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ぶり木網漁 (上)

ぶり木網漁(上)小説  [ (中)、(下) もお読み下さい]
 虚士(きょし)が小学校5、6年生(昭和35、36年)の頃の話です。祖父(じさん)の虚(きょ)太郎(たろう)は”ぶり網漁(振り木網漁)“と言って、地引網を縮小、簡略化した様な、少人数で機動的に漁ができる手造りの網を持っていました、その仕組みは、引き上げる時重くならないように、網は魚を捕獲する中央部だけで、両側は重りの付いた縄に、白色の乾燥した雑木を割って、長さ1m位に切断した”ぶり木”を2m間隔ぐらいに細い縄(道糸0.7m長)で接続したものです。海中でこのぶり木が、陸から引っ張るごとにゆらゆらとゆれて、魚が横へ逃げない様に脅しの役目をして、網の方へ追い込むと言う仕組みです。
 
 虚太郎じさんにとって、この”ぶり網漁“は自給自足の一環でもありましたが、普通に人が楽しむ釣りと同じような遊びでもあり、道楽でもあったのかも知れません、農閑期であったり、山仕事、農作業をするには、雨や雪が降って不向きな日に、出かけていました。
 
 虚士はこの虚太郎じさんの“ぶり網漁”について行くのをとても楽しみにしていました。虚士の役目もあります、じさんの“ぶり網仲間”を呼びに行く事と、“ぶり網漁”実行中の“ぶり木”の整理役です。
 
 6月のある日、じさんが虚士に言いました。「今度の土曜日、虚士が学校から帰ったら、ぶり網漁に出るぞ」、虚士は色々想像して「イトヨリが獲れるかなあ、ホウボウも見たいなあ」、とわくわくしてきました。
 
 当日、その頃虚士は、隣集落の深海(ふかみ)小学校の本校に通っていたので、授業が終わると、4km程度の道のりをほとんど走って帰ってきました、昼食の麦飯に鰯の干し物を掻き込み、”ぶり網仲間“を呼びに走ります、同じ浅海(あさみ)集落の、まず虚士の家から遠い処の、へ次郎どん(殿)の家へ行き、「じさんが、ぶり網に出ると言うとらる」、へ次郎どんはすぐに、「おう虚士か、これはこれはね(ありがとうの意)、直(じき)に行くよ」、次は村(むら)治(じ)どん、「わかった直に行くよ」、最後は山際の家の、麻呂どん、「良しわかった直に行くよ」、みんな浮き浮きした声で答えてくれます、自然に虚士の気持ちも盛り上がってきます。
 
 「ぶり網仲間」が集まり、平瀬横の離れ倉庫から漁具を手漕ぎ船に積み込みます、虚士は丁寧にぶり木を、船の先端付近に重ね上げます。積み終わると出港です、ぎっちらこ、ぎっちらこ、と代わり番こに漕ぎ出し、漕ぎ音が大きく鳴るごとに虚士は艪の接点に海水を掛け音を小さくしながら、漁場へと向かいます最初のポイントは、ほきの鼻の少し手前の砂地です。
(この話は実話に基づいていますが、細部の記憶が怪しいので”小説”としました)――ぶり木網漁(中)に続く

虚子少年の生活圏


 


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