かった。20代後半から30代に差し掛かる間にかけて少しずつ粗さが抜け、アスロル・アリクロフ以降まともなセンターバックがいなかったウズベキスタンのディフェンスリーダーに成長。国家を代表する選手としてはやや遅咲きである。2013年のブラジルW杯予選では、大陸間プレーオフ進出決定戦のヨルダン戦に120分フル出場でこの日唯一の得点も挙げるが、PK戦で敗退を決める失敗。次のロシアW杯アジア最終予選の最終戦の韓国との試合(ゲインリフの項を参照)では、試合後のインタビューで事実を知り、カメラの前で落胆し憔悴するなど、W杯にあと少しに迫るも届かない悔しさを何度も経験した。結局W杯出場はかなわないまま、2019年を最後に代表からは実質引退状態。クリメーツ、アシュルマトフら若手に後進を託し、クラブチームでのキャリアに専念している。
 余談だが2009年にドーピング検査に引っ掛かり、3か月の出場停止処分を受けている。 


画像15

オディル・アフメドフ(Odil Olimjonovich Ahmedov)


1987年11月25日生、ナマンガン州トゥラクルゴン出身
ポジション:ミッドフィルダー
主なチーム:パフタコル、アンジ、クラスノダール、上海SIPG、天津泰達
 90分間を走り抜く体力、激しいタックル、強烈なミドルシュート、果敢な攻撃参加が武器のセンターハーフ。闘志溢れるパワフルなプレーでチームにダイナミズムとエネルギーを注入する中盤のファイター。守備意識も高いが、やや対応が軽く雑なところがある。ウズベキスタン年間最優秀選手賞を歴代最多の6回受賞、2010年代を代表するスーパースターであり、現役のレジェンド。
 18歳で当時のネポームニャシー監督(2001年にサンフレッチェ広島の監督を務めたことでも知られる。日本では「ニポムニシ」と呼ばれた)が抜擢しパフタコルでデビューすると、翌シーズンから主力に定着。デビュー直後から王座がブニョドコルに移る不運があったものの、計5シーズンをパフタコルで過ごし国内最高の若手と称されるようになる。
 2011年のアジアカップで見せたパフォーマンスが評価され、ロシア1部の新興勢力アンジに移籍。この時アーセナルを含むイングランドやフランスのチームからの接触もあったという。アンジではロベルト・カルロス、サミュエル・エトーといった大物選手の活躍もあり2011-12シーズンは5位、2012-13シーズンは3位と好成績。彼も主力として活躍するも、翌年に財政難からチームが瓦解。シーズン途中にクラスノダールに移籍した。このチームも若き実業家ガリツキー氏が保有する新興チームだったが、破綻することなく好成績を残しており、彼も引き続き中盤の核として奮闘した。ロシアでは毎年UEFAヨーロッパリーグに出場、ハイレベルな舞台でプレー。
 2017年からは中国の上海SIPGでプレー。翌2018年には広州広大の8連覇を阻む優勝に主力選手として貢献。2020年からは天津泰達に期限付き移籍で加入。新型コロナウイルスの影響でなかなか思うようにプレーできておらず、来季以降に真価が問われる。
 代表には2007年から招集。初参加となった2011年大会は本職の選手の負傷と人材難によりセンターバックが払底する緊急事態に代役を務める。どうしても不慣れな分お粗末なプレーもあったが、必死のディフェンスでウズベキスタンの急所を守り、未経験にしては異例のパフォーマンスを見せた。初戦のカタールとの試合で決めた伝説のロングシュートから、ウズベキスタンの快進撃が始まった。
 その後も2度のアジアカップ、2度のワールドカップ予選にほぼ休みなく出場。2015年からはゲームキャプテンを務める。世界を股にかけた豊富な経験はチームの大きな財産であった。2021年、カタールW杯2次予選敗退時に代表引退を発表。ウズベキスタンを悲願のW杯に導くことはできなかったが、代表キャップ数は歴代4位の108。通算得点21は歴代6位と偉大な記録を残した。なぜかカタール代表に強く、通算20得点のうち4点をカタール戦(全て異なる試合)で挙げている。
 サッカー一家で育ち、最近亡くなった父オリムジョン氏はマシュアルでプレー経験のある元選手。実弟のアズィムもサッカー選手でポジションは同じセンターハーフ、地元ナフバホルの主力選手でキャプテンを務めている。そして日本では全く知られていないが、兄のヨクブ氏は現地でそこそこ名の知れた俳優である。性格は寡黙かつ真面目一徹で、シーズンオフには寄付や人道支援を頻繁に行い、ナマンガンに「オディル・ジュニア」というサッカーアカデミーを設立するなど社会貢献の意識も非常に強い人格者。少年時代は目立った存在ではなく、ナフバホルのセレクションに落選し、タシケントのスポーツ学校に進みパフタコルにスカウトされた経歴を持つ。
 2021年12月18日、現役引退を発表。近年は負傷に悩まされ満足なプレーができていなかった。今後はウズベキスタンサッカー連盟副会長を務めつつ、自身のアカデミー運営や、青少年の育成に専念してくとのこと。

参考文献

фергана(2020) 「Узбекский кумир Марадоны」<https://fergana.news/photos/120911/>, 2020年11月24日閲覧

Спортивный гражданин(2019) 「Советский футболист которым восхищался Марадона и который мячом пробивал сетку ворот.」<https://zen.yandex.ru/media/id/5dab21ced5bbc300ae4383ab/sovetskii-futbolist-kotorym-voshiscalsia-maradona-i-kotoryi-miachom-probival-setku-vorot-5db106318d5b5f00ad8ce055>, 2020年11月24日閲覧

footballfacts(2008) 「Берадор Абдураимов: «Я был и остаюсь патриотом своей родины»」<https://footballfacts.ru/article/161-beradorabduraimovyabyliostayuspatriotomsvoeyrodiny>, 2020年11月26日閲覧

Раззаков Федор 「Кающаяся «звезда» (Геннадий Красницкий)」<https://history.wikireading.ru/72180>, "Скандалы советской эпохи", 2020年11月24日閲覧

Александр Титеев(2020) 「«Он встал и сказал: прощайте». Зачем уникальный футболист ушёл из жизни прямо при друзьях」<https://www.championat.com/football/article-4008949-rasskaz-o-gennadii-krasnickom--luchshem-futboliste-v-istorii-pahtakora-i-uzbekistana.html>, "championat.com", 2020年11月24日閲覧

Aniq.uz(2019) 「Тўлаган Исоқов: “Йигитлар самолётда ўлиб кетишларини олдиндан сезишган”」<https://aniq.uz/yangiliklar/tulagan-isoqov-yigitlar-samolyotda-ulib-ketishlarini-oldindan-sezishgan>,  2020年11月24日閲覧

Bahodir Hasanov(2019) 「"Paxtakor-79"ning ko‘kka sochilmagan yulduzi yoxud 70 yoshni qarshilagan To‘lagan Isoqov haqida」<https://sports.uz/oz/news/view/paxtakor-79ning-kokka-sochilmagan-yulduzi-yoxud-70-yoshni-qarshilagan-tolagan-isoqov-haqida-20-04-2019>, Sports.uz,  2020年11月24日閲覧

Zamin.uz(2019) 「Тўлаган Исоқов: «40 йилдирки, юрагимда қора доғ билан яшайман»」<https://zamin.uz/sport/58067-tulagan-isoqov-40-yildirki-yuragimda-qora-dog-bilan-yashayman.html>, 2020年11月24日閲覧

Sputnik(2020) 「Футболист Геннадий Денисов: сын как игрок меня давно переплюнул」<https://uz.sputniknews.ru/sport/20200821/14819372/Futbolist-Gennadiy-Denisov-syn-kak-igrok-menya-davno-pereplyunul.html>, 2020年11月24日閲覧

Александр КРУЖКОВ(2001) 「УЗБЕКСКИЙ ОДИССЕЙ」<https://www.sport-express.ru/newspaper/2001-11-09/15_1/>, "СПОРТ-ЭКСПРЕСС", 2020年11月25日閲覧

Ирина Зобнина 「Игорь Шквырин - чемпион пяти стран и одного континента」<http://www.kc-camapa.ru/cgi-bin/books.cgi?krylia3,46>, 2020年11月25日閲覧

Виктор Хохлюк(2018) 「Наши футбольные легенды. Голеадоры бывшего СССР в футбольных битвах зарубежья」, "Книжный мир", pp.190, 2020年11月25日閲覧

ВикиЧтение「Русский узбек в нападении Владимир Федоров, «Пахтакор», Ташкент」, <https://biography.wikireading.ru/256647> 2020年11月25日閲覧

Prosports.kz(2011) 「Сервер Джепаров: «Сколари сильнее Зико»」<https://prosports.kz/news/10474>, 2020年11月25日閲覧

Prosports.kz(2018) 「Дважды лучший футболист Азии теперь будет играть в «Жетысу»」<https://prosports.kz/news/287100>, 2020年11月25日閲覧

The Mag(2019) 「Сервер Джепаров: «И в 37 лет можно заниматься профессиональным спортом»」<https://themag.uz/post/server-dzheparov-i-v-37-let-mozhno-zanimatsja-professionalnym-sportom>, 2020年11月25日閲覧

Sputnik(2019) 「Худел без спроса: вратарь Игнатий Нестеров временно отстранен от футбола」, <https://uz.sputniknews.ru/sport/20190216/10835217/Khudel-bez-sprosa-vratar-Ignatiy-Nesterov-vremenno-otstranen-ot-futbola.html>, 2020年11月25日閲覧

Futboll.tv(2019) 「18 ёшида Ўзбекистоннинг энг яхши футболчиси бўлган Александр Гейнрих бугун 36 ёшга тўлди」, <https://futboll.tv/50514-18-yoshida-uzbekistonning-eng-yahshi-futbolchisi-bulgan-aleksandr-geynrih-bugun-36-yoshga-tuldi.html>, 2020年11月25日閲覧

Uzdaily(2009) 「Uzbekistan’s Anzur Ismailov fails doping test」, <https://www.uzdaily.uz/en/post/7335>, 2020年11月25日閲覧

Spots.ru(2016) 「Анзур Исмаилов: «В Узбекистане голодный народ до футбола, в Китае не так»」, <https://www.sports.ru/tribuna/blogs/uzbekfootball/915445.html>, 2020年11月25日閲覧

Championat.asia(2017) 「Odil Ahmedov: "Men qarzimni uzmay qo'ymayman"」, <https://championat.asia/oz/news/yoqub-ahmedov-odil-ahmedov-haqida-hujjatli-film-suratga-olamiz>, 2020年11月25日閲覧

Zamin(2020) 「Taniqli aktyor Yoqub Ahmedov deputat bo‘ldi」, <https://zamin.uz/uz/jamiyat/64856-taniqli-aktyor-yoqub-ahmedov-deputat-boldi.html>, 2020年11月25日閲覧

Championat.asia(2016) 「Olimjon Ahmedov: "Odil mening gapim bilan arab davlatlariga bormagandi"」, <https://championat.uz/oz/news/olimjon-ahmedov-odil-mening-gapim-bilan-arab-davlatlariga-bormagandi>, 2020年11月25日閲覧

Ozodlik Radiosi(2011) 「"Arsenal" futbol klubi Odil Axmedovga qiziqish bildirmoqda」, <https://www.ozodlik.org/a/arsenal_futbol_klubi_odil_axmedovga_qiziqish_bildirmoqda/24229448.html>, 2020年11月25日閲覧

Спорт-Экспресс(2011) 「Одил Ахмедов: "Обожаю наманганские яблоки"」, <https://www.sport-express.ru/football/rfpl/reviews/797587/>, 2020年11月25日閲覧

interfutbol(2019) 「Полузащитник сборной Узбекистана Азиз Хайдаров закончил свою карьеру」, <http://interfutbol.uz/ru/news/detail/92288>, 2020年11月29日閲覧

Daryo(2020) 「Aziz Haydarov: Garovda Vadim Abramovni yutib “Ash-Shabob”ga yo‘l olganman. Aslida murabbiy Rossiyaga ketishimni istagandi」, <https://daryo.uz/2020/04/25/aziz-haydarov-garovda-vadim-abramovni-yutib-ash-shabobga-yol-olganman-aslida-murabbiy-rossiyaga-ketishimni-istagandi/>, 2020年11月29日閲覧

Kun.uz(2019) 「Хайдаров заявил, что возраст футболистов сборной на молодежном ЧМ-2013 был занижен」, <https://kun.uz/ru/92493946>, 2020年11月29日閲覧


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?