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海からのプレゼント

海からのプレゼント
 虚士(きょし)が就学以前の(昭和30年以前)の話です。物心がついた頃虚士は数回、父自慢のポンポン船に乗って、浅海湾の数ヶ所の入江に石拾いに行った記憶があります。海岸にある石は大小様々ですが、角が取れて丸い物がほとんどでした。
 当時虚士の家で力仕事が出来る働き手は、祖父の虚太郎、父の金太郎、兄の忠雄、誠吾の四人と推定します。
 
 自宅の近くの海岸では、干潮時になると虚太郎じさんと兄達が、一定の区画を描きその周囲を、布状(溝)に表面の柔らかい部分を投鍬とスコップで掘り上げて行きました。
 その後、山から樫の木を生木のまま切り出し運んで、溝に並べ敷き詰めて行きました。この時点では虚士には何をするのかさっぱり解りませんでした。
 
 満潮になると、ポンポン船を近づけ、積み込んだ石を樫の木をめがけて投げ込みました。
 そして潮が引いたら、虚太郎じさんがその石を整理して並べて行きました。たぶんこの作業を相当期間繰り返したのだろうと思います。
すると、石垣の形が見えて来ました。虚士はここでやっと埋め立て工事をしていると気づきました。樫の木並べは基礎工事だったのです。
 
 それからも、ポンポン船で石の他に、砂利、砂も、もっこに入れて二人で担ぎ収集しました。
虚太郎じさんと従兄達は来る日も来る日も、石垣積みの作業を続けました。
 
 埋め土はどこから持って来たか記憶にありませんが、たぶんリヤカーでどこかの山の土を運んでき来たのだと思います。気の遠くなるような作業だったのではないかと想像出来ます。
 
 かくして新しい土地が誕生しました。虚士の一家は、ここを「開き」と呼ぶようになりました。
終わり
(この話は実話に基づいていますが、細部の記憶は怪しいです)
 

新土地完成

 追記、当時は他家もこのように埋め立て、宅地、畑等に利用していました。集落を見渡してみると、海岸付近はほとんどこのようにして出来た土地であることに気づきます。道もありませんので、民法で保証されてるように、他人の土地を通ってしか行けない土地が多くあります。
 大正10年に施行された公有水面埋立法によると、埋め立て許可は、港湾、漁港管理者に権限があったようですが、昭和48年に改正されています。
当時、祖父は魚業の権利を保持して、網干し場にも使用していたので、その辺の事情は良く知っていたのだと思いますが、今となっては闇の中です。
 現在は、この埋め立て地の先は、港の整備工事で埋め立てられ、石垣が地表面の境界として並んで見えます

虚子少年の生活圏


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