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新生ロシアが見た白昼夢 — アスマラルというサッカーチーム

 「アスマラル(Асмарал)」というロシアのサッカーチームを聞いたことがあるだろうか。
 このモスクワに本拠地を置く一風変わった名前のチームは、1992年の新生ロシア1部リーグに突如姿を現した。ロシアのサッカーファンにさえ聞き馴染みのないこのチームは、予想だにしない躍進を遂げる。
 暗く苛烈な時代の荒波を豪快に突き破り、陸離として光を放ち、破壊と混沌に満ちたロシアサッカー界に新時代の到来を高らかに告げたかと思えば、あっという間に波濤に呑まれ消えていったチームがかつてあった。野望に満ちた若きオーナーとソ連サッカー史上屈指のベテラン指揮官という不思議なタンデム、次々と打たれた画期的な改革、新旧が融合した魅力的な攻撃サッカー……。10年に満たない実働期間、1部リーグ在籍わずか2年というあまりに短い歴史は、数多の逸話に彩られている。アスマラルとはいったいどんなチームだったのだろうか。
 執筆当初はWikipediaの日本語版記事すらなく、日本語でアクセスできる情報はほぼゼロ。当時を物語る資料をまとめ、当時の社会背景の簡単な解説も交えつつ、彼らが辿った数奇な運命を追った。

1. アル・ハーリディーという男

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 報道陣の前に姿を現したのは、口ひげをたくわえたオリエンタルな風貌の小柄な男だった。彼の名はフサム・アル・ハーリディー、アスマラルのオーナーである。この男、一体何者なのか。

 1956年にイラク、バグダードで代々続く裕福な貿易商の家に生まれたアル・ハーリディー。彼の生い立ちについて情報が錯綜しており、文献によって記載はまちまち。それでも確からしいのは、幼くして事業に多忙な両親のもとを離れ、モスクワの大学で学ぶ姉のもとに預けられた(当時のソ連とイラクは反米という性質を共有しており、関係が深かった)ことと、のちにモスクワ国立大学のジャーナリズム学部に進んだこと。それらの間の時期はイラクやレバノンで学んだとかイギリスにいたとか諸説あるが、とにかく彼はイラク人でありながらソ連との深い繋がりを持つに至った。当時のインタビュー映像を見ても、彼は訛りのない「きれいな」ロシア語を操っている。

 セリョージャという子に私のトラックのおもちゃを奪われたとき、とても驚いたのをよく覚えています。それは私にとって革命的なできごとでした。私はおもちゃをたくさん持っていたという点で、他の子供たちとは少し違っていました。彼は私のものを自分のものにしたいと思ったようです。私は怒って彼からおもちゃを取り上げましたが、彼は「返さない!」と言い、それが私のおもちゃだと分かっているのに、私から取り上げてしまいました。(中略)私は別世界、つまり「私有財産の概念がある」世界からやってきました。いつでも物を貸したり、返すよう催促したり、返してもらったりできるような世界から!
                    ―フサム・アル・ハーリディー

 アル・ハーリディーはモスクワ国立大学在籍中から在ソ連イラク大使館に勤務し、貿易顧問、報道官、大使のアシスタントを歴任。大学卒業後もモスクワに居着き、1984年、28歳のとき実業家としての活動を始めた。
 最初のビジネスはシャウルマ屋台の経営というささやかなものだった。こんにち、シャウルマ屋台はロシアのいたるところで見られるが、シャウルマという料理そのものをソ連に持ち込み、ビジネスモデルを作ったのはアル・ハーリディーと、学生結婚した彼の妻スヴェトラーナ・ベコーエワ氏なんだとか。

シャウルマ。ドネルケバブと野菜を「ラヴァシュ」という薄いパンに巻いて挟み焼きにした料理で、ロールケバブの一種。縦に持ち、ワイルドにかぶりついて食べる。中のソースと肉汁が混ざった液がラヴァシュから飛び出ることがあるため、通常はビニール袋に入れて提供される。

 笑っちゃうかもしれませんが、私たちはシャウルマをやっていたのです!私たちが初めてモスクワに持ってきました。わざわざシリアに行ってコンテストを開き、優勝したシェフを連れてきました。ただの料理人と「シャウルマ職人」は全く違います。ただのシェフでは本物のシャウルマはできません!ペトロフカ通りにスタンドをオープンしました。最初に雇ったラドヴァンにはコミュニケーションに必要なロシア語の150個の単語を書いて渡しました。彼が覚えた最初の単語は「きれい(чисто)」と「汚い(грязно)」でした。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

 アル・ハーリディーは完全に時勢に合致した。時は折しもペレストロイカ。社会主義による計画経済・統制経済から市場経済への大胆な移行期、つまり徐々に私有財産や競争が認められ始めた時代である。この、ソ連の人々にとって文字通り「理解できない概念」を彼は当然のように知っていたからだ。それに加え、思いついたアイデアをすぐに実行する企業家の天性のようなパーソナリティも手伝い、彼はみるみるうちに成功を収める。
 1988年に設立したソ連・イギリスの合弁会社は急速に拡大。観光、ホテル、映画、物流、食品、エネルギー、絨毯生産と多様な事業を展開。あっという間にモスクワ、ロストフ・ナ・ドヌー、ウラジカフカース、デルベント、マハチカラ、キスロヴォーツクにオフィスを構える企業グループに成長。30歳そこそこで巨万の富を得るに至った。

2. ベスコフとの出会い

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アル・ハーリディーとベスコフ。アスマラルはこの2人抜きには語れない。

 アル・ハーリディーは大のサッカー好きだった。中東諸国は伝統的にサッカーが盛んで、彼の母国イラクも1990年代前半、つまり日本が急速に強くなる頃まではアジア最強チームのひとつだった。イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争と長く続いた戦乱で国土が灰燼に帰し、現在も決して情勢が安定しているとはいえない中でさえ、中東域内で一定の地位を保っている点からも、当地にサッカー文化が根付いていることを感じさせる。もちろん、彼が幼少期を過ごしたソ連のサッカー人気も作用しているだろう。
 彼は若い頃からディナモ(モスクワ)、特に伝説のGKレフ・ヤーシンの大ファンだった。ヤーシンに関しては、自宅に電話をかけたりサインをねだったりするほどの熱の入れようだったという。

 そんな彼は自分のサッカーチームを持つことはできないか考えた。本業の傍らで、彼は1987年にサッカーに関する事業計画を立てるが、大胆かつ無謀すぎるチャレンジは役員の大反対を受けたため、いったんペンディングにする。
 しかしその後も密かにアイデアを温め続けていた彼に転機が訪れたのは1989年。偶然にも会社に元サッカー選手のアレクセイ・コルネーエフが一般社員として勤務していたのだ。コルネーエフは長くスパルタークでプレーし、ソ連代表として1964年の欧州選手権や1966年のW杯に参加経験があり、同時代人にとってはそれなりに有名なDFだった。これを知ったアル・ハーリディーは野望を激しく再燃させ、コルネーエフと組んでサッカー計画を加速させる。

 コルネーエフの仲立ちにより、アル・ハーリディーは1人の老人の知己を得る。老人の名はコンスタンチン・ベスコフ。ディナモの主力選手だった現役時代はもとより、1950年代に監督キャリアを始めるとかつてプレーしたディナモ、スパルターク、CSKA、ロコモチフ、トルペドといった強豪チームを歴任しリーグ優勝2回、カップ戦優勝2回のタイトルを獲得。ソ連代表監督としても1964年の欧州選手権、1982年のW杯を戦った。輝かしい実績と名声に満ちた、ソ連サッカー史に燦然と輝く偉大な指導者である。
 アル・ハーリディーはベスコフを知っていた。彼が少年時代に夢中になったディナモを率いていたのも、まさにベスコフその人だったからだ。

 特に1977年から1988年まで指揮を執ったスパルタークでは、「壁パスと飛び出し(стеночки и забегания)」と形容されるワンツーパスとフリーランを多用した素早いコンビネーション攻撃を確立。美しいアタッキング・サッカーの極北として非常に高く評価された。しかし魅力的な反面、理想主義的なスタイルであることから必ずしも結果に結びつかないこともった。そのため、堅実さとコレクティブさを極限まで突き詰めた、当時の言葉で「科学的な」戦術で確実に成果を挙げたディナモ(キエフ)の名将ヴァレリー・ロバノフスキー監督とよく比較された。
 ロバノフスキーの陰に隠れやや不遇な感もあるが、見るものを楽しませるベスコフのアグレッシブなサッカーはスパルタークのチームスタイルになり、現在にも受け継がれている。ロシアでは、コンビネーション攻撃を軸にした戦法を「スパルターク・サッカー(спартаковский футбол)」と呼ぶほどである。

今でもスパルタークのホームゲームでは、ベスコフを称える巨大なバナーが掲げられる。右に書かれているのは「スパルタークのファンを無視することはできない。彼らは殺しだってやる」という、熱心なファンを評したベスコフの発言である。

 1988年末、チームの創設者かつ会長で、ソ連サッカーそのものを築き上げた伝説的な偉人ニコライ・スターロスチン氏と対立し、ベスコフは長く指揮したスパルタークを電撃的に退団した。アル・ハーリディーと会ったときは浪人状態だった。
 普段から険しい顔つきのため一見不愛想で冷徹に見えるベスコフだが、自らの構想を熱く語るアル・ハーリディーと意気投合。ここにソ連サッカー界の重鎮と実績ゼロの若手経営者という奇妙なタッグが誕生した。

 彼にプランを説明しました。彼は辛気臭そうに聞いていました。(中略)そして、厳しい口調で私に尋ねました。「お前さんは自分が言っていることを理解しているかね?」。沈黙。正直、私はビビりましたが、彼は突然、情熱的に言いました。「これは革命だ!!」
                    ―フサム・アル・ハーリディー

 コルネーエフとベスコフと出会い、アル・ハーリディーはついに温めていた計画を実行に移す。相変わらずくすぶっていた社内の反対を押し切った彼は1990年8月、ソ連4部リーグに所属していた「クラースナヤ・プレースニャ」というチームの経営権を譲り受ける。ここにソ連史上初の個人保有のサッカーチームが誕生した。同時にクラースナヤ・プレースニャが従来より使用していた収容人数2,000人ほどの小さなスタジアムを50年間の契約で借り受けた。
 ベスコフは相談役かつメンターのような立場になり、サッカー人として彼に助言を与えた。チームを持つ段になり、ゼロから新しいチームを作るのではなく、すでに一通りの設備やリソースを持った既存チームを譲り受けた方が効率的だと助言したのはベスコフだった。

3. クラースナヤ・プレースニャ

 アスマラルの母体となったクラースナヤ・プレースニャは1978年に設立。チーム名は「赤いプレースニャ川」という意味。プレースニャ川はモスクワ市内を流れるモスクワ川の一支流のことで、モスクワ市の地区名でもある。「赤」は言うまでもなく、共産主義のシンボルカラーを指す。

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かつての「タクシー団」の様子。ソ連崩壊後は自動車の整備工場、カーディーラー、自動車用品店に鞍替えした事業者も多い。

 クラースナヤ・プレースニャは、アル・ハーリディーに経営権が移るまでは「モスクワ第7タクシー団」の傘下の小規模チームに過ぎなかった(ソ連時代、タクシー会社は当然ながら国営で、市内各地に車両整備場や待機場所併設の「タクシー団」と呼ばれる事務所が置かれていた。いわゆる流しのタクシーはなく、タクシー団の待機場所まで行って乗車するか電話で配車を依頼するのが基本であった)。
 ソ連3部や4部といったレベルの低いリーグを戦っていたが、彼らの目標はソ連チャンピオンになることではなかった。強豪スパルタークに優れた若手選手を供給すること、それがクラースナヤ・プレースニャに与えられた役割だった。1976年に史上初めて(現在に至るまで唯一の)2部リーグ降格を喫したスパルタークが、チーム力強化のために作ったファームチームだったのだ。なお、1990年代のロシアを代表する名選手アレクサンドル・モストヴォーイがキャリアを始めたチームでもある。チームの役割通り、彼は18歳のときスパルタークに送られ、スターダムをのし上がっていくことになる。
 モスクワ市内のいちタクシー事務所がパトロンのチームということで、懐事情は厳しかったらしい。さらに1987年にチームを強化したオレグ・ロマンツェフ監督(後述するが、彼もまたアスマラルに少なからぬ因縁を持つ)の退任以降は衰退著しく、アル・ハーリディーに経営権が移る直前には経営陣もほとんどやる気をなくしていたようだ。
 アル・ハーリディーのおかげで金庫は潤い、チームの将来への展望は大きく拓けたが、後述の大変革により丸っきり別のチームとなった際にスパルタークとの提携関係は解消されたらしい。元からスパルタークとの結びつきが強いチームだったという事実から、経営権取得にはベスコフが大いに関与したものと思われる。

4-1. アスマラル誕生

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左はクラースナヤ・プレースニャ、右はアスマラルのロゴマーク。クラースナヤ・プレースニャのロゴには中央にスパルタークと同じ赤い菱形の図形が確認できる。アスマラルにチームが変わるとロゴも一新。チームカラーのオレンジと青を大胆に配した、旧時代感はあるがスタイリッシュなデザイン。

 1990年8月、首尾よく自らのサッカーチームを手に入れたアル・ハーリディーは、さっそく大刷新に取り掛かる。取り組んだのは以下の3つ。

①チーム名変更
 手始めにチーム名を自らの会社と同じ「アスマラル」に変更。1990年シーズンのみ「クラースナヤ・プレースニャ・アスマラル」として活動した。このロシア語ではない奇妙な語は、彼の3人の子、長女のアシル(Asil)、次女のマリアム(Mariam)、長男のアラン(Alan)の名前を繋ぎ合わせたもの。アル・ハーリディーが親しい人物への手紙の中でしばしばサイン代わりに用いていた表現だという。

②ユニフォーム変更
 チームカラーを、クラースナヤ・プレースニャが従来用いていた赤からソ連では比較的珍しい「オレンジ・青」に変更。自身が持つビジネスのコネクションを用いて、イギリスのスポーツ用具メーカーのアンブロ社からユニフォームを取り寄せた。

 当時も言われていましたが、私達のユニフォームが一番クールでした。イギリスにオーダーしたのですが、それはかっこよかったです。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

③スパルタークのDNAを注入
 監督には先述のベスコフの義理の息子で、自身も元選手かつ優秀な指導者のヴラジーミル・フェドートフを招聘した。加えて先に述べた「アル・ハーリディーにサッカービジネスを決心させた男」かつ「ベスコフを連れてきた男」コルネーエフも役員としてチームに加わった。さらにベスコフの指示のもとで的確な選手補強を実行しチーム力を向上。
 チームカラーは赤色でなくなったが、反対にチームは「真っ赤」に染まった。赤はスパルタークのチームカラーである。そしてベスコフが長いキャリアを通じて築き上げた、美しい攻撃色でもある。

 アル・ハーリディーは頻繁にメディアのインタビューに応じ、自らの計画について語ったという。それはおそらく「短期間でトップフライトに導き、そこで優勝争いを演じ、ヨーロッパの大会に参加するチームに育て上げる」というたぐいの話だったであろう。流暢なロシア語を操る怪しげなイラク人ビジネスマンと、彼が保有する破天荒なチーム。マスコミのほとんどはこの試みを簡単には信じず、アスマラルを懐疑的な目で見ていた。
 重ね重ね言うが時はペレストロイカである。計画経済はまだ存在していたが、社会には資本主義の亀裂が入り、今にもそこから飛び出そうとしていた。合弁事業や協同組合という形で自由な経済活動が許されるようになり、ビジネスで急速に財をなす人が出現した。アル・ハーリディーはそんな一人にすぎなかったが、彼が偉大だったのは、他の実業家に先駆けて「サッカー」というビジネスフィールドで勝負に打って出たことである。
 そして、彼らはやってのける。

4-2. 着実なステップアップ

 アル・ハーリディーがクラースナヤ・プレースニャの経営権を取得したのは1990年シーズン途中の出来事だった。短期間でチームの刷新に成功したアスマラルは、1990年の4部リーグ第5グループは開幕から12戦無敗を記録するなど圧倒的な強さを見せあっさり優勝し3部リーグ昇格を決めた。
 この年アスマラルに無残にも蹴散らされたチームのひとつに、2019-20シーズンのロシア・プレミアリーグを8位で終えたアルセナル・トゥーラがあった。

 翌1991年もシーズン前に精力的な戦力補強を行いチーム力を更にアップ。監督はフェドートフからベスコフに交代。当時71歳の高齢だったが、その指導力、経験、ノウハウはのどかなアマチュアの3部リーグにはおよそ場違いだった。シーズン後半に再びフェドートフに監督職を譲り、自らはアシスタント役に下がるものの、クルィーリヤ・ソヴェートフとのデッドヒートを制し、3部リーグの中地区で優勝した。
 彼らの強さと当時の雰囲気が分かる逸話がある。1991年シーズン最終戦の相手は、ロリというアルメニアのチームだった。ロリは当時絶望的な財政難に見舞われており、モチベーションもなく11月の寒いモスクワへの長距離遠征をためらっていた。当然対戦相手が会場入りできなければアスマラルに不戦勝が与えられるのだが、アル・ハーリディーが動く。なんとロリのために自腹で飛行機とホテルを手配、モスクワに招いてわざわざ試合を行ったのである。
 なお試合は14-0と衝撃のスコアでアスマラルが勝利し、結果的にこれが両チームにとってソ連時代最後の試合になった。スタンドに詰めかけた520人のファンからは「無慈悲だ!」というヤジが飛んだという。試合後はスタジアムの向かい側にある最高級ホテル「ウクライナ」で両チームの選手・スタッフを交えた宴会が開かれたといわれている(シーズン終了の慰労会だったとも)。

 なおこの年にはモスクワのチームを集め、優勝賞金30,000ドルのミニ・トーナメント「アスマラル・カップ」を主催し、ソ連サッカー界に自らの存在をアピールすることも忘れていない。ディナモ、トルペド、U-21ソ連代表が参加したこの大会は、ソ連史上唯一の「民間主催の商業的なサッカー大会」である。まだこの時は無名のチームだったアスマラルだが、関係者の間で少しずつ注目を集め始めていた。

 国外クラブの「襲撃」からその身を守れるのは、選手がもらえる分だけもらえる、プロフェッショナリズムに基づいた新しい仕組みのチームだけだろう(筆者註:1980年代以降サッカーが肥大化し始めた西欧にソ連はついていけなくなっていた)。そして我が国にも、そのようなチームが誕生した。サッカーを愛するアル・ハーリディー率いるアスマラルである。(中略)
 サッカーの空に新しい星が輝いている。それはソ連のサッカーチーム「アスマラル」だ。アスマラルがある限り、ソ連のサッカーが死ぬことはないと信じている。
             —1991年9月20日のマッチデープログラムより

 そして1991年シーズン後、「幸運にも」アスマラルは翌年から新設されるロシア1部リーグに参加することとなった。3部から1部へ、飛び級の昇格である。

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選手にミーティングを行うベスコフ(左)とフェドートフ(右)。

5-1. ソ連崩壊

 話が少し脇道に逸れるが、アスマラルが3部リーグを制した1991年シーズン終了後に大きな事件が起きた。ソ連崩壊である。アスマラルの飛び級昇格や、その後の運命に大きく関わる出来事なので、少しページを割いて説明することにする。

 1980年代後半。東欧の社会主義諸国で民主化運動が活発化した。その結果、1989年にはハンガリーとポーランドで非共産党国家への転換、ベルリンの壁崩壊、チェコスロヴァキアのビロード革命、ルーマニア革命という脱共産主義化が同時多発的に発生。一連の出来事は「東欧革命」と呼ばれる。
 これらは、一部の国でフィンランドや西ドイツといった西側諸国のテレビが受信できたことで自由主義への共感が高まり、比例するように国内に燻る不満が刺激されたことが背景にある。そして、ソ連のゴルバチョフ書記長が行ったグラスノスチ新思考外交、ウスコレーニエなどに代表される自由・民主的な一連の改革「ペレストロイカ」も東欧革命成功の原動力だった。

ミハイル・ゴルバチョフ。ロシアでは「ソ連崩壊の元凶」として嫌われ、アメリカでは「世界平和をもたらした偉人」ともてはやされる、極端に評価が分かれる人物。ソ連崩壊後も政治活動を続け、2022年に亡くなった。

 ゴルバチョフは不調な経済のテコ入れ程度の熱量でペレストロイカを始めたらしい。しかし、1986年の原油価格下落と翌年のチェルノーブィリ原発事故をきっかけに本格的な市場経済の導入や国営企業の民営化、一部の協同組合の実質民間企業化、単独で外国企業と取引可能な法整備など大規模な自由化政策がなし崩し的になされた。このような社会の中でアル・ハーリディーは起業し成功を収め、短期間でのし上がっていった。
 中でも1989年10月にゴルバチョフが提唱した「シナトラ・ドクトリン」は、東側諸国の諸問題に各国自ら取り組むよう述べたもので、1960年代のブレジネフ時代から続くソ連の「制限主権論」が事実上撤廃された。この原則は、言い換えれば「ソ連はもう東欧諸国の問題に介入しません。勝手に対処してください」というものだった。事実、その翌月にチェコスロヴァキアで起きたビロード革命では、約30年前に起きた「プラハの春」とは正反対に、国内に駐留するソ連軍は一切武力介入せず静観を決め込んだ。社会主義諸国の総大将であるはずのソ連が、東欧革命を黙認したのだ。

 東欧革命はソ連自身にも波及することになる。まずはバルト諸国で、ついで連邦内の各共和国で人々の間で燻っていた不満に火が付き、民主化を求めるデモや民族主義と結びついた独立運動が激化。1988年には後に各共和国で頻発する民族間対立の嚆矢であるカラバフ紛争が勃発する。
 一方モスクワでは経済活動の自由化と各共和国の自治強化を進めつつも共産主義者を自認し、スターリン以降の硬直した社会を改革することで社会主義体制を維持しようとするゴルバチョフと、彼を快く思わない既得権益層の保守派との間で政争が勃発。さらに間隙を縫って後のロシア初代大統領ボリス・エリツィンに代表されるゴルバチョフよりもはるかに急進的な改革派も台頭し政局は大混乱。ゴルバチョフの改革は、保守派にとっては急進的過ぎて理解されず、急進派にとっては手ぬるく映った。

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男性が持っているのがアヴォーシカ。近年は「ネットバッグ」の名でファッションアイテムとして存在感を増しているが、当時のソ連では生活必需品だった。

 ペレストロイカ以前より厳しい状況だった経済はこの頃には機能停止状態に陥る。ブレジネフ時代から慢性的に続いていた物資不足はピークに達し、生活必需品や食料品が店から消えた。「もしかして」を意味するネット状の手提げカバン「アヴォーシカ(авоська)」が大ヒットした。小さくまとめてカバンに忍ばせ、立ち寄った市場で偶然目当てのものを見つけたときに、逃さず買うためのサバイバルグッズだ。物資不足は急激なインフレも招き、「決して豊かではないが平等で、明日は必ず来る暮らし」を送っていた市民は、あっけなく「平等に貧しく、先が見えない暮らし」に転落した。ゴルバチョフはあくまでソ連の維持と強化のため、経済改革、政治改革、ひいては社会主義国家の構造そのものの改革に突き進んだが、進めば進むほど、皮肉にも人々の苦しみは増大し、彼らの中には体制への不満とさらに新しく、さらに抜本的な変革への期待感が加速度的に高まっていった。経済はボロボロで社会は大混乱、その様相はまさに瀕死の重病人のようであった。

 1989年、ゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領とマルタで会談し、冷戦が終結する。世界の平和を守ったゴルビーの英断も、換言すれば「東西イデオロギー対立の構図」が有形無実化したこと、つまりソ連が冷戦に負けたことを如実に物語っていた。
 1990年3月、ゴルバチョフは腐敗しきったソ連最高会議に代わる国家権力機関として、ソ連人民代議員大会を創設。さらにソ連最高会議の議長(ソ連共産党書記長が務めるのが慣例化していた)に代わる国家元首として「大統領」を創設し、自らその座に就いた。しかし着々とソ連の解体は進み、1990年にはリトアニアとラトビアとアルメニアが、1991年2月にキルギスが、4月にはジョージアがソ連からの独立を宣言している。

8月クーデターのさなか、国会議事堂前で戦車の上から民衆に語りかけるエリツィン(メモを持つ人物)。クーデターが失敗に終わったことで抵抗を続けた彼の影響力が増大、以降ソ連の政治は改革派がイニシアチブを取ることになる。

 1991年にはワルシャワ条約機構が廃止され、ソ連は東ヨーロッパの覇権を失った。さらにソ連国内では1991年8月20日を予定していた「中央集権制を放棄し各共和国の自治を認める新条約」の調印前日に、ゴルバチョフと政争を繰り広げていたヤナーエフ副大統領率いる保守派がモスクワでクーデターを決行。共産党権力の放棄やソ連解体を食い止めるべく勃発したこの「8月クーデター」は改革派と民衆の抵抗により失敗した。それだけでなく首謀者がゴルバチョフ大統領の側近だったことで、革新派・保守派を問わず共産党ひいては国家全体への信頼を大きく失墜させる結果になった。ゴルバチョフはクーデター勢力に軟禁されるなど被害を被ったにもかかわらず、混乱の元凶としてさらに厳しい立場に立たされることになった。
 上述の条約が破棄されたことでソ連はいよいよ国家としての体制を維持できなくなり、多くの連邦構成共和国が独立を宣言。8月クーデターの失敗以降、モスクワでは改革派が完全に政局を掌握し、ゴルバチョフ大統領はソ連共産党書記長を辞任し、同時に共産党は事実上解散。ソ連成立以来の「前衛党の指導性(共産党が国家全体を支配する独裁の原則)」に沿った統治は終焉を迎えた。

 1991年12月1日にはすでに独立を宣言していたウクライナが国民投票の結果、他共和国に先駆けて正式に連邦から離脱。このことが、ゴルバチョフと同じく「改革志向ながらソ連維持派」だったエリツィンの心を動かした。12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシの3か国は極秘裏で会談を持ちソ連からの離脱を決定(ベロヴェーシ合意)。ソ連大統領のゴルバチョフの反対意見を強引に黙殺しエリツィン首相率いるロシア議会はこの合意の批准を決議。1991年中にソ連が活動を停止するというゴルバチョフ大統領による発表の直後、12月21日には旧ソ連構成国のうちバルト3国とジョージアを除く12か国による独立国家共同体(CIS)設立を決定する「アルマ・アタ宣言」が出された。
 これが決定打となりソ連は存在意義を完全に失い、1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任。国民に向けたテレビ演説で述べた"Желаю всем вам самого доброго!(「皆さんどうかお元気で!」)"という穏やかな断末魔と共に、東側の巨魁は崩壊した。

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ゴルバチョフ辞任と同時に、モスクワのクレムリンに掲げられたソ連国旗が降ろされ、代わりにロシアの国旗が掲揚された。ソ連崩壊を象徴するシーン。

5-2. ソ連サッカーの崩壊とロシアリーグの誕生

 崩れ落ちていく国家と歩調を合わせて、ソ連のサッカーも混乱と解体の一途を辿っていた。1990年3月にソ連構成共和国の中で最初に独立を宣言したリトアニアは、当時ソ連1部リーグを戦っていたジャルギリスを含む国内の全チームをリーグから脱退させ、代わりにバルト地域合同のサッカー大会を立ち上げた。

 私とヴァルダス・イヴァナウスカスは、イタリアのチョッコで代表合宿をしていました。ロバノフスキー監督は私たちを1990年のワールドカップに連れて行くと言っていました。しかしその年の春、すべてが崩壊しました。私たちにとって政治家の決定というのは、大人が子供を殴るのと同じです。私たちには何もできないのです……。リトアニアはまだUEFAメンバーではありませんでした。
 ―アルミナス・ナルベコヴァス(リトアニア出身。ワールドカップに向けたソ連代表に招集されたが、合宿中にリトアニアの全国リーグ離脱が決定し代表から離れた。その直後リトアニアは独立し、彼がソ連代表でプレーすることはついになかった)

 同じ年にはジョージアも独自のサッカー協会を組織し、リーグから離脱。1991年にはウクライナとアルメニアが翌年から独自のサッカー大会の発足を宣言。

 なお、1991年のソ連サッカーリーグのシーズンは3月から11月の間に行われた。つまりソ連崩壊は、1991年のオフシーズン中に起きたことになる。

 年が明けて1992年、ソ連サッカー協会は離脱しなかった共和国のチームを集めて「CIS諸国大会」を行うことを決定。しかしこれにロシアのチームが反対。両者の折り合いがつかず議論が紛糾する中、どさくさに紛れて「全ロシアサッカー協会」が新設され、ロシアのサッカー統括団体としてFIFAの承認を受けてしまう。先に決まったCIS諸国の大会はなかったことにされ、ロシア・サッカーリーグが新たに発足した。
 有力チームの要求により、ロシア・サッカーリーグは20チームで行うことになった。しかし1991年のソ連1部リーグに参加した16チームのうち、ロシアのチームはCSKA、スパルターク(モスクワ)、トルペド、ディナモ、ロコモチフ、スパルターク(ウラジカフカース)のわずか6つ。相当数の下部リーグ所属チームを補充する必要が生じた。アスマラルが1部リーグに昇格したのはこういう事情である。昇格されたというよりも、補充されたと言ったほうが正しいかもしれない。

 そして、この新リーグ構想に、アル・ハーリディーが一枚噛んでいるという怪情報もある。「CIS諸国大会」のメンバーにアスマラルが含まれていないことに不満を持ったアル・ハーリディーはソ連スポーツマン連盟のカヴァザシュヴィリ副会長にコンタクトを取り、ロシアサッカー協会の設立や、各共和国のチャンピオンによる大会を2年に1度開催することを提案。これに応じたソ連スポーツマン連盟が議員を集め国家の支援を申し出ている間、彼は個人的にモスクワのサッカーチームの代表者と話し合いを持ち、「CIS他諸国大会に参加すれば、国家の支援と保護は受けられない」とハッタリをかましつつ迫ったことで、多くのチームはCIS諸国大会の参加を拒否。新たなロシア・サッカーリーグが誕生したというのである。
 これは1992年のインタビューで本人が語った内容である。サマーラの記者に「クルィーリヤ・ソヴェートフ(サマーラが本拠地)が1部リーグに参加できたのは私のおかげなのを知らないのか!」という主張から始まるかなり大胆な告白となっている。なお、彼のもう一つの提案「各共和国のチャンピオンによる大会の開催」も実現し、「CISカップ」の名称で1993年に始まり、レギュレーションの変更を経て2016年まで毎年開催された。


 ※1:ソ連1部リーグのその他チームはディナモ・キエフ、チョルノモーレツ、ドニプロ、シャフタール、メタルルフ、メタリスト(以上ウクライナSSR)、ディナモ・ミンスク(ベラルーシSSR)、アララト(アルメニアSSR)、パフタコル(ウズベクSSR)、パミール(タジクSSR)だった。
 ※2:1992年シーズンからの新規参加チームは、2部からはロートル、ウラルマシュ、ロストセリマシュ、ロコモチフ・エレチスポルト、テクスチールシク、シンニク、ファーケル、ディナモ(スタヴローポリ)、ゼニト、ディナモ・ガゾヴィーク、クバーニ、3部からはアスマラル、オケアン、クルィーリヤ・ソヴェートフ。

6. 1992年 — 躍進と絶頂

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1992年のアスマラルの集合写真。中央にはアル・ハーリディー、ベコーエワ、ベスコフの姿が見える。

 アル・ハーリディーの買収から僅か2年後の1992-93シーズン、ついにアスマラルは新生ロシア初の1部リーグの舞台に姿を現した。
 リーグは変則的なレギュレーションだった。先述の通り下部リーグからもかき集められた20チームが、2つのグループに分かれホーム&アウェーの総当たり。その後各グループ上位10チームと下位10チームでホーム&アウェーの総当たりという2ステージ制(最終順位は両ステージでの成績を合算せず、第2ステージの成績のみで決められる)だった。

 大方の予想に反し、アスマラルは大躍進を見せる。開幕2戦目でゼニトを4-2で退けると勢いに乗り、モスクワに本拠地を置く他の強豪チームにも全く引けを取らず戦い、それ以外の「格下」のチームには順調に勝ち星を重ねていく。総じて得点は多いが失点もかさむ、「出入りの激しい」サッカーだったようだ。空中戦の弱さを指摘する当時の文献もある。しかし再び監督に就いたベスコフの攻撃サッカーが猛威を奮い、取られる以上に点を取るアグレッシブ戦いで好成績を残した。

1992年、ロシア1部リーグ第2節。前節は試合がなかったため、これがアスマラルのデビュー戦となった。壁パスとフリーランの「スパルターク・スタイル」を遺憾なく発揮しゼニトに4-2で勝利。ゼニトは前年2部で18位、1部リーグに動員させられた数あるチームのひとつ。両者の後の運命を考えると何とも皮肉である。なお屋内で試合を行っているが、当時は芝が育たない寒い時期にはよくあることだった。

 第1ステージはグループBで18試合を戦い、11勝4分3敗でスパルタークに次ぐ驚きの2位。総得点34はスパルタークの35に次ぐ多さで、第1ステージ最終戦のゼニトとの試合では8-3と記録的な勝利。今日に至るまで、ゼニトのチーム史上最多失点タイ記録である。また前年3位のトルペド相手に2戦2勝の好成績を残した。
 最終盤の第2ステージに失速したものの、アスマラルは20チーム中の総合7位で終える。前年3部リーグに所属していたチームということを考えれば大健闘である。

 1992年シーズンの主要なラインナップは以下の通り。現在ではあまり採用されることのない、3-4-1-2に近い珍しい布陣で戦った。

アスマラル 1992年のベストメンバー(カッコ内は開幕当時の年齢)
GK アレクセイ・シヤーノフ(19)
DF セルゲイ・シューリギン(29)
DF マクシム・プチーリン(26)
DF イーゴリ・マカーロフ(31)
MF ヴラジーミル・フォミチョーフ(32)
MF ヴラジスラフ・ハーハレフ(26)
MF デニス・クリューエフ(19)
MF イーゴリ・アスラニャン(25)
MF ユーリー・ガヴリーロフ(39)
FW アンドレイ・グベルンスキー(22)
FW キリル・ルイバコーフ(23)

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ガヴリーロフ(中央)。

 チームの要は何と言ってもミッドフィルダーのユーリー・ガヴリーロフ
 足の長いスラリとしたスタイルで、高い技術に裏打ちされた正確かつ優雅なプレーで知られた、80年代のソ連を代表するゲームメーカー。その能力の高さは「何をすればいいか分からないままボールを持ったなら、ガヴリーロフに渡せ!」という決め文句があったことからも伺い知れる。

 ソ連代表チームでの経験も豊富な選手だが、1991年当時すでに38歳、とうの昔に盛りは過ぎており、前年はフィンランドのチームでプレーしていた。オフに引退を考えていたが、一本の電話が彼の運命を変えた。「ちょっと待て。私と一緒にやらないか」——。
 スパルタークで彼を若手の頃から重用し、ソ連を代表する選手に育て上げ、その後1985年に戦力外にしたかつての師ベスコフとまさかの再会を果たす。果たしてアスマラルに加わった彼は、その頃の因縁など忘れたかのような獅子奮迅の働きを見せる。しばしば「技術に衰えはない」と言われるがまさにその通りで、左足から放たれる高精度のパスで攻撃のタクトを振るだけでなく、勝手知ったる監督のもと若く経験の浅い選手たちをまとめ上げ、アスマラルの要として大活躍した。

 当時は世界的に「10番」の全盛期で、中盤を菱形に配した4-4-2のシステムが従来のフラットな4-4-2を駆逐しかけていた。アッリーゴ・サッキがゾーンプレスを「発明」するのはこの数年後のことで、まだまだ攻撃手には中盤にスペースも時間もたっぷり与えられていた。ガヴリーロフが能力を遺憾なく発揮できたのも、そのような時代背景がある。

 私はサッカーに関しては素人でしたが、ユーラ(ユーリーの愛称)には感動しました。彼のプレーは刺繍のようで、またパターンのようでもありました。それはスポーツではなくある種のダンスでした。音楽をかけて、アートを表現するような!彼は試合10分前にピッチに入り、すぐに結果を出しました。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

 ゴールを預かるのは19歳のシヤーノフ。積極的な若手器用を好むベスコフが大抜擢した選手で、技術的には荒削りながらPKを含む至近距離からのシュートに対する反応に優れていた。ベスコフの教え子で80年代世界最高のゴールキーパーと称された名選手になぞらえて「ダサエフ2世」とまで呼ばれ、一躍将来を嘱望される存在となった。

 ディフェンスラインには小柄だが屈強なシューリギン、強烈なキック力を持つ守備の要マカーロフ、195cmの巨漢でリベロのように攻め上がることもあるプチーリンの3人を配置。技術とスピードには欠け、全員下部リーグからの新加入ということで連携に難があったものの、パワフルでソリッドな守備を展開。いかにもソ連らしい、無骨でスパルタンなバック3だった。

 左サイドには19歳の才能あふれる若手クリューエフが入り、高い技術と展開力を披露。右サイドのアスラニャンは足裏を使ったテクニカルな突破が武器のウインガーで、両者はタイプは違えど、攻守によく走った。ガヴリーロフが放棄した中盤の守備のタスクは1部リーグ経験豊富なキャプテンのフォミチョーフが一手に担った。固定番号制とはいえ10番を背負うことが多かったハーハレフは、中盤のリンクマンを務めた。

 フォワードには23歳のパワフルなストライカー、ルイバコーフが構えた。駆け出しの頃から負傷が多く、また生まれつきの扁平足も手伝って長時間プレーできない制約もあったが、ベスコフの抜擢に応えるようにゴールを量産。チーム内得点王の13ゴールをマークし、ロシア代表候補にもなるなど、躍進に大きく貢献した。もうひとりはマレットの髪型が時代を感じるグベルンスキー。技術力には乏しいが、裏抜けからのシュートを得意とした闘志満点の快速フォワード。前年には2部リーグで32得点(先述のロリとの試合では6得点)をマークしており、勢いに乗っていた。

 アスマラルは若手のエネルギー、下部リーグ叩き上げ選手の勢い、老練なベテランの経験がベスコフのもとで見事にマッチし、強豪チームを喰らうまでのシナジーを生み出していた。

1992年のロシア1部リーグ、アスマラル対スパルターク。「親子対決」でもあり、ベスコフ対ロマンツェフの師弟対決でもあった。

 開幕前の「どこの馬の骨かも知れないキワモノ」扱いから、「野心的なオーナーと老練な指揮官に導かれた実力派集団」に。アスマラルは結果で人々を黙らせ、彼らを見る目はあっという間に変わった。元スパルタークの監督と選手を擁し、サイド中央を問わず、コンビネーションパスとフリーランでどんどんゴール前に殺到する攻撃スタイル。見かけはモスクワの新興チームながら、魂はすっかりスパルターク。アスマラルはロシアサッカーに旋風を巻き起こし、メディアは彼らを「スパルターク以上にスパルターク的」と評した。先行きへの不安や金銭的な理由でソ連時代からの有力選手が多く国外に流出するなど暗いトピックの多かったロシアサッカーにおいて、彼らの存在は数少ない明るい話題だった。

ロマンツェフ。昔は割と一般的だった、タバコを吸いながら指揮するタイプの監督。

 そして、前年ソ連1部リーグ2位のスパルタークとの対戦は大いに盛り上がった。アスマラル自体がスパルタークの遺伝子を持っているだけでなく、当時のスパルタークの監督がオレグ・ロマンツェフだったからだ。かつて1984年から1987年までアル・ハーリディーに経営権が移る前のクラースナヤ・プレースニャを率いており、さらに現役時代はスパルタークでベスコフの元チームキャプテンを務めていたロマンツェフ。彼は1983年に引退するのだが、ベスコフとの間で「ボタンの掛け違い」に端を発する対立によるものだった。さらにさらに、1988年にベスコフがスターロスチン会長と対立してスパルタークの監督を追われた際、彼の後任に抜擢されたのがロマンツェフだった。スパルタークを軸にベスコフとロマンツェフの因縁が激しくぶつかる師弟対決に、多くの人が釘付けになったという。

 なお、余談だがロマンツェフはスパルタークを率いた通算14年でチームを9度のリーグ優勝、5度の国内カップ戦優勝に導き、ロシア代表監督としても1996年の欧州選手権と2002年の日韓ワールドカップに参加している。1992年当時はまだ気鋭の若手監督だったが、その後はロシア史上最高の指導者として栄光の日々を過ごすことになる。

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白いアウェーユニフォームを着たグベルンスキー。当時ソ連のユニフォームサプライヤーはアディダスほかドイツのスポーツメーカーが独占していたが、アスマラルだけはイギリスのアンブロ社製だった。あたかもチームメイトと談笑しているに見えるが、右のGKは対戦相手。2021年までロシア代表監督を務めたスタニスラフ・チェルチェソフだ。


7. アル・ハーリディーのチーム改革

 上で述べた他にも、アル・ハーリディーはいくつものチーム改革を行っている。現在に伝わっているのは以下の通り。

①ファームチームの整備

 1991年オフに大規模なファームチームの整備に動き、「アスマラルD(Dは"Дубль"「セカンドチーム」の頭文字)」というチームを設置。キスロヴォーツクの「ナルザーン」と、北西部カレリア共和国はペトロザヴォーツクの「カレリア」を買収しそれぞれ「アスマラル」「カレリア・アスマラル」の名前で保有、さらにスタヴローポリ地方の「ベシュタウ」というチームの保有権も取得し、これら4チームをモスクワのチーム本隊の育成チームとして運用した。アル・ハーリディーはキスロヴォーツクを好み、将来的には騒がしいモスクワを離れ、静かで温暖な北カフカースに移転することを夢見ていたという。
 実現しなかったが国外進出の計画もあったようで、ウクライナのキエフにもアフィリエイトチームを作る予定だったという。

②女性会長の就任

 1992年、チームの会長に大学の同級生でアル・ハーリディーの妻のスヴェトラーナ・ベコーエワ氏が就任。ロシアサッカー史上初の女性のチーム会長である。

 私たちは当時、ある経済の専門家と一緒に仕事をしていました。ユーモアセンスのない男で、サッカービジネスについて話すと、しばらく笑って「君たちは頭がおかしい」と言いました。(中略)彼はきっとサッカーで金稼ぎをする方法を知らなかったのでしょう。投資すればいいのです。1部リーグのチームを保有すれば大きな宣伝効果があることをアル・ハーリディーは理解していました。そしてチームにスターがいればなおさらです。彼の計画は壮大なものでした、1部リーグに昇格することに、当初から何の疑いも持っていませんでした。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

③サッカー誌の創刊とコミュニティへの支援

 1992年には著名なコメンテーターを招き「フットボール・エクスプレス」という独自のサッカー誌の発行を開始。事実上のチーム広報といった位置付けである。さらにアル・ハーリディーは「サッカーサロン」なるイベントを主催。チーム関係者、著名なコメンテーター、ジャーナリスト、各界の有名人らがレストランなどの会場に集い語り合うというもので、トレイの上にチョウザメが載るような豪華なレセプション形式で行われ、参加者の度肝を抜いた。将来的にはこのサロンを生放送のトーク番組形式にする予定もあった。

④ホームスタジアムとチーム拠点の大規模改修

 さらにチーム買収時に取得したモスクワ市内のオンボロのグラウンドを改装する計画があった。このグラウンドは1992年の1部リーグ挑戦時は約2,000人という収容人数の少なさと設備の古さから使用されず、より規模が大きく当時は使用者がいなかったロコモチフ・スタジアムを間借りしていた。その改装計画とは、プール、ホテル、練習場を併設したスライド式の屋根を持つ現代的な2層式スタジアムというものだった。
 なお、これに留まらず、キスロヴォーツクにあった元ソ連最高指導者、レオニード・ブレジネフの別荘も買い取り、チームの拠点として使用する計画まであったという。これらは腐敗しきった当局や「盗賊(бандиты)」や「収奪者(рейдер)」と呼ばれる悪徳業者の横槍が入り実現には至らず、結局モスクワ北西部のセレーブリャヌィ・ボルのサナトリウム(アイスホッケーチームのクルィリヤー・ソヴェートフと共同利用)とモスクワのルジニキにあるスポーツコンプレックスを練習場として利用した(この一件については後述)。

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ソ連・ロシアというお国柄を考えると当然かもしれないが、チームは積極的なファンサービスを行わなかった。しかし「アスマラル・アグレッサーズ」というファングループが存在した。応援グッズはお手製だったそうである。


⑤ソ連史上初の「個人保有のプロサッカーチーム」

 そして最も特筆すべきは、ゴールやパフォーマンスに応じてインセンティブを支給することにより、選手の給与に大きな差を付けたことである。
 ソ連時代、優秀なスポーツ選手には「国際大会で活躍することで国威を発揚する」という大義名分のもと、国からの手厚いサポート体制があった。しかし社会主義の理念ではプロスポーツ選手は存在しないことになっていたため、選手はスポーツで生計を立てていたにも関わらず、国営の企業や機関に所属するアマチュアの扱いであった。これは「ステートアマ」とか「ミリタリーアマ」と呼ばれ、主にオリンピックの歴史を語る際に使われる用語である。乱暴な言い方をすると、どんなに優れた選手であろうと「国営企業のサッカー部所属」だったということだ。
 計画経済の下では全チームが国家の管理下にあったため、国家から割り当てられた予算の範囲内でしか活動できない。建前上選手の俸給は純粋なスポーツ活動に対する対価ではないので、どうしても西側諸国と比べると選手の給与は少ないし、売れっ子のスター選手と駆け出しの若手選手の給与差はあまり変わらなかった(もちろん上述の通り、種々の「サービス」面で優遇される選手はいたし、昇給自体はあったが)。
 アル・ハーリディーはこれを破壊した。チームはいかなる国営の企業や機関に属しておらず、アル・ハーリディーが個人で保有・運営していた。そして選手はそのアスマラルに所属しているため、彼らは「完全にサッカーで生計を立てる」ことができる。つまり、アスマラルはロシア初の個人保有のプロサッカーチームである。チームの予算はゴスプラン(国家計画委員会)ではなく、チームが自由に作成できた。そしてアル・ハーリディーの会社は大いに潤っていたため、他チームと比べものにならない給与水準を実現した。
 もちろん、やみくもにたくさん与えるだけではなく、選手のプロ意識を養うべく敗戦時やふがいないプレーをした際には罰金を科した。これらは現在はプロチームなら世界中で当たり前のように行われているが、ソ連ではアスマラルが先駆けだった。ちなみに、当時のエンジニアの月収は180ルーブルだったが、ゴールとアシストのインセンティブは200ルーブル、敗戦や致命的なミスの罰金は100ルーブルだったそうだ。
 さらにチームは当時の法律の抜け穴を突く形で、CIS諸国と関わりのない銀行を利用し給与を外貨で支払っていたという。

⑥その他チームインフラへの投資

 アル・ハーリディーの投資でチームの設備面も充実しており、遠征用の飛行機とバスを完備、さらにチームドクターの鞄の中には、当時ソ連では入手不可能だったアスピリンを含む外国製の薬品がぎっしり詰まっていたという。そして、ロシアのサッカーチームとしては初めて、スポーツ心理学の専門家ルドルフ・ザガイノフ氏を雇っていた。

 アル・ハーリディーはチームを愛し、しばしば選手を食事や夜の街に連れ出したり、車を買い与えたりした。ベスコフが欲しいと言った選手は確実に連れてきたし、設備や備品についても彼の要望に応え、惜しみない投資を行った。1部リーグ挑戦を控える1992年にはギリシャのクレタ島でトレーニングキャンプを張り、地元チームと練習試合も行った。国外での合宿は、ロシアのサッカーチームでは初めての試みだった。
 彼が思い描いていた構想の全貌は、一体どんなものだったのだろうか。

 アル・ハーリディーにはポジティブな印象しかありません。彼は若い選手が好きでした。私は18歳のときにチームに加わりましたが、こっそりボーナスまで支給してくれました。パフォーマンスが気に入った選手を呼び寄せ、100ドルや200ドルを握らせてくれるのです。若い選手にとってはありがたかったですね。
 若い選手たちとディスコに行ったこともあります!私たちをメルセデス・ベンツに乗せ、みんなでクラブ「アルレッキーノ」に行きました。(中略)概して、彼は寛大な人として記憶されていました。
             ―デニス・クリューエフ(元アスマラル選手)

 アル・ハーリディーと彼の妻スヴェトラーナ・ニコラーエヴナはどちらもとてもいい人でした。私たちのチームをひとつの家族のようにし、選手を子供のようにかわいがっていました。自らの事業で得た資金をチームのために費やしました。そしてモスクワに2つ、キスロヴォーツク、カレリアに計4つものチームを保有していました!そして私たちが初めて1部リーグに挑戦しているとき、キスロヴォーツクのセカンドチームは2部リーグ昇格目指して戦っていました。これが私たちのシステムでした、彼のビジネスがおかしくなるまでの……。
          ―アンドレイ・グベルンスキー(元アスマラル選手)

 アル・ハーリディーはサッカーを愛しており、その難しさをも理解していました。1990年、私はルジニキでスパルタークの試合を見て、後半にディナモ・スタジアムに着きました。彼はベスコフの隣りに座っていて、私もそこに来るよう言われました。そこで私が見てきた試合について色々尋ねられましたが、彼も非常に専門的なことを聞いてきました。(中略)
 良識のある、寛大な人でした!1990年代初頭、流行りの車は「Izh」や「モスクヴィチ」でしたが、シーズン後に彼はそれらの車を選手に与えました。語弊のある言い方かもしれませんが、彼ら選手の多くはアスマラル以降どのチームでもプレーしませんでした。
      ―アレクサンドル・ズンデル(元アスマラルチームスタッフ)

 なお、彼のビジネスについてはその出自も手伝い当時から常に武器商人だとかドラッグの売人だとか怪しげな憶測が語られていたが、スヴェトラーナ夫人によれば決してそのようなものではなかったらしい。
 彼はイラク大使館で働いていたとき、バアス党(サッダーム・フセインのイラク、アサド親子のシリアで政権を担った汎アラブ主義政党)の勧誘を受けたことがあったという。政府機関で働く身でありながらどうやって不利益を被らずにこの誘いを断ったかは謎だが、とにかく「怪しい話には乗らない」生粋の商人だったようだ。
 もっとも、バアス党と深いつながりがあり、サッダームの息子たちとコネクションを持っていたという情報もあるのだが、同じ情報源には病気の子供たちの手術費用を肩代わりしたりベスコフの腹膜炎の薬をアメリカから手配して彼の命を救ったという記述も見つかる。

 今となっては真偽のほどは定かではないが、彼は単純に「善」だ「悪」だと一概に言える人物ではなかったのだろう。彼は莫大な富を持っていたからか、元からそういう性格だったからか、困っている人にとかく簡単にお金をポンと出す非常に気前の良い人物だったらしい。「ビジネスにはとことん真面目で、仲間にはとことん寛容な男」といったところだろうか。

 私は誰の同志でもありませんし、同志になるつもりもありません!運転手であれ清掃員であれ庭師であれ、すべての人は私にとって「ジェントルマン」です。私は運転手のミスター・ロマノフにもそのように接しますし、彼にとって私も「ミスター・プレジデント」であり、「ミスター・アル・ハーリディー」であり、ときには「ミスター・フサム」なのです。
                    ―フサム・アル・ハーリディー

 こんな逸話があります……。学生時代、私たちは寮生活でした。ある時、奇跡的にも赤い紙(10ルーブルのこと)を1枚手に入れました。お肉を買ってきて、料理して友人を呼びましょう!ということになりました。アル・ハーリディーは寮を出ていき、スカンピンで戻ってきました。曰く「道中で友人に会ったんだ、お金に困っていて『半分でもいいから助けてくれ!』と言われてね。全部渡してきたよ」と……。そんな感じです。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

8. 1993年 — 終わりの始まり

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 デビューシーズンで7位に入りロシアサッカー界に鮮烈な印象を残したアスマラル。通常なら「1部リーグ2年目のさらなるステップアップに向けて精力的な補強を敢行、ベスコフ監督の元さらなるチーム力の充実を図った」などと書きたくなるところである。
 しかし彼らの栄華は驚くほど短く、儚かった。結論から先に言えば、翌1993年シーズンは18チーム中最下位に終わり、2部リーグに降格する。それ以降、アスマラルがトップフライトに返り咲くことはなかった。

 悲しいかな、チームは崩壊していたのだ。

 ロシア中をセンセーションを巻き起こしていた1992年の時点で、チームは危機的な状態に陥っていた。上でアル・ハーリディーのボーナスや「ご褒美」に象徴される金銭的な気前の良さについて触れたが、チーム崩壊の理由は、新興チームが急降下していく典型例である「オーナーがチームに投資しすぎてお金がなくなった」ではない。
 アル・ハーリディーが金欠に陥っていたのは事実だが、その背景にあったのは「いくら儲けていくら払った」という単純な話ではなかった。それでは、チーム崩壊の原因は何だったのだろうか?

 それは、上のチーム改革の項でも言及したチーム拠点確保計画が深く関係している。先ほどはさらっと「これらは腐敗しきった当局や「盗賊(бандиты)」や「収奪者(рейдер)」と呼ばれる悪徳業者の横槍が入り実行されず」と説明したが、これこそがアスマラルを、アル・ハーリディーを葬った最大の要因である。詳しくはこうである。

 1991年、ロシア南西部キスロヴォーツクのソスノヴィ・ボルにあるブレジネフの元別荘を50年の期間で借り受け、隣接する150ヘクタールの土地を買収。アル・ハーリディーはこの場所をチームの拠点にする算段だった。ブレジネフはこの場所をロクに使用せずに死去したため荒れ果てていたが、アル・ハーリディーは大掛かりな改修を計画。イギリスの投資家も彼のプランに興味を示していたのだが、これにロシア当局が目をつけた。しかもその相手はボリス・エリツィン大統領。この地を横取りして150人収容の邸宅にしようと目論み土地の強引な接収に動く。エリツィンはロシア連邦警護庁長官のアレクサンドル・コルジャコーフにアル・ハーリディーを呼び出させ、その間にクバン管区のOMON(отряд мобильный особого назначения、暴動鎮圧を主任務とする内務省管轄の特殊部隊)を動員しソスノヴィ・ボルに派遣、当時そこにいたセカンドチームの選手を含む人員を排除し、アル・ハーリディーの愛犬に毒を盛り、結局この施設の確保に成功した。
 この事件に対し、キスロヴォーツク地裁とスタヴロポリ地方裁判所がアル・ハーリディーを支持する判決を出したことで、彼と政府との対立は決定的なものになってしまった。

 しかし、悲しいかな、混乱したこの時代に地裁の判決など何の意味も持たないものだった。むしろ政府当局に目をつけられたことで、アル・ハーリディーが所有する物件やビジネスに対する言いがかりのような訴訟が頻発。おそらくは政府子飼いの「企業の乗っ取りを行う悪徳業者」による押収と捜索を受けた。彼の事業に対する様々な妨害行為が行われた結果、多くのビジネスパートナーが彼の元を去り、彼の資産も急速に減っていった。当時はスポンサー制度もなく、アスマラルの活動資金は100%彼の懐に頼っていたため、ジリ貧に陥った。もし彼がロシア人であったなら秘密裏に「処分」されていただろうが、西側諸国とも深いつながりを持っていたアル・ハーリディーに手をかければ非難を浴びることは不可避で、当局もそれを恐れてか表立って彼を始末できなかったのであろう。
 とにかく、アル・ハーリディーは腐敗しきった封建的な当局に屈した


 オリンピックセンターで練習中、「お前たちは金を払っていないぞ、出ていけ!」と言われ追い出されたこともありました。調整もできないし、いい気分にはなれませんよね。
                      —ユーリー・ガヴリーロフ

 事実、1992年には給与未配や練習場の使用料未納が発覚している。華々しい躍進の裏側で、アスマラルは拠点やホームスタジアムもままならぬ状態でトップリーグを戦うことを余儀なくされていたのだ。第2ステージで足踏みしたのは、このようなゴタゴタがあったからだというが、確かにそんな状況では選手のフィットネスは上がらないし、精神的にメリットがあるはずもない。事実、第2ステージでは実質1勝1分6敗の急ブレーキをしているが、当然の結果だったのだろう。

 きっと私たちはあまりに多くのことをしすぎてしまったのでしょう。本邦初の試みをし、面白いことにことごとく成功しました。それでどんどんやる気になっていきましたが、どこかの時点で止める必要がありました。
 会社ではすでに財政の問題が始まっており、チームの経営陣はパニックになりかけていました。そして経営陣と現場の間で内紛が始まりました。
                    —スヴェトラーナ・ベコーエワ

 悪いときには悪いことが立て続けに起こるものである。ガタガタのアスマラルでは「ベスコフ派」と「アル・ハーリディー派」の間で内紛が勃発していた。
 そしてアスマラルが飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続けていた1992年7月、コーチのフェドートフと役員のコルネーエフがチームを去った。チームの発表では、前者は体調不良、後者は解雇。しかし、先述の通りベスコフの義理の息子でもあったフェドートフは「アル・ハーリディー派」に属する経営陣のツィガニュクとバグダサロフという人物と対立しており、スウェーデンで行われていた欧州選手権の視察から戻ったあと「職務放棄」を理由に解雇された。内ゲバの犠牲になり、粛清されてしまったのである。
 なお、コルネーエフは本当に健康を害したための辞任だったようだ。

 それでも1992年オフにはイリヤ・ツィンバラル、セルゲイ・オーフチンニコフ、ユーリー・ニキーフォロフ、アンドリー・フーシンがチームに加入することになっていた。浦和レッズでプレーしたニキーフォロフ(日本での登録名は「ニキフォロフ」)を除けば日本での知名度はあまり高くない選手だが、当時は将来を嘱望された若手スターたちであり、後に全員がソ連の後継国家の代表選手となる。後に「レディアコフ」の登録名でJリーグでもプレーするイーゴリ・レジャーホフも獲得リストにあったという。
 しかし彼らはアスマラルに来なかった。彼らに払えるだけのお金はなかったのである。さらにカメルーン人とニュージーランド人の選手をチームに迎えるプランもあったという。実現していれば、ロシア1部リーグ史上初の外国人選手(CIS諸国以外の選手、実際には1995年にロコモチフ・ニージニー・ノヴゴロドに加入したジュニオールとダ・シウヴァというブラジル人選手が史上初)となっていた。しかしそんな計画も、当時のアスマラルには夢物語に過ぎなかった。

9. あっという間の崩壊・転落

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1993年のアスマラル。トップレベルでのプレーという観点で言えば、彼らのラストシーズン。

 そして、1993年シーズンが始まる2週間前、突如ベスコフが辞任する。
 辞任の理由は明らかではないが、当時ベスコフには、以下の4つの出来事が起こり、チームに対する不満を溜め込んでいたようである。

①チームの設備に対する不満
 一見、優れた条件が揃っているように見えたアスマラルだが、自前のスタジアムと練習場がないことは、選手のトレーニングやコンディショニングにおいて致命的である。このことにベスコフは大きな不満を抱いていた。

②アル・ハーリディーのチーム人事への干渉への不満
 かつてはベスコフの望む選手を連れてきていたアル・ハーリディーだったが、時が経つにつれて選手補強に干渉し始めた。残念ながら彼の「目利き」は凡庸なもので、実力の劣った選手を集めてきてはベスコフをがっかりさせていた。そして、質が悪いことに熱心なサッカーファンであるアル・ハーリディーは自分の意見にこだわりを持っており、ベスコフらの忠告にも耳を貸そうとしなかったという(先述のカメルーン人とニュージーランド人選手の移籍話もアル・ハーリディーの思いつきだったという)。彼が不満を持つのも当然だろう。

③チームの体制に対する不満
 1993年の新年に行われたパーティーで、ベスコフは「ゲームプラン、構造、スタッフの面で、チームのさらなる組織化」について、改革をアル・ハーリディーに提案する。しかし彼はそれを無視し、旧態依然としたクラブ体質を継続させることとなった。

④チームの財政状況に対する不満
 1992年シーズン、ゼニト相手に記録した8-3という歴史的な勝利に対するボーナスが厳しい財政状況から未払いで、新シーズン前に支給されることになっていた。この頃には試合開催時に用いていたロコモチフ・スタジアムも賃料が払えないため使えず、翌シーズンからは古く狭いクラースナヤ・プレースニャ地区のグラウンドを使用せざるを得なくなっただけでなく、セレーブリャヌィ・ボルの練習場が使用できなくなった。また選手たちもお金がほとんどなく、所属選手のエドゥアルト・コプティーリーが屋台で1週間アルバイトするのを許可するよう涙を流して懇願したという「事件」が起こるほどだった。③でも触れた1993年新年のパーティーでは、給与支払いを求める選手とチーム役員との間で口論が起きていた。

 結局ベスコフはチームを去り、アル・ハーリディーとのタンデムは2年で終わりを告げただけでなく、チーム内抗争もアル・ハーリディー派の勝利に終わった。しかし彼は変なしこりは残さず、アル・ハーリディーとその妻でチーム会長のスヴェトラーナ・ベコーエワとの間の友好関係を保ち続けた。それだけでなく、退団してなお、アル・ハーリディーがチームと会社に対して行ってきたことに敬意を評し、彼のパーソナリティーを深く尊敬していたという。

 さて、ベスコフが去ったアスマラルは新監督にヴラジーミル・ユルイギンがコーチから昇格した。チームの状態の悪さをつぶさに見てきたユルイギンはアル・ハーリディーと面談するが、その僅か2週間後に経営陣のツィガニュクの陰謀によって解雇される。すでにチーム上層部の混乱と腐敗は、取り返しのつかないレベルに達していた。そして、これと時を同じくしてロシアサッカーの統括団体、ロシアサッカー連合に深刻な財政難を咎められ、罰則として選手の契約無効が宣言された。いわばアスマラルの選手を「いつなんどき、好きなだけ強奪してもいい」という恐るべきお墨付きが与えられたようなもので、これが決定打となって次々と選手が去っていき、チームは一瞬にして瓦解する。

 このロシアサッカー連合による非情な裁定の裏には、1992年のソ連崩壊時の混乱が影響している。先にも述べたが、当初はソ連崩壊後のサッカーは、CIS諸国大会を行うことが予定されたいた。しかしこの大会に不満を抱いたアル・ハーリディーらモスクワのチームが造反。ヴャチェスラフ・コロスコーフら従来のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国のサッカー統括団体の役員と鋭く対立する中、ドサクサに紛れて造反組によってロシアリーグが創設。さらに「全ロシアサッカー協会」が従来の団体を差し置いて発足、FIFAの承認を受けた。
 ほどなくして全ロシアサッカー協会と従来の統括団体が合流し、新しく「ロシアサッカー連合」が設立される。この時、新生ロシアサッカー連合の初代会長に就任したのがコロスコーフ。心のどこかに、かつての造反組への恨みがあっただろうことは容易に想像できる。勝手な想像だが、この裁定はかつて自身に冷水を浴びせたアスマラルに対する、コロスコーフの報復だったのではないか。

 チームの核であるガヴリーロフ、チーム内得点王ルイバコーフも退団。ウイングのアスラニャンと守りの要プチーリンは契約を破棄し、強豪トルベドにフリーで移籍した。そのほかの選手もオフシーズンに次々とチームを離れていく。
 主力選手のうちチームに残ったのは、シヤーノフ、シューリギン、クリューエフ、グベルンスキーのみ。しかしそんな彼らもすぐに去っていった。シューリギンは夏にディナモに引き抜かれた。クリューエフは1993年シーズン、沈みゆくチームで才能を開花させ孤軍奮闘するものの、オフにフディエフ監督と確執のあったシヤーノフと共にディナモに引き抜かれた。グベルンスキーもフディエフ監督と折り合いが悪く、負傷もありシーズン後に24歳の若さで現役を引退する。


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1993年の10月政変にて、砲撃を受け炎上するベールイ・ドーム。

 そんな中で1993年シーズンが始まったが、チームの核を失ったアスマラルは案の定下位に沈む。泣きっ面に蜂とはまさにこのことで、10月にはモスクワでルツコイ副大統領によるクーデター未遂事件「10月政変」が発生。反エリツィン大統領派の立てこもるベールイ・ドーム(ロシア最高会議ビル)周辺が戦車の砲撃を含む激しい市街戦となる。ベールイ・ドームのすぐ裏手にあったアスマラルのグラウンドもこの戦闘に巻き込まれ、無惨にも破壊される
 もはやアスマラルには逆境を跳ねのけるあらゆる要素を失っていた。次々と試合に敗れ、18チーム中最下位に終わりあっけなく2部リーグ降格が決定した。

1993年のロシア1部、アスマラル対オケアンの一戦。アスマラルのホームスタジアム「クラースナヤ・プレースニャ」は収容人数2,000人の小規模なスタジアム。この試合の4か月後に騒乱で破壊された。

10. 悲劇的な最期

1994年シーズンの2部リーグ、ゼニト対アスマラルの貴重な映像。会場はサンクトペテルブルクだが、現在のゼニトの姿からはおよそ想像もつかないとんでもないスタジアムである。

 1993年シーズンに2部リーグ降格を喫したアスマラル。その後も全く浮上の兆しはないまま、1995年シーズンに3部リーグに降格。この頃にはすでにアスマラルもアル・ハーリディーも「あの人は今」状態になっていたようだ。
 アル・ハーリディーは転落と資金不足のさなかで経営の意欲を完全に失ったとみられている。1990年代後半にはアマチュアの5部リーグにまで落ちぶれた。この頃の記録を見ると不戦敗が目立つ。チームバスも失ったアスマラルは、アウェーゲームの遠征費さえ捻出できなくなっていたのである。試合中に選手が負傷した際は、相手チームの医療スタッフが手当てをしていたという。1991年に気前よく貧乏チームのロリに手を貸し、モスクワまでの旅費と宿泊費を肩代わりしたチームとは思えない。
 1999年にはついにアマチュアリーグの会費を払うことすらできなくなり活動を停止。この時点でチームは消滅したと見なす文献も多い。チーム自体はその後もしばらく存在こそしていたが、2003年に正式に破産宣告を受け解散した。1990年にクラースナヤ・プレースニャの経営権を取得してからわずか13年。誰にも顧みられぬ、あまりにあっけない終焉だった。

 チーム破産の翌年、2004年10月。もはやサッカーに関わることもなく携帯電話のビジネスをしていたというアル・ハーリディーは、家族の反対を押し切って母国イラクに向かう。しかし、シリアのダマスカスに移動したのを最後に消息を絶った。現地武装勢力と何らかの交渉をしており、身代金目的で誘拐されたというが真相は不明である。スヴェトラーナ氏は単身シリアへ向かい、誘拐犯と直接コンタクトを取るなどして夫を探したが、足取りを掴むことはできなかった。
 当時イラク戦争真っ只中のアメリカが背後にいるとの説もあるが、いずれにせよ現在に至るまで彼の行方は杳として知れない。

 フサムは生きています。そう願っています。彼に何が起きたのかはわかりません。私はあまり夢を見ませんが、夢の中での彼はいつも生きています。フサムは2004年にバグダードからダマスカスに向かい、誘拐されたようです。
                    ―スヴェトラーナ・ベコーエワ


11. アスマラルが残したもの

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デビュー間もないセマーク(右)。育成組織を持たないアスマラルが送り出した、唯一の「アル・ハーリディー・フレッジリング」ではないだろうか。

 彗星のごとくロシアサッカー界に現れ、顧みられぬまま消えていったアスマラル。短すぎる歴史の中にも、レガシーはあった。
 1992年、ウクライナのルハーンシクの学校を出たばかりの少年をスカウト。一旦ペトロザヴォーツクのファームチームに送られるも翌年モスクワに呼び戻され、17歳でロシア1部リーグデビュー。混乱極まる翌1993年シーズンには若き主力選手としてクリューエフと共にチームを支え、その存在をロシア中にアピールした。チームの沈没後は強豪チームの食指が動く中、本来はウクライナ市民権を持っているはずなのに「ロシア軍への徴兵」の形でCSKAに引き抜かれた(「ソ連時代」の常套手段であった)。そこでさらなる成功を収めスター選手となり、大金持ちになる前のパリ・サンジェルマンでもプレー。ロシア代表としても長く主力を務め、ワールドカップやEUROにも出場、国家を代表する名選手となった。ロシア1部リーグの最多試合出場記録を持つレジェンドで、現在はゼニトの監督を務めるセルゲイ・セマークである。彼がプロキャリアを始めたのは、他ならぬアスマラルである。アル・ハーリディーが作った育成システムが機能した唯一の例である。

 1992年の1部リーグを戦ったメンバーのその後はどうだったか。

 ベスコフは1994-95シーズンにディナモの監督を務め、クリューエフ、シヤーノフ、シューリギンら元アスマラルの選手を再び率いた。1995年のロシアカップ優勝を最後に約40年にもわたる指導者のキャリアに終止符を打ち、2006年にこの世を去った。フェドートフも順調にキャリアを積み重ね、CSKA、ディナモ、スパルタークといった強豪を率い、2009年に亡くなった。コルネーエフは1992年7月に体調を崩して退団した後、再びビッグフットボールに携わることはなかった。

 クリューエフは1993年シーズン、降格チームながら「33人の優秀選手(シーズン活躍した33人でチームを3つ作る、ソ連時代から続くベストイレブンに似た表彰)」に選出、新生ロシアの逸材としてフェイエノールト、シャルケ、リールセといった西欧のチームを渡り歩き、ロシア代表にも選ばれた。セマークに次いで成功を収めた選手と言える。
 GKのシヤーノフは将来を期待されたが伸び悩み、下部リーグのチームを転々とした。ガヴリーロフはその後43歳になるまで現役を続け、引退後は指導者として活動した。トルペドに移籍したアスラニャンとプチーリンだが、前者は全く活躍できずロシアサッカーの表舞台から姿を消し、後者はその後も数年間ロシア1部でプレーを続けた。1992年シーズン、チーム内得点王となったルイバコーフは移籍先のディナモで練習中に足関節骨折という重症を負い、キャリアを事実上終えた。24歳の若さで現役を引退したグベルンスキーは、その後紆余曲折を経てロシアフットサル界の重鎮になった。躍進したチームの選手あるあるだが、彼らのその後のキャリアは輝かしいものではなかった。

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 今なおアル・ハーリディーは見つかっていない。チームは消滅し、復活に動く気配もない。クラースナヤ・プレースニャのグラウンド跡地は現在市営の公園となり、2017年に再整備されたフィールド以外に往時を偲ばせるものはない。チーム名の由来となった3人の子供たちは、ビジネスマンや医師として世界各地で活躍しているという。スヴェトラーナ氏は現在もモスクワに住み、スポーツ教育に関するビジネスをしている。その会社の名は「アスマラル」。

 その後、ロシア社会は数えきれないほどの労苦を強いられつつも力強く復興。それに伴いサッカーのレベルも上がった。結果上位チームと下位チームの実力差や貧富の差も大きく広がった。またゼニトやクラスノダールような「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥の財力を背景に急成長を遂げたたチームが登場した。スパルタークやCSKAといった古くからの強豪も世界のトレンドに乗り遅れることなくチーム改革を進め、欧州大会のロシア代表として強豪と渡り合うチームになった。アスマラルがのし上がった時代を考えると、隔世の感がある。

 混沌とした社会で産声を上げ、地殻変動でできた隙間から顔を出し、未だかつてないやり方でかつての巨人たちをなぎ倒し、一度はまばゆい光の中に身を置きながらも露と消えたアスマラル。それはまさにソ連サッカーが散り際に見せた最後の輝き、そして新生ロシア連邦のサッカーが初めて見た白昼夢であった。彼らの後に、続々と一部または完全に民間所有のチームが出現した。それらの先駆けとなったアスマラルの冒険は、一瞬ではあれうたかたの夢ではなかったのである。

 サッカーは勝者のためだけのものではない。美しい勝利やまばゆい栄光と同じだけ、夢破れた挑戦者への追憶があり、それは「敗者の美学」「儚さの中の美しさ」という薄情なものではない。数奇な運命を辿ったアスマラルは、ロシアサッカーの長い歴史の中で顧みられるだけの価値と意義を持った、偉大な存在である。しかしながら、彼らは語り継がれることなく、復活したロシアサッカーの奥深くに沈んだままになっている。
 ヴァレリー・ロバノフスキーの言葉に「プレーは忘れられるが、結果は残る("Игра забывается, результат остаётся")」というのがある。一般的には、ジョゴ・ボニートに代表される「美しく勝つ」ことへのアンチテーゼとして解されるこの言葉からは、サッカーにおいてプロセスを記憶されることの難しさも感じられる。アスマラルを考えながら思い浮かべると、余計にそう感じた。

 最後に、アスマラルが行った画期的な取り組みと活動全期間の戦績をまとめる。

  1. ソ連史上初の個人経営のサッカークラブ

  2. ソ連史上初のプロサッカークラブ

  3. ソ連サッカー史上初めて、選手に勝利給やボーナスを支給

  4. ソ連史上唯一の「民間主催の商業的なサッカー大会」を主催

  5. ロシアサッカー史上初めて女性をチーム会長に起用

  6. ロシアサッカー史上初めてチームにスポーツ心理学者を雇用

  7. チーム独自のサッカー誌「フットボール・エクスプレス」の創刊

  8. サッカーコミュニティのためのサロンを設立

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 稲妻のようなできごとでした。一瞬ピカッと光って……それだけでした。それから私たちはじわじわと破滅へと向かっていきました。多分、私たちはサッカーをすべきではなかったのだと思います。あまりに騒がれて、注目を集めて過ぎてしまいました。「すごい!」と言ってくれる人だけではありませんでした。嫉妬したり、気に食わない人もいました。サッカーがなかったら、他の事業はもっとうまくいっていたのかもしれません。
 同じことをまたやってみたいかと聞かれたら、「いいえ」です。もし自分たちの置かれた立場を完全に理解していたなら、やっていませんでした。やるのが早すぎたのです。多くの痛み、失望、恨みをもたらしました。それらは今でもトラウマです。起こったことの全ては覚えていませんし、覚えていたくもありません。あの経験が役に立ったかどうか、そんなのは考えても仕方のないことです。
                    ―スヴェトラーナ・ベコーエワ


12. 終わりに代えて、または余談

 最後に、アスマラルが活躍した1992年当時、ロシアで流行していた曲を1つ紹介する。
 カル・メン(Кар-Мэн)の『サンフランツィスコ(Сан-Франциско)』。今となってはものすごく古臭いエレクトロ・ポップだが、どこか刹那的で「イカした(шикарный)」アメリカの暮らしへの憧れを(サミズダートでなく大っぴらに)隠すことなく明るく歌うこの曲は、すでにアディダスやペプシコーラ、ファンタに代表される西側の文物がかなり流入していたソ連の若者に大きな人気を博した。

 長い長い混乱の末に始まった新時代。昨日までなかったことが今日の常識に、昨日の悪が今日の善になるような無法地帯に突然拓けた将来への展望。これまで手に入れられなかったもの。あからさまに夢見ることが許されなかった生活。数百年ぶりの「自由」。そんなものを象徴するようなこの曲は、どことなくアスマラルに似ている気がした。

参考

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  • Игорь Рабинер (2020)「«Когда взлетали, все тряслись — как бы нас не подбили». Невероятные истории об «Асмарале» — первом частном футбольном клубе страны」, <https://www.sport-express.ru/football/rfpl/reviews/longrid-obozrevatelya-se-igorya-rabinera-o-pervom-chastnom-klube-rossii-asmarale-1683295/> 2020年7月23日閲覧

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