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【更新終了】2022シーズン ウズベキスタン1部リーグ参加チーム紹介

はじめに

 2022年シーズンのウズベキスタン1部リーグを戦う各チームを独断と偏見に満ちた所見とともに紹介する。並びは昨シーズンの順位と同じ(昇格チームは2部リーグでの順位に準拠)。この1ページで来シーズンの14チームについてなんとなく知った気分になれる、はず。

注釈(読み飛ばしても構いません)

 ①チームの呼称について。「ロコモティフ・タシケント」のように、西欧風の「チーム名+本拠地名」の書式を採る情報源が洋の東西を問わず多く見られるが、慣習的に旧ソ連圏は本拠地をチームの呼称に含めない(地名を明示する場合は「モスクワのディナモ(ロシア語:Московское «Динамо»)」や「タシケントのロコモティフ(ウズベク語:Toshkentning "Lokomitiv" klubi)」という表現)場合が多い。そのため、見出し名も現地で一般的に用いられる呼称に合わせた。

 ②ウズベク語の日本語表記について。日本には「ウズベク語の"o"をア段で転写する」不思議な趨勢がある。その理由を邪推してみると、まず元のウズベク語の「oをаにして」ロシア語に転写する慣習がある。これはウズベク語のoがしばしば「円唇後舌広母音[ɒ]」をとるからだと勝手に思っているのだが、そのロシア語表記をそのまま日本語に転写しているために起きている。つまりこれは、「oをаとみなしたロシア語表記の情報源を引用し、ア段で表記する」、ウズベク語→ロシア語→日本語の「孫転写」とでもいうべき現象である。

【ウズベク語の転写例】
・ウズベク語:Buxoro
・ロシア語:Бухара=Bukhara
・日本語:ブハラ(地名)

 個人的な理由から筆者にはこのoに愛着があるので、本記事ではすでにそれなりに定着しているものを除き、断りなく全てのウズベク語のoを「ロシア語の仲介」なしにオ段で表記する。また、同様の理由からo'はウ段で表記する。もちろん、ロシア語の用語はその限りではない。
 長々と書いたが、もっとも外国語の表記の正誤を論ずること自体あまり意味がない試みではある。つまり「ムバッペ」でも「エムバペ」でも問題ないのだ。筆者の趣味程度にご理解いただければと思う。

 ③引用符について。引用符は、それぞれの言語で一般的に用いられているものを使用する。例えば英語やウズベク語など、ラテンアルファベットで表記する言語に関しては、二重引用符「“”」を、ロシア語などキリル文字で表記する言語に関しては、ヨーロチキともギュメとも呼ばれる「«»」を用いる。日本語はもちろんカギカッコ。

パフタコル

原語名:Paxtakor futbol klubi
創設:1956年
本拠地:タシケント
グラウンド:パフタコル・マルカジー(35,000人収容)
獲得タイトル:リーグ優勝14回、カップ戦優勝14回
愛称:Sherlar「ライオン」

 実力と伝統を兼ね備えた、ウズベキスタン最強の名門チーム。
 直接的な戦禍を免れたこと、ヨーロッパ・ロシアから多くの企業が疎開したことで各産業が飛躍的に発展したことにより、現在のウズベキスタンにあたるウズベク・ソヴィエト社会主義共和国(ウズベクSSR)は第二次世界大戦を機に大きく成長した。急速に社会の近代化が進む1956年に「ウズベクSSRにも、ソ連全国で戦えるようなトップレベルのサッカーチームを首都タシケントに作る」という目的で作られた。

 ウズベキスタンのチームとしては唯一ソ連1部リーグの参加歴があり、1968年には国内カップ戦準優勝の偉業を達成。設立時の理念通り、ウズベクSSRを代表するエリート集団としてロシア、ウクライナ、ジョージアといった強豪国のチームを相手に互角に戦ってきた。アブドゥライモフとクラスニツキーという全国レベルの知名度を持つ初めてのウズベクSSR出身選手を輩出したのもこのチーム。
 また、1979年には航空機事故でチームの所属メンバーの大半を失うという、現地のオールドファンなら誰もが知る悲しい出来事を経験した。

 ウズベキスタン独立後も国家を代表するチームという役割は変わらず。常に勝利を宿命づけられた存在として国内のサッカーを牽引し続けてきた。独立直後から1990年代までは黄金時代を謳歌するネフチに競り負けるシーズンが続いていたが、21世紀になり彼らの強さに翳りが見え始めると盟主の座を取り戻した。2002-07年にかけてリーグ戦6連覇、2001-09年にかけて9年連続カップ戦決勝進出(うち7連覇を含む8回優勝)など輝かしい成績を収め、後述の選手供給機能も相まって、経済・社会両面ともに危機的な状態にあり、いくつもの有力チームが表舞台から姿を消しサッカーどころではなくなりかけていた2000年代前半のウズベキスタンサッカー界そのものを支えた。

 2000年代後半はブニョドコル、2010年代前半はロコモティフ、2つの成金チームの後塵を拝したが、彼らの強さが峠を過ぎると再び圧倒的な強さを取り戻し、現在はリーグ3連覇中。これには2017年に投資会社「SFIマネジメント・グループ」がオーナーになったことが大きい。この投資会社は億万長者のアリシェル・ウスモノフ氏が一枚噛んでいるとされる。
 ウスモノフ氏はウズベクSSR出身で主にロシアで活動するビジネスマン。かつて鉱工業で財を成し、現在は自らが率いる「USMホールディングス」社を通じ様々な企業を保有。CIS諸国に展開する大手通信会社「メガフォン」やロシアの新聞社「コメルサント」など、その中にはロシアに関わりがある人にとって馴染み深い会社も。文化・芸術関連の事業にも惜しみなく資金を注入する篤志家の一面を持ち、かつてはイングランドの強豪アーセナルの株主も務めた経験がある。
 日本での知名度は高くないが、2021年版の長者番付「ブルームバーグ・ビリオネアズ・インデックス」によると資産総額は180億USドル(!)とされる、世界的にも結構すごい人。当然ウズベキスタンの政府とも密接なつながりを持っている。

 2021年にSFIマネジメント・グループ社が経営から離れタシケント市に保有権が移り、かつてのような資金投入はなくなったが、それでも適材適所の補強と自前で育てた若手選手による強さは変わらず、昨季も圧倒的な強さでリーグを制した。しかしながらピッチの外では春先に財政難による給与未配が発覚したり、今オフには主力選手が国内のライバルチームに抜けたり、先行きに不安がちらつく。
 チーム移管時にあった400万USドルの負債はすでに返済済みで、深刻な危機は回避しているようだ。しかしシーズン前にしてナフバホルやソグディアナら、積極補強した他チームの突き上げに遭っている。来季も優勝候補なのは変わらないが、イリスメトフSD(当時)が明言した通り、ユース上がりの若手の活躍と成長が鍵を握る。

 ウズベキスタンでは綿花の栽培が非常に盛んで、チーム名のパフタコルは「綿花栽培人」を意味する(ロゴデザインも綿花)。
 強さを支えるのは非常に優秀な育成組織。この国では珍しくしっかり組織されたユースチームとスカウト陣を擁しており、伝統的に生え抜き選手がチームの主力の大半を占める。地元出身でユース上がりのハムダモフが2015年のアジア年間最優秀若手選手に選ばれたこともある。このチーム出身のウズベキスタン代表選手は現役OB問わず文字通り枚挙に暇がなく、常に代表メンバーの半数近くはパフタコル所属。過去に在籍経験のある選手も含めると70〜80%がパフタコルに縁のある選手……なんてことも。
 ホームスタジアムのパフタコル・マルカジーは長年ナショナル・スタジアムとして数々の試合の会場となった、ウズベキスタンサッカーの聖地。また国内で唯一まともなサポーター連合が存在する。
 なお、エンブレム上部の星は1つで5回分のリーグ優勝を現している。


ソグディアナ

原語名:Soʻgʻdiyona Jizzax futbol klubi
創設:1970年
本拠地:ジザフ州ジザフ
グラウンド:ソグディアナ(11,650人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:ДСК(1970-72)→トゥルート(1973-75)→ジザク(1975-76)→イリガートル(1976-77)→ブストン(1978-81)→ズヴィエズダー(1982-85)→ヨシュリク(1986-89)→ソグディアナ(1990-)
愛称:Bo'rilar「オオカミ」

 チーム名の「ソグディアナ」とは、中央アジアの2大河川、アムダリヨとシルダリヨの間の地域の古い呼び名。現在のウズベキスタン東部~南部のザラフション川流域に当たる。時代によって「トランスオクシアナ」「トゥーラーン」「マー・ワラー・アンナフル」など様々に呼ばれ、古代から西洋と東洋の中継点として様々な人や物が行き交い、アラブ・イラン文化の影響を強く受けたテュルク言語圏という現在のウズベキスタンの特色ある文化を育んだ地である。「ソグディアナ」という語自体も、古代のイラン系民族ソグド人に由来する。

 本拠地のジザフは歴史都市サマルカンドのすぐ北東に位置する人口17万人ほどの小さな町。サマルカンドとフェルガナ盆地を結ぶ交易上の、またサマルカンドを守る軍事上の要衝として知られ、古代から砦が築かれてきた。ジザフという地名もソグド語で「小さな砦」を意味する。19世紀に中央アジアを侵略し植民地支配を敷いた帝政ロシアも、この町の攻略に手を焼いた。現在の町に特別見るものはないが、かつて共産党第一書記としてウズベクSSRを長く支配し、強権的な独裁政治と引き換えに飛躍的な経済発展を実現したシャロフ・ラシドフの出身地として知られている。

 1970年に創設。陸軍に所属する若い選手のチームだったという。ウズベクSSR内では比較的実力が高く、「ズヴィエズター」と名乗っていた80年代初頭に2部リーグを数シーズン戦った。たかが2部と思うなかれ、現在ウズベキスタン1部リーグに参加するチームでソ連2部より上のカテゴリーを経験したチームはわずか5つしかない(パフタコル、ナフバホル、ネフチ、ディナモ、ソグディアナ)ため、結構な偉業である。
 ソ連崩壊後はウズベキスタン1部リーグに参加。初年度こそ3位になったが、21世紀になると1部と2部を行ったり来たりする「ヨーヨー・クラブ」に。2002年から2012年の10年間で4度の昇降格を経験した。

 2019年頃から知名度は低いが粒よりの選手を集めるようになり、徐々に結果が出始めている。守護神ミトロヴィッチ、屈強なCBクルマトフとコラコヴィッチ、鋭い突破からのクロスを持つハサノフとカフラモノフ、中盤で攻守に働くショイクロフとボルタボエフ、両サイドバックのチェルメリとジュラベコフら好選手が揃うが、中でも注目はエースのノルホノフ。元々スピードとトリッキーなドリブルが武器だったが、近年はストライカーとしての能力が開花。シュートのうまさと豊富なゴールパターンを身につけ、さらに味方を活かすパスも器用にこなし、PKキッカーでもある。やや小柄で力勝負は苦手だが、それでも得点力はリーグ屈指。ウズベキスタン代表経験もある万能選手。
 チームを率いるのはウルグベク・バコエフ監督。クラブレベルではカザフスタンのチームでプレー。同国の外国人選手歴代最多得点記録を持つなど数々の栄誉に輝き、ウズベキスタン代表でも長く活躍したFW。現役引退後すぐに指導者に転身。2019年シーズン途中に指揮を任されると指導者転向2年目ながらチームを見事上位に導くなど結果を出し、現在気鋭の若手監督として国内の注目を集めている。

 2021年シーズンは驚くほど守備的な戦いぶり。最終ラインと中盤で奪ったボールをとにかく素早くサイドに回す攻撃で奪った虎の子の1点を守り抜く戦いで成績を残し、最終節にAGMKとナサフをかわし30年ぶりの過去最高成績、2位でリーグ戦を終えた。
 来季はリーグ、国内カップに加えAFC主催大会にも参加となるが、持ち前の接戦を勝ち切る粘り強さと攻守ともに高度に統率された組織的な戦いで優勝争いに参戦。中盤と守備陣はある程度計算が立つので、鍵になるのはやはりノルホノフ。昨季チーム事情により持ち味が活かしにくい3トップのセンターフォワードや右ウイングでプレーしつつも、チーム総得点の1/3近くを上げチームの躍進を牽引した。彼が活きる布陣を敷くか、彼のパートナーとなる優秀なFWをひとりでも用立てることができれば、優勝は十分ありえる。
 王者パフタコルが弱り、ソグディアナとAGMKは充実、そこに突然大補強を行ったナフバホルを交えて争う来季のマッチレースは、いつになく読めない。


AGMK

チーム名:Футбольный клуб АГМК / OKMK futbol klubi
創設:2004年
本拠地:タシケント州オルマリク
グラウンド:AGMK(12,000人収容)
獲得タイトル:カップ戦優勝1回
チーム名変遷:AGMK(2004-2008)→アルマリク(2009-17)→AGMK(2018-)
愛称:Konchilar「鉱夫」

 チーム名は母体企業かつオーナーの国営企業«Алмалыкский горно-металлургический комбинат»「オルマリク鉱業・冶金コンビナート(AGMK社)」の頭文字をとったもので、ロシア語式に「アーゲーエムカー」と読む。ウズベク語を使用する場面でも、このロシア語の名称が一般的に用いられる。

 オルマリクはタシケント南方に位置する小さな都市。「ウズベキスタンの非鉄金属の中心」と呼ばれるように鉱産資源が非常に豊富。先述のAGMK社が町の産業のほぼ全てを担うロシア版企業城下町「モノゴロド」でもある。AGMK社は近郊の鉱山での鉱石採掘から市内の巨大プラントで金属(銅、亜鉛、鉛、モリブデン、銀など)の精錬まで一手に行い、その生産キャパシティは中央アジア屈指。国家収入で見るとナヴォイのNGMK社(後述)に次いでウズベキスタンで2番目に大きな企業。効率的な精錬技術は確立されていないようだが、金を含む鉱石も大量に採れるという。なお、AGMK社を保有するのは2021年までパフタコルのオーナーを務めたSFIマネジメント・グループ社。
 町にはAGMK社以外にもリン酸塩類を製造する化学メーカーもある。この手の都市にありがちなことだが2000年代に大規模な環境汚染が報告されている。政府は改善策を講じているのだが、どれほどの成果が出たのかは不明。

 この街にはかつて「メタルルグ」「キミヨガル」というチームがあったが、20世紀末にどちらも消滅。これらの後継として2004年に設立された。2007年は2部リーグ14位という結果だったが、豊富な資金力を持つことから特例で1部リーグに昇格した。
 某フリー百科事典には昇格理由について「1、2位のクラブが財政上の問題により昇格を辞退したため」とあるが、残念ながら出典のRSSSFの記述共々厳密には誤り。まず何よりも、その年の2部リーグ1位のソグディアナと2位のウズドンジュは昇格を辞退していない。そして、この時代は(今もそうだが)下部リーグを中心に財政基盤が脆弱なチームが非常に多く、実力だけでなく財政力も昇降格の判断基準だったことが背景にある。バックに国営企業がついているAGMKはいわば財政面では「最強」だったため、成績に関わらず昇格を認められた。なお、同じ2007年に1部リーグから降格したのも、16チーム中最下位のヴォプケント、10位のトラクトル、11位のトゥパランの3チーム。財政的な弱さが問題視されたことによる降格で、翌2008年に3チームとも活動を休止している。
 1部リーグ昇格以降はリーグ戦の成績に似合わずカップ戦に異常に強いチーム(1年目の2008年はいきなりベスト4、2018シーズンは何とパフタコルを破って優勝。翌シーズンも準優勝)として独特の存在感を放っていたが、2020年シーズンからリーグ戦でも好成績を残すように。チームを率いるミルジャロル・コシモフ監督は長くロシアでプレーし、ウズベキスタン人史上初めて欧州カップ戦に出場・ゴールを記録した、現地のサッカーファンにとってはその名を知らぬ者のないレジェンド。ブニョドコルと代表チームで監督を長く務め、ウズベキスタンで一般的な4-5-1からの素早いサイド攻撃というオーソドックスな戦い方ながら、堅実かつ接戦を落とさない強さをもたらす手腕が高く評価される名将。

 チームの中心選手はサンジャル・トゥルスノフ。中盤を攻守ともに走り回る汗かき屋兼、高精度のロングパスで局面をダイナミックに打開するコントロールタワーでPK職人としての顔も持つ。カシヤーンとブアチーというターゲットマンにもフィニッシャーにもなるFWもおり、おまけに選手層も厚い。堅いDFラインと中盤が連動した守備力は高く、さらにコシモフ監督の元で乱戦にもスタティックな試合にもしっかり勝ち切る「勝者のメンタリティ」を持つ数少ないチーム。今オフはその中盤の要ジョキッチが抜けたが、それを補って余りある補強を行った。パフタコルが弱り気味の来季は、本気で頂点を取りにいく。


ナサフ

原語名:Nasaf futbol klubi
創設:1986年
本拠地:カシュカダリヨ州カルシ
グラウンド:カルシ・マルカジー
獲得タイトル:カップ戦優勝2回
チーム名変遷:ゲオローク(1985-91)→パフタチ(1992)→ナサフ(1993-95)→ディナモ・ナサフ(1996)→ナサフ(1997-)
愛称:Ajdarlar「ドラゴン」

 「ナサフ」とは本拠地カルシの、イスラーム帝国時代の古い呼び名。一帯は古くから大河カシュカダリヨとアムダリヨが大地を潤す砂漠のオアシスと地帯して知られ、ブハラやバルフ(現アフガニスタン)へ至るシルクロード上に位置することから交易で栄えた。18世紀のマンギト朝時代には首都ブハラに次ぐ国内第2の都市に。多くの歴史的建造物が現存し、中でもカルシ橋が有名。16世紀に造られたカシュカダリヨにかかる石橋で、現存する中では中央アジア最古の橋とされる。古来多くの優れた石工がいたといわれる。

 ソ連時代は3~4部でプレーしており、目立たないチームだった。1992年に新生ウズベキスタンでリーグ戦が始まると、2部リーグに参加。当時は同じ州を本拠地とする複数チームが同一リーグに参加するのを禁ずるルールがあり、同じカシュカダリヨ州に本拠地を置くマシュアルと入れ替わりで1997シーズンに1部に昇格。それ以来強豪チームに変貌し現在に至る。リーグ優勝こそないがシーズンを2桁順位で終えたことがないなど、毎年タイトル争いに絡んでくる好チーム。国内屈指の人気を誇り、毎年のようにナフバホルに次ぐ観客動員数を記録する。

 2010年ごろに国営の天然ガス会社「シュルタンガズキミヨ」社がスポンサーになり財政基盤が強化された。この時スタジアム、練習場、育成組織などの環境面に投資したのが幸いしパフタコルに次ぐ育成の雄に。近年はチームの大多数を地元出身の若手選手で揃えており、2020年に行われたAFC U-23選手権のウズベキスタン代表には10人もの所属選手が選ばれ、ガニエフ、ボゾロフ、B.アブドゥホリコフらが活躍した。
 近年は毎年のごとく資金難に見舞われているが、抜擢した若手を育ててチーム力を養い、プレーメーカーのスタノイェヴィッチを中心とするフリーランとコンビネーションパスを組み合わせた魅力的な攻撃サッカーで結果を残すルズィクル・ベルディエフ監督の手腕は確かなもので、リーグ最高の名将とほまれ高い。戦術家のみならず名伯楽としての顔も持ち、これまで数多くの若き才能を世に送り出してきた。

 昨季も資金面で不穏な報道がありながらも、2002年生まれの新星ノルチャエフが13得点を挙げ大ブレイク。国内カップ戦を制するなどピッチの中では充実のシーズンを送った。ノルチャエフのみならず、主力のアルクロフ、モズゴヴォーイ、ナスルッラエフ、サイトフがウズベキスタン代表に招集されるまでに成長、さらにトゥルディアリエフ、ダヴロノフらティーンエージャーの出現もあった。しかしシーズン終了後、2020年に起きた移籍問題を巡って、サッカー連盟からオフ期間の新規選手補強禁止処分を受けてしまった。自前の若手をやりくりすればなんとかなるとはいえ、大きなチーム力上積みのチャンスを失った痛手は大きく、今季はなかなか苦労しそうだ。
 それとも、ノルチャエフ級の選手が再び出現すれば、あるいは……。


ブニョドコル

原語名:Bunyodkor futbol klubi
創設:2005年
本拠地:タシケント
グラウンド:ミリー(34,000人収容)
獲得タイトル:リーグ優勝5回、カップ戦優勝4回
チーム名変遷:ネフトガズモンタジ・クルフチ(2005)→クルフチ(2006-07)→ブニョドコル(2008-)
愛称:Qaldirg'ochlar「ツバメ」

 2000年代後半にウズベキスタンサッカー界を席巻し、日本人にも多少知名度がある稀有なチーム。ブニョドコルはウズベク語で「創造者」を意味する。
 2005年に国営エネルギー企業傘下の建設会社「ネフトガズモンタジ」社を母体とするクルフチとして創設。メインスポンサーの巨大コングロマリット「ゼロマックス」社による豊富な資金力をバックに大物選手を次々に補強しチーム力を急速に高め、考えうる限り最短期間で国内最強のチームになり上がった。ゼロマックス社は当時のカリモフ大統領の娘グルノラ氏がバックについており、彼はグルノラ氏へ権力世襲を行う意向があったため、彼女の人気・実績作りにサッカーへの投資を行ったとされている。動機はどうあれ、サッカーを通じた国家振興策のターゲットになったというわけだ。

 1部リーグ初挑戦となった2007年はこれまで所属していた全選手を放出し、文字通りチームの「総取っ替え」を行い2位。この頃のチームはバルセロナとコネクションを作り、シーズン前のトレーニングセッションをバルセロナのサブグラウンドであるミニ・エスタディで行う、バルセロナと親善試合を行う、プジョル、イニエスタ、メッシらスター選手を100万ユーロのギャラでウズベキスタンに呼ぶ、キャリア全盛期のサミュエル・エトーを2,500万ドルの給与で6ヶ月の短期契約に成功したと発表(実際は決裂)するなど、これでもかと言わんばかりの金満ぶりを内外に見せつけた。ついたあだ名は何とも安直な「ウズベキスタンのバルセロナ」。
 チーム名を「ブニョドコル」に、ロゴマークをバルセロナを模したデザインに変更した翌シーズンも、ライバルのパフタコルからウズベキスタン代表選手を大量に獲得する「市場荒らし」を敢行。そしてエトーがダメならと、シーズン中に元ブラジル代表のリバウドを獲得。さらに監督にジーコ氏を迎え入れ世界に驚きを与える。創設3年目で1部リーグ優勝、そこからあっという間に4連覇。ジーコは1年でチームを去ったが、後任監督にルイス・フェリペ・スコラーリ氏が就いた。この4連覇中に喫した敗北はわずか5、2009年シーズンは28勝2分で無敗優勝。ACLでも善戦するなど狭い中央アジアに収まりきらないスケールで、あっという間にウズベキスタンサッカーの支配者となった。その強さはパフタコルですら全く歯が立たないほどで、まさにこの世の春を謳歌した。ブニョドコルの出現は、パフタコルの孤軍奮闘状態だったこの国のサッカーに風穴を開け、新たな時代の幕開けとなった。

 しかし、栄華は長くは続かなかった。
 2010年にゼロマックス社が突如として政府から業務停止命令を受け、後に倒産(負債は総額5億ドルともいわれる)する。これは、いくつかの友好国が、黒い噂の多いグルノラ氏が次期ウズベキスタン大統領になることに難色を示し、そのことを憂慮したカリモフ前大統領が方針転換、彼女を後継者から外し自身から遠ざけたことが背景にある、と噂された。強力なメインスポンサーが消滅したことでチームは覇権を失った。
 この手の新興クラブはスポンサーの撤退が原因で資金が尽きてポシャることがよくあるが、国営のエネルギー関連企業(エネルギー供給会社の「ウズトランスガス」と石油製品製造会社の「ウズベクネフテガス」)がスポンサーについたことである程度まとまった資金を確保したこと、成金主義を捨て育成組織出身の若手選手を育てて使う方針に切り替えたことで何とか生き延びた。
 2016年にカリモフ氏が任期中に死去し、ミルズィヨエフ現体制が確立。「カリモフ閥」の解体が一気に進み、グルノラ氏も資金洗浄、脱税、横領、恐喝のかどで逮捕された。バルセロナとの提携関係も、2010年のジョアン・ラポルタ会長(第1期)の退任により解消、両チームを仲介した代理人も不法に利益を得たとして訴追されている。
 その姿にはもはや「不気味で悪趣味な成金」というイメージはないが、国家というこれ以上なく有力な後ろ盾を失ったことでここ数年はジリ貧気味。生え抜き選手の大量放出を余儀なくされチーム力も徐々に落ち、名実ともにいち中堅チームに転落しかけている。

 ホームグラウンドはミリー・スタディオン。かつて陸軍中央スポーツクラブのグラウンドがあった場所に1億5,000万ドルを投じ2012年に建てられた、最新の設備を備えた国内最高峰のスタジアム。近年はパフタコル・マルカジー・スタディオンに代わってウズベキスタン代表の試合が行われることも多い。せっかく素晴らしいスタジアムを使っているのに、客入りは非常に悪い。
 パフタコルと同じくエンブレム上部の星は5度のリーグ優勝を現している。


ロコモティフ

原語名:Lokomotiv Toshkent professional futbol klubi
創設:2002年
本拠地:タシケント
グラウンド:ロコモティフ(12,000人収容)
獲得タイトル:リーグ優勝3回、カップ戦優勝3回
愛称:Temiryo'lchilar「鉄道員」

 2002年創設の比較的新しいチーム。ロシア語で「機関車」を意味するチーム名の通り、ウズベキスタン国営鉄道がスポンサーを務める。メディアではしばしばロコと略称で呼ばれる。創設からしばらくは特徴のない中堅チームだったが、2010年に2部降格が契機に。2011年に国家のサッカー強化方針を背景にスポンサーの大手銀行「オリエントフィナンスバンク」社とウズベキスタン国営鉄道が大規模に資金投入すると、一大強化に乗り出し強豪チームに変身。2016年からリーグ3連覇を果たし、一時はパフタコルをも凌ぐ強さを見せた。かつてのブニョドコルと同じ「パフタコルから選手を引き抜く」強化策も採ったが、それだけでなくロシア帰りのビクマエフ、20代前半だったトゥフタフジャエフ、ユース上がりのアリボエフなど幅広くリクルートした選手で黄金期を築いた。

 スタジアムは市の北東のはずれにある。この地にはトラクトルというチームのグラウンドがあったが、2007年にトラクトルが財政破綻した際に引き取り、「ウズベキスタンサッカー100周年」を記念して2012年に再建されたもの。一帯には現在もトラクトルの母体だったタシケント・トラクター工場と関連施設があり、地域名も工場の略称の“TTZ”。以前は市内南部、タシケント鉄道輸送技術者学校の敷地内にあるスタジアムを本拠地にしていた。チームカラーは赤と緑。同名のチームとして最もよく知られるロコモチフ(モスクワ)に倣ったものと思われる。 

 黄金時代を彩った戦手の多くがチームを去った2018年以降は優勝争いからは離れ、現在は第二集団のチームとなった。毎年行うそれなりの補強、外国人監督の招聘、オフィシャルサポーターズクラブの創設、ユースチームの整備など実力と野心を兼ね備えるチームであることに間違いないのだが、驚くほど集客力が悪く、ホームゲームでも平均観客数は2,000人台。タシケントにはパフタコルやブニョドコルといった有力チームが複数あるのでファンが分散しているのかもしれない(そもそも国民が自国サッカーに関心がないという悲しい現実があるのだが)。
 この国には珍しく、eスポーツのチームを持っている。


ナフバホル

原語名:Navbahor Professonal Futbol Klubi
創設:1974年(ソ連リーグに参入した1978年とする資料もあり)
本拠地:ナマンガン州ナマンガン
グラウンド:ナマンガン・マルカジー(22,000人収容)
獲得タイトル:リーグ優勝1回、カップ戦優勝3回
チーム名変遷:テクスチーリシク(1974-80)→ナフバホル(1981-1983)→アフトモビリスト(1984-87)→ナフバホル(1988-)
愛称:Lochinlar「ハヤブサ」

 「ナフバホル」とはイラン系言語に由来し、「早春」程度の意味である。イランを起源とする伝統的な暦法では春分の日(ナウルーズ)が元日とされ、あらゆる生命活動が始まるめでたい時期である。イラン文化の影響を強く受けたウズベキスタンでも全国的にナウルーズを祝い、これらの語は団体名や地名にしばしば用いられる。

 地域リーグで優秀な成績を収め、1978年にソ連3部リーグに参加。その後はじわじわと順位を上げていき、ソ連最後となった1991年シーズンは2部を9位で終える。これはウズベクSSRのチームとしてはパフタコル(1部14位)、ネフチ(2部7位)に次ぐ3番目に良い成績である。ウズベキスタン独立後はソ連崩壊時の序列そのままにパフタコルとネフチに次ぐ第3の強豪チームとなり、リーグを1度、国内カップ戦を3度(初代優勝チームでもある)制した。2004年までの12シーズンで8度の3位フィニッシュという成績からも、当時の彼らのポジションがわかる。また、1992年の開幕から1部リーグ皆勤賞のチームはパフタコルとナフバホルのみ。
 本拠地のナマンガンはサッカーが盛んな土地柄で熱心なファンが多く、主催試合の平均観客数は断トツのトップ。ウズベキスタン東部3州(ナマンガン州、フェルガナ州、アンディジャン州)はウズベキスタンサッカー発祥の地として知られ、上記3州のチーム同士の対戦は"vodiy derbisi「盆地ダービー」と呼ばれ盛り上がる。

 2000年代後半から2010年代半ばまでは中堅チームに甘んじていたが、ナマンガン州の資金投入を受けチームを強化。2017年に久々に3位に入り古豪復活の予感が漂っていたが、2021年シーズンオフに大量のウズベキスタン代表選手やリーグの大物選手を引き抜く驚きの大補強を敢行し、優勝候補に名乗りを挙げた。新加入選手たちが1996年以来のリーグ制覇の鍵を握るのは当然のこと、新監督のババヤン氏の手腕にもかかっている。巨大戦力でリーグを席巻するのか、はたまた盛大にコケるのか、彼らの戦いに注目だ。

 チームカラーは黄色だったが、2018年に赤に変更。同時にロゴマークも一新され、ボールを力強く摑むハヤブサが赤一色で描かれた特徴的なデザインになったのだが、すぐにアメリカ空軍士官学校のフットボールチーム「エアフォース・ファルコンズ」のかつてのロゴデザインと酷似していることがインターネットユーザーによって発覚してしまった。そして大改革が行われた今季、ガラッと変わってチームカラーは青一色に。件のロゴマークも無難なデザインに変更された。
 ナマンガン出身のオディル・アフメドフが幼い頃応援していたチームで、現在は実弟のアズィム・アフメドフがキャプテンを務める。


コーカンド1912

原語名:Qoʻqon 1912 futbol klubi
創設:1912年
本拠地:フェルガナ州コーカンド
グラウンド:コーカンド・マルカジー(10,050人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:ムスコマンダ(1912-25)→コーカンド(1925-50)→メフナト(1950-87)→アフトモビリスト(1988-91)→テミルユルチ(1992-2002)→コーカンド1912(2002-06)→クルフチ・コーカンド1912(2007-08)→ブニョドコル・コーカンド1912(2008-09)→コーカンド1912(2012-)
愛称:Shunqorlar「シロハヤブサ」

 チーム名にもある通り1912年に創設。100年を超える歴史を持つウズベキスタン最古のサッカーチーム。黎明期のチーム史はウズベキスタンサッカーの歴史そのもの。ロシア帝国時代にトルキスタン総督府に駐屯したロシア人兵士からサッカーを学び、現地の住民が組織した「ムスコマンダ」というチームが母体。当時はボールやシューズをチームメンバーが手作りしていたが、次第に商人やジャディードなど有力者がチームに関わるようになり、ロシア人チームとの練習試合を経て強化。さらにフェルガナ州(現在とは領域が異なり、ナマンガン州とアンディジャン州を含む)を遊歴し、当地にサッカーを普及する役割も担った。
 ソ連時代には無神論の観点からムスリムのクラブという性格を排し全住民に門戸を開放。1926年からウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内のリーグ戦が始まるとこれに参加し、主に4部に相当するリーグに所属した。長い歴史の中で大きな浮き沈みもなく、コーカンドの町を代表するチームとして活動を続けた。1988シーズンから4シーズンだけ3部リーグで活動しているが、これは近くのフェルガナ市で活動していた「アフトモビリスト」というチームが急きょコーカンドに移転したことによる。アフトモビリストはウズベキスタン選手権(4部リーグ)を制したが、3部リーグにはすでに同じフェルガナで活動するネフチャーニク(現在のネフチ・フェルガナ)が存在したため、重複を避けてコーカンドに移転した。ソ連時代のリーグ戦は「都市対抗戦」の性格が強かったため、このような措置がしばしば取られた。余談だが現在のウズベキスタンサッカーもこの傾向を引き継いでいる面があり、タシケント以外の同都市から複数チームを同一リーグに参加させない事例が時折みられる。なお、かつての名MFテムル・カパゼ氏の実父トヒル氏が監督を務めていたことがある。

 ウズベキスタン独立後は1部と2部を行ったり来たりするチームとなったが、2004年にリーグへの参加料が支払えずに3部に降格。財政難が深刻化し、2010年に活動休止。このまま消滅かと思われた2012年、ウズベキスタンサッカー誕生100周年の節目に復活。再び2部リーグに参加すると3年で1部に昇格した。
 昇格後は中堅チームの座を確保している。名物プレーヤーは主将のホルムハメドフ。DFの選手ながら右足から放たれるプレースキックの精度は驚異的で、直接ネットにねじ込むのも味方に合わせるのも自在にこなし、キャリアを通じて1度しか失敗していないPKのうまさも併せ持つ。他にも長身かつ柔らかなボールタッチが持ち味のトップ下バンバ、フットサル選手のようなトリッキーなドリブルが武器のソビルジョノフら一癖ある選手が多かったのだが、今オフにその大半がチームを去った。今季は苦戦が予想される。
 チームを率いるのはアシュルマトフ監督。出入りが激しい攻撃サッカーで結果を残し、若き敏腕指揮官として高い評価を得ている。昨季は自身の健康問題で周囲を心配させたが、どうやら回復した模様。先述の戦力低下をその手腕でどこまでカバーできるか。

 大半が自治体保有の中、ウズベキスタンには珍しい個人保有のチーム(筆者が知る限り2022年現在で2部リーグのトゥロンとこのチームのみ)。オーナーのバフティヨル・トリポフ氏は、建設業や靴の製造業を営む実業家で、自社の収益をチームの運営費に充てている。自治体の毎年の予算に左右され、かつその枠内での活動を余儀なくされる自治体保有のチームに比べ安定性と長期的な展望の面で優れており、事実これまでに彼のリーダーシップとスポンサーの援助のもとで練習場、グラウンド、アカデミーの整備を行ってきた。

 本拠地コーカンドは、いわゆるウズベク3ハーン国のひとつのコーカンド・ハーン国の首都。国内の諸都市と同様に交易の要衝にあたり、西のタシケント、南のフジャンド(現タジキスタン)、東のカシュガル(現中国)の中継点として大いに栄えた。コーカンド・ハーン国は18〜19世紀にかけて北はカザフスタン、東はキルギス、南はタジキスタンに至る一大勢力を築き、一時は清としのぎを削るほどの強勢を誇った。さらにその勢力圏には現在の首都タシケントも含まれ、後にロシア人との交易により町が栄える基礎を作った。その後1876年にロシア帝国に併合され滅亡、新設フェルガナ州の一部に再編、コーカンドは一国の首都から州都となった。
 コーカンドの町はソ連の長い統治下でほとんどが破壊され、「社会主義的」な町並みに再建された。フェルガナ州都の座もロシア人入植地を起源に持つスコーベレフ(現フェルガナ)に譲る不遇の時を過ごしたが、独立後は肥沃な土地を持ち人口稠密、他地域と比べ特に人々の宗教心が篤い現在のフェルガナ州の基礎を作ったコーカンド・ハーン国の旧都として親しまれている。
 エンブレムに描かれているのは最後のハーン、フダーヤール・ハーンが滅亡直前の1871年に作った宮殿である。旧時代を象徴する建造物のが相次いで破壊されたソ連時代を奇跡的に無傷で切り抜け、現在は歴史博物館として町の名所となっている。また伝統的に手工芸が盛んな街としても知られる。


メタルルグ

原語名:Metallurg Bekobod professiobal futbol klubi
創設:1945年
本拠地:タシケント州ベコボド
グラウンド:メタルルグ(15,000人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:ベカバード(1945-69)→ツェメンチ(1969-91)→マーダンチ(1992-93)→メタルルグ(1994-)
愛称:Ma'danchilar「金属工」

 本拠地のベコボドはシルダリヨ右岸、タジキスタンとの国境沿いの工業都市。主要産業の鋼板とセメント製造はどちらも国内屈指の生産量を持つ。また、市郊外には大河川シルダリヨの水量を活かした巨大なファルホド水力発電所があり、国内電力供給に重要な役割を持つ。
 しかしこの発電所、シルダリヨにまたがるように建っているため、ソ連崩壊後は両岸のウズベキスタンとタジキスタンの間で所有権をめぐり紛争が起きるなど、ソ連時代の負の遺産の面もある(ソ連時代は長くタジクSSRから借り受けていたが、期限満了以降もウズベクSSRが実効支配、2002年の軍事衝突の末元の所有者であるタジキスタンが奪還したが、2018年に両国の協議の結果、施設維持・管理はタジキスタン、操業はウズベキスタンと決まった)。

 「メタルルグ」とはロシア語で「金属工学者」を意味する。その名の通り鋼板、鋼鉄線材、ホットコイル、帯鋼など様々な種類の鉄鋼製品を手掛ける国有企業「ウズベキスタン製鉄コンビナート(ウズメトコンビナート)」がスポンサーを務める(ロゴデザインも同社のものと同じ)。国内で回収した鉄スクラップやロシア、カザフスタンから輸入した粗鋼が原材料で、電気炉で溶解して製造する。ウズベキスタンは鉄スクラップの国外輸出を禁止しているため独占的かつ安価な調達が可能。さらに近年は同国の経済成長により鋼材需要が伸びていること、国を挙げて鉄鋼製品の国内品への代替を加速していることが追い風となり急速に成長、中央アジア最大の製鉄会社の座をゆるぎないものにしている。さらに利益を元手に大規模な投資を行い生産キャパシティを大幅に増やしている。3度目の登場となるが、投資会社SFIマネジメント・グループが保有している。

 チームは1945年の創立。ソ連時代はかなり低いディビジョンで活動していたと思われる。確認できる限りは1968年と1969年に3部リーグ中央アジア地区でプレーしているのみで、これ以上のカテゴリーでの実績はない。地元企業の従業員による同好会チームのような存在だったのかもしれない。

 ソ連崩壊後は新設された2部リーグに参加するも、数年間は目立った成績は残していない。1997年に1部リーグに昇格すると、中位~下位が定位置ながらも定着。20シーズン以上降格することなく戦っている。2018年シーズンはアンドレーエフ、ムッラジョノフ、ロバーノフ、K.トジエフら代表経験のある実力派ベテランの頑張りとチームを率いるシピーロフ監督の手腕もあり5位。
 中堅チームの仲間入りを果たし、2021年シーズンはさらなる高みへ……といきたいところだったが、8月からの後半戦14試合でわずか3勝と深刻な不振に苦しんだ。一時は降格圏内に入るなど低調な戦いを余儀なくされ、10位で残留したものの、皮肉にもアンディジャンとトゥロンでほぼ決まりの様相だった残留争いを盛り上げてしまった。好調な頃から絶対的なFWがおらず、守備が綻ぶと簡単に競り負ける弱点が如実に結果に出てしまった。しかし世代交代が徐々に進んでおり、堅実な戦い方は昨季躍進を遂げたソグディアナと似ている。得点力アップが課題な点もソグディアナと同じだが、今オフに足元の柔らかいウリンボエフ、スピードが武器のノルベコフという2人の好FWを補強。ふたりともマルチな能力を持ち、周りも使える2トップ向きの選手で、この国には珍しい4-4-2または3-5-2の布陣を敷くチームにうってつけの人材。彼らがうまくハマって機能すれば、上位進出は堅い。

 ホームグラウンドのメタルルグは2012年開場、こぎれいな中規模のスタジアム。2010年代に入り、ソ連時代に建設され老朽化が進んでいた全国の競技場が一斉にリニューアルしている。「2011-13年にかけて国内のサッカーに関わる設備をリニューアルする」という大統領令があり、それに沿ってトップダウンで全国的に進められたスタジアム改修事業の一環。


スルホン

原語名:Surxon Termiz futbol klubi
創設:1968年
本拠地:スルホンダリヨ州テルメズ
グラウンド:スルホン・スポーツコンプレックス
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:チェガラチ(1968)→アフトモビリスト(1969-1973)→スパルターク(1974)→アフトモビリスト(1975-83)→スルホン / スルホン(1984-93)→АСК(1993-96)→スルホン(1997-2008)→ディナモ・ハムコル(2009-10)→テルメズ(2010-11)→スルホン(2011-)
愛称:Uchar tulporlar「ペガサス」

 本拠地のテルメズはアムダリヨ右岸、アフガニスタンとの国境沿いに位置するウズベキスタン最南端の町。非常に古い歴史があり、紀元前のバクトリア時代から集落があったことが判明している。チーム名のスルホンとは市内を流れるアムダリヨの支川のこと。また、夏の強烈な暑さでも知られる。

 波乱の歴史を歩んできたチーム。ソ連時代の主戦場は3部リーグで、ウズベキスタン独立後しばらくは1部に在籍。代表選手を擁しカップ戦の決勝にも進むような比較的力のあるチームだったが、2004年に降格すると苦難の時期に。1部昇格が果たせないまま数シーズンを2部で過ごしていると、追い打ちをかけるように財政難が発覚、チームは凋落の一途を辿る。
 2010年代には3部にまで落ち、もはや活動しているのかさえも分からないような状態がしばらく続いた。こうしてスルホンはウズベキスタンサッカーの表舞台から姿を消し、このまま消滅かと思われた2017年、好選手を輩出する土地であるスルホンダリヨ州からサッカーの灯を消すまいと、市長兼テルメズサッカー協会会長のエルキン・トゥルディモフ氏が立ち上がった。彼の主導で予算が増大、財政難脱却どころか強力なチーム力を手に入れ、3部リーグを制するも設備面から昇格が認められなかったネフチ・ジャルクルゴンに代わり繰り上げで2部リーグに昇格。翌シーズンも同様に設備面で昇格を認められなかった3位のイスティクロル(フェルガナ)に代わり15年ぶりにトップディビジョンに返り咲いた。

 昇格1年目の2019年シーズンはCBを2枚ともセルビア人にする起用が奏功し守備が安定、エースのユスポフとベテランFWサロモフが活躍、いきなり過去最高の6位でシーズンを終え周囲を驚かせた。
 しかし以降は下位が定位置となり、2021年シーズンは所属選手がチーム関係者に暴行されるというショッキングな事件も起きた。シーズン終盤まで降格圏にどっぷり浸かっていたが、最終盤に猛烈な追い上げ。最終節にマシュアルをかわして11位に入り、奇跡的に残留した(代わりに12位でシーズンを終えたマシュアルは、入れ替え戦の末2部降格)。地元出身で20歳そこそこの若手選手がシーズン半ばからスタメンに定着して結果を残し、来季に向けて明るい要素を提供した。しかし他チームと比べ明らかに小粒なラインナップで、エースのボボジョノフを除いてスター選手は不在。
 今のところ大掛かりな補強の話はなく、逆にチームを支えたサリモフとヨクボフがローンバックで退団し、H.ゴフロフがネフチに抜けた。1月にフロントと選手に複数人のスペイン人を迎え入れ派手な補強をしたが、それでもチーム力はさほど高くなく来季も苦しい戦いを強いられるだろう。1部残留はエースの働きと、実力未知数の助っ人次第。

 さまざまなサイトで、ホームグラウンドはアルポムシュとなっているが、市内北東部にあるスルホン・スポーツコンプレックス内のサッカー場を使用しているようだ。詳細は不明だが2019年に開場した、収容人数10,000人の小ぶりなスタジアム。サイズは小さいがかなり新しく、ピッチの状態も悪くはなさそうだ。
 2019年シーズンのアウェーユニホームは、ウズベキスタンの伝統模様アトラスをあしらった非常にスタイリッシュなデザインだった。ご近所のナサフとの試合は"voha derbisi「オアシスダービー」"と称されることがあるが、定着しているとは言いがたい。


キジルクム

原語名:Qizilqum Zarafshon futbol klubi
創設:1967年
本拠地:ナヴォイ州ナヴォイ
グラウンド:ヨシュラル(12,500人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:プログレス(1967-80)→ザラフシャン(1981)→プログレス(1982-94)→キジルクム(1994-95)→プログレス(1995-97)→キジルクム(1997-)
愛称:Oltin qazuvchilar「金鉱夫」

 本拠地は中部ナヴォイ州の州都ナヴォイ。
 「キジルクム」とはウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンにまたがる広大なキジルクム砂漠、チームの正式名称にあるザラフションとは、タジキスタンのパンジャケント近郊に発し西に流れるザラフション川のことで、流域にサマルカンドやブハラといった豊かな文化と歴史を持つオアシス都市を育てた川である。キジルクム砂漠は不毛の荒野だが、豊富な地下資源を埋蔵しており、近年国家を挙げての開発が進んでいる。近郊のムルントフ鉱床は推定2,000mtもの埋蔵量を持つ、世界最大規模の露天掘り金鉱床。さらに大量の石灰石が採れることから、周辺ではセメント製造も盛んだ。ナヴォイには中央アジア最大のセメントメーカー「キジルクムツェメント」社もある。

 チームのスポンサーは国営の非鉄金属メーカー「ナヴォイ鉱業・冶金コンビナート(NGMK社)」。主要生産品目は金とウラン。国家収入の20%近くを占めるウズベキスタン最大の企業で、金のメーカーとしても世界最大規模。
 チームは設立当初はNGMK社が立地するザラフションの町に本拠地を置いていた。ザラフションはオルマリクと同じくNGMK社のモノゴロドで、町が作られたわずか2年後にワークスチームとして創設。ソ連時代は全国リーグ(1-3部)に到達できず、すべての期間をウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内のリーグ戦で過ごした。独立後もウズベキスタン2部リーグでプレーしていたが、2000年シーズンに1部に昇格すると、中堅チームとしての地位を確保した。

 少し奇妙な点があり、それはチームの本拠地がナヴォイなのかザラフションなのか判然としないこと。現在はほぼ全ての情報源でナヴォイとなっているが、かつてはザラフションとされていた。さらに、2000年から2002年の間には1部リーグに同じナヴォイ州のナヴォイが本拠地のザラフションというチームも所属していた。ザラフションはキジルクムより早い1997年に1部リーグに昇格している。2002年の2部降格以降ザラフションは表舞台から姿を消し(2013年に消滅したとされる)、彼らとは対照的にキジルクムが1部リーグに定着、今ではかつてザラフションが本拠地を置いていたナヴォイのチームということになっている。「1部リーグに同じ州から複数チームを参加させない」不文律によるものか、キジルクムがいつ本拠地をナヴォイに変更したかなど詳しいことはよく分からない。当時のキジルクムの保有者がナヴォイ州ではなくNGMK社であれば同州から複数チームが1部リーグに参加していた点も理解できるが、その辺りがわかる資料も見当たらない(関係する情報かわからないが、1992年の国内リーグ発足時に、ザラフションが1部参加を拒否し2部所属になったとの情報もある。一方キジルクムは当初から2部リーグに参加)。さらに国内メディアでも、ザラフションとキジルクムを同一チームと認識しているような記事があり、謎が多い。

 何はともあれ、ザラフションが降格した2002年シーズンに、過去最高順位の3位でリーグ戦を終えている。それ以降は中堅チームとして定着するが、少しずつ順位を下げていき、ここ2-3年は下位チームに。
 毎シーズン綱渡りのような残留劇を見せているが、2020年に元ウズベキスタン代表のレジェンドGKネステロフを獲得したのを皮切りに、2021年は現役ウズベキスタン代表のトゥフタフジャエフとケンジャボエフ、ジョージア人の実力者グリガラシュヴィリとヴァツァゼを獲得しチーム力を上げ始めた。
 2022年は先述のケンジャボエフとグリガラシュヴィリが退団するも、T.アブドゥホリコフ(1部リーグ得点王経験者)、B.ユルドシェフ、ムハンマディエフ、ショアフメドフ、イルヨソフの5人のウズベキスタン代表経験者とセルビア1部からFWスタニサヴリェヴィッチを獲得する大型補強を敢行。1月に組織変更があり、これまでのナヴォイ州が設立した非営利団体"キジルクムPFK"から、NGMKが設立した新組織"PFKキジルクムLLC"に改変されたという。それが何を意味するか詳しくは分からないが、もしかしたらNGMK社から大規模な資金投入が可能になったことを意味するかもしれない。来季はこれまでの不甲斐ない戦いから脱却し、台風の目になるか。


ネフチ

原語名:Neftchi futbol klubi
創設:1962年
本拠地:フェルガナ州フェルガナ
グラウンド:イスティクロル(20,000人収容)
獲得タイトル:リーグ戦優勝5回、国内カップ戦優勝2回
チーム名変遷:ネフチャーニク(1962-1991)→ネフチ(1992-)
愛称:Yo'lbarslar「トラ」

 栄光の歴史を持つ、国内屈指の古豪。ウズベキスタン独立直後から2000年代前半までは国内最強チームとして輝かしい成績を残し、毎年のごとくパフタコルと優勝を争った。「ネフチ」はウズベク語で石油業者を意味し、実際に「フェルガナ石油精製プラント(FNQIZ)」社がスポンサーを務める。

 名前の通り、1959年に操業を開始したFNQIZ社のチームとして発足。ソ連時代は、現ウズベキスタンのチームとしてはそれなりに強く、ソ連崩壊時の1991年シーズンは2部リーグで7位。これは1部リーグ14位のパフタコルに次ぐ、共和国のチームでは2番目にいい成績だった。ウズベキスタン独立後最初に行われた1992年シーズンではパフタコルと勝ち点で並び、優勝を分け合った(当時は得失点差や勝ち数重視などの要素は検討されなかった)。そこから1996年までリーグ4連覇の黄金時代を築く。
 優秀な選手がいたのも事実だが、その時代を語る上で欠かせない名物がクラブOBでもあるユーリー・サルキシャン氏。1987年から2013年まで実に26年間もの長期政権を築き、その間に5度のリーグ優勝と2度のカップ戦優勝をチームにもたらし、9度のリーグ戦2位フィニッシュと文句のつけようのない成績を残した。その経歴から「ウズベキスタンのファーガソン」と呼ばれた。その強さは国内に留まらず、1994年にはCISカップ準優勝、1995年にはアジアクラブ選手権(現在のACL)3位になった。
 さらに現在のパフタコルやブニョドコル、ナサフ同様サッカースクールも整備し、ネフチからは多くのウズベキスタン代表選手が育った。アトヤン、R.ボゾロフ、ドゥルモノフ兄弟、レーベデフ、ラドケーヴィチ、A.フョードロフ、チーホノフなど、その数は枚挙に暇がない。

 21世紀になるとリーグの覇権をパフタコルに明け渡すようになり、以前ほどの強さはなくなっていく。偶然か必然か、ちょうどこの頃からFNQIZ社の設備陳腐化による生産量低下が始まる。
 2010年代からは凋落の一途をたどり、財政難もささやかれるようになった。そして2018年シーズン、リーグ戦を最下位で終えついにチーム史上初の2部リーグ降格を喫する。2020年シーズンは最終盤まで自動昇格圏を争う位置にいたが、最終節でトゥロンに敗れ昇格を逃した。その際に、敗戦に納得いかない観客と選手が審判団を襲撃するという前代未聞の事件が起きている。これに危機感を募らせたのか、オフにフェルガナ州政府が積極的な資金投入を行いチーム力を強化、2021シーズンは圧倒的な強さで2部リーグを制し、ようやく1部リーグに戻ってきた。かつて栄華を誇ったチームだけあって、熱心な(往昔を神格化する)ファンが比較的多い。
 なお、現在FNQIZ社はピーク時の30%ほどの生産しかできていないというが、2020年にブニョドコルのメインスポンサーを務めるウズベクネフテガス社とロシアのガスプロム社による合弁企業に買収され、現在はインドネシアの投資会社のサポートにより大掛かりな設備近代化をおこなっているようだ。

 なお、フェルガナはコーカンドと並ぶウズベキスタンサッカー発祥の地といわれている。コーカンドの前身であるムスコマンダが発足したのと同じ1912年に、当時スコーベレフと呼ばれていたフェルガナにも「スコーベレフサッカー選手会(OSF)」というチームが作られている。このチームについてはあまり詳しいことが分かっておらず、その後の動向も不明だが、とにかくコーカンドとフェルガナでサッカーが興り、すぐにアンディジャンやタシケントといった他の町に伝播したことは確かなようだ。そのおかげかフェルガナ地方は今でもサッカーが非常に盛んで、当地方に属するフェルガナ州、ナマンガン州、アンディジャン州に本拠地を置くチーム同士の試合は「盆地ダービー(vodiy derbisi)」と呼ばれ現在でも(比較的)盛り上がりを見せる。


ディナモ

原語名:Dinamo Samarqand futbol klubi
創設:1960年
本拠地:サマルカンド州サマルカンド
グラウンド:ディナモ(16,000人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:ディナモ(1960-63)→スパルターク(1963-67)→ソグディアナ(1967-68)→サマルカンド(1968-70)→ストロイーテリ(1970-76)→ディナモ(1976-91)→マロカンド(1991-93)→ディナモ(1993-97)→アフロスィヨブ(1997-98)→サマルカンド(1998-2000)→サマルカンド・ディナモ(2000-08)→ディナモ(2008-)
愛称:Arslonlar「ライオン」

 本拠地サマルカンドは、シルダリヨの支川ザラフション川の流域に位置する歴史都市。中央アジアにさほど親しみのない日本においても、かつてのシルクロードブームの影響か、この町の名前くらいは聞いたことがあるという人は多い。
 紀元前からソグド人の町として記録に残り、その後もいくつもの王朝の下で東西を結ぶ交易により栄えた。中でも名高いのがティムール朝統治下。都として絢爛豪華な建造物が数多く建てられ、それら多くがその後の歴史の荒波に揉まれつつも現在まで残っている。この国特有の、文字通り抜けるような青空と特徴的な青緑色の屋根から「青の都市」と呼ばれ、街そのものが世界遺産に指定されている。建造物だけでなく文化が爛熟した往時を忍ばせる製紙やハサミなどの伝統工芸も多い。ブハラやヒヴァと並ぶ、観光立国を目指すウズベキスタンが世界に誇る美しい都市で、近年は日本人観光客も増えているとか。なお、イスロム・カリモフ前大統領の出身地でもある。

 町に関するトピックの多さと裏腹に、歴史的には特に語ることのあまりないチームである。幾度となくチーム名を変えていたソ連時代は全国3部リーグに所属する、いち地方共和国の目立たないチームだった。ハイライトは、1984-85シーズンに3部所属ながら2部リーグのファーケルと1部リーグのジャルギリスを破り、国内カップ戦ベスト8に入るプチ番狂わせを演じたことか。
 ウズベキスタン独立後は例のごとく1部リーグに参加するも、リーグ戦4位、カップ戦準優勝を果たした2000年以外は常に中位〜下位をウロウロしてきた。昇降格も頻繁で、これまで5度の降格と4度の昇格を経験したヨーヨー・クラブ。昨シーズンは2部リーグで2位に入り、4シーズンぶりのトップフライトを決めた。
 チームOBで最も有名なのはイグナチー・ネステロフ。17歳でデビューするといきなりレギュラーを掴み、すぐに翌年パフタコルに引き抜かれた。その後の活躍は上記のリンクで詳説している。サマルカンドはあまりサッカーに熱心な土地柄ではないのか、地元出身の有名選手はあまりいない(ウズベキスタン人ですら勘違いしている節があるのだが、ネステロフはタシケント出身)。

 ロゴマークはサマルカンド市章とほぼ同じデザイン。中央に描かれているのはユキヒョウだが、ウズベキスタンでの目撃情報はない。ではどこにいるのかというと、タジキスタンの山中。古くからイラン文化が花開き、今もペルシャ語に近縁の言語(彼らは「タジク語」と呼ぶが、タジキスタンの公用語であるタジク語とは大きく異なる)を話し、自らの帰属を「タジク語を話すタジク人」と認識する人々が多く住むこの町を象徴する意匠といえる。

オリンピク

チーム名:Olimpik futbol klubi
創設:2021年
本拠地:タシケント
グラウンド:JAR(8,500人収容)
獲得タイトル:なし
チーム名変遷:オリンピク(2021-)
愛称:Olimpiyachilar「オリンピック選手」

 2021年に設立された、一風変わったチーム。「オリンピク」という名の通り、オリンピック代表(23歳以下)有資格者選手のうちなかなかトップチームでの出番が少ない者の実戦経験を積む場として、ウズベキスタンオリンピック委員会とウズベキスタンサッカー連盟の協力で作られた若手選抜クラブチームで、期限付き移籍の形で借り受けた他チーム所属の有望な若手選手で構成される。国際試合時には非オリンピク所属の選手も参加することがあるので、必ずしも「オリンピク=U-23代表チーム」ではない。同様のケースはシンガポール(ヤング・ライオンズ)やかつてのJリーグ・アンダー22選抜などアジアの国でしばしば見られる。

 設立1年目の昨シーズンは、2024年のパリ五輪を想定して2000年以降生まれの選手でチームを構成。かつての名MFテムル・カパゼ氏の指揮のもと激しい攻撃サッカーで予想外の躍進。2部リーグを3位で終了。その後行われたワンマッチの入れ替え戦でも1部12位のマシュアルに勝利し、まさかの1部昇格を成し遂げた。チームの役割上、選手が大幅に入れ替わる流動的なラインナップである点、そもそもの「戦力補強」ができない点から厳しい戦いが予想されるが、1戦ごとに成長する若き力でリーグに旋風を巻き起こすか。そして、2022年は自国開催のU-23アジアカップ(五輪開催年度に開かれる大会は五輪予選を兼ねる)が開かれる。大きな大会に向けた最後の準備を国内最高峰リーグで行えるメリットは大きい。リーグ戦の好成績だけでなくオリンピックへの出場も目標にする異色のチーム。国内の競技力向上と若手育成を志向する、ウズベキスタンサッカー界全体に利益をもたらす貴重な存在だ。

 なお、ホームスタジアムのJARスタジアムはウズベキスタン代表のトレーニンググラウンドとしておなじみの場所である。
 スポンサーには国内有数の投資会社「オリエント・グループ」がついている。代表のサケン・プラトフ氏はミルズィヨエフ大統領との結びつきが強く、国家主導のプロジェクトであることを感じさせる。


ログ
2022年1月12日:記事立ち上げ
2022年1月14日:ソグディアナ、コーカンド1912、キジルクムの項を加筆
2022年1月15日:ブニョドコルの項を大幅に加筆

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