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『講義ウクライナの歴史』読んだ

旧ソ連シリーズまだまだ続く。

今回読んだのはこちら。

三浦清美、浜由樹子、松里公孝、高橋沙奈美などウクライナ戦争以降に一般人にも知られるようになった論者による連続講義である。

キエフ・ルーシ、タタールのくびき、ポーランド=リトアニアの支配、ロシア帝国の支配、ロシア・ハプスブルク・プロイセンの三つ巴の時代、ロシア革命、ソ連解体、ロシアとの角逐などなど、必要な論点がコンパクトにまとまっていて大変良い。

例えば松里公孝氏の『ウクライナ動乱』はおすすめだが、クソ長くて読む気がしないという人もいるだろう。

しかし本書では、ソ連解体後のウクライナの政治の蹉跌について、エッセンスを抽出してある。

他にもウクライナ正教会の弾圧については知らないことも多かったので、これは高橋沙奈美氏の『迷えるウクライナ』を読んで、別に読書ノートを作成することにする。

またポグロムに関与したのはウクライナナショナリスト、ロシア白軍などが主であって、ボリシェヴィキはあまり関係なかったという。階級対立を民族対立と混同してはならないという、極めて正当なイデオロギーによるものである。またウクライナ人に身内を殺された恨みから、ボリシェヴィキに参加したユダヤ人も多かったらしい。
独ソ戦時のホロコーストについても知らないことが多く、これも成書を読んだ後に読書ノートを作成することにする。

ウクライナ・ロシアの歴史とユダヤ人は現代に至るまで非常に深いかかわりをもっているのであった。

そういうわけで以下は備忘録である。


中世のウクライナ

現在ウクライナと呼ばれている地域の歴史を概観すると、多様性に富んだ国であることがわかる。それは政治的に非常に難しいということなのだが。。。

宗教的には、正教、カトリック、ユダヤ教、イスラム教の端境に位置していた。支配的となったのは正教だが、ビザンツ帝国は宗教改革を経ることなく滅んでしまったので、聖俗分離、学問と宗教の分立が不十分なまま近代を迎えたのである。ロシア正教会の主教がプーチンの蛮行を称賛する姿は、我々には受け入れがたいものがあるが、彼らにとっては自然なのかもしれない。

ビザンツ帝国はローマ・カトリック教会に比べて言語に関して寛容であった。後者はヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語による伝道しか認めなかったが、前者はそこにこだわりはなく、スラブ民族のために古代教会スラブ語が創り伝道したのである。慈悲深さという意味では、正教のほうがキリスト教の精神に近いだろう。

正教世界では皇帝はイエス・キリストの代理人であり、このような統治者観がまだロシアでは生きているのかもしれない。

しかしキエフ・ルーシの時代には統領による中央集権化は受け入れられず、モンゴルによる蹂躙を許すことになったのであった。

その後、モスクワを中心とする北東ルーシ、ガリツィアなどの南西ルーシに分かれていく。南西ルーシはやがてポーランド=リトアニアの支配下に入っていくが、これに反発した正教徒たちが黒海沿岸に作った共同体がコサックである。

黒海北岸にはタタール人が作ったキプチャク・ハン国ができて、彼らはイスラム教を信仰した。

またこのころにはバルト海と黒海に挟まれた地域には多数のユダヤ人が住みついていた。

近世のウクライナ

南西ルーシにはハルィチナーヴォルイィニー公国ができるが、やがてポーランド=リトアニアに支配される。

1569年にポーランド王国とリトアニア大公国は同君連合となるが、このときにリトアニア支配下にあったウクライナの多くが、ポーランドに移管された。このさいに決定されたポーランドとリトアニアの国境が、現在のウクライナとベラルーシの国境とほぼ重なっている。つまりこのルブリン合同によってウクライナとベラルーシの境界が決定されたのである。当初は言語的にも宗教的にも意味のなかったこの境界線が、近代以降に民族を決定する重要な意味を持つようになった。

この時代には他に、キプチャク・ハン国の後継国家クリミア・ハン国がオスマン・トルコの宗主権のもと存在感をもっていた。またコサックもポーランドにとって脅威だった。

さらに宗教改革によって失った領域を補填しようとカトリックの東進もみられた。これが1596年ブレスト合同として結実する。ポーランドの支配領域に住む正教徒がカトリック化したのであった。ローマ教皇の権威を認めるが、典礼は東方正教式でおこなうユニエイトと呼ばれる人々である。

ウクライナは困窮するポーランド貴族が植民することで場所でもあった。これに反発したのがフメリニツキーの乱である。ただしコサックも一枚岩ではなく、モスクワ寄りとポーランド寄りで反目があったようだ。だからペレヤスラウ協定によってウクライナが自主的にモスクワの支配に服したとするのは、単純すぎる見方である。
またウクライナでは歴史的英雄として扱われるフメリニツキーだが、ユダヤ人にとっては迫害者らしい。

とはいえ1667年アンドルソヴォ条約により、ロシアは左岸ウクライナとキエフを手に入れた。つまりウクライナは東西に分割されたのである。

しかし東西の軸だけではなく、北方のスウェーデン、南方のオスマン・トルコの影響も無視できないが割愛。

帝国主義の時代

18世紀になるとこのような多様な勢力は整理されていく。ポーランド=リトアニアはスウェーデンに圧迫されてバルト海の覇権を失う。また北方戦争に敗れたスウェーデンも脱落。スウェーデンと共闘したコサックも力を失い、ロシアに従属するようになる。

露土戦争に勝利したロシアはクリミア半島など黒海北岸を支配する。右岸ウクライナもポーランド=リトアニア分割の過程でロシアに吸収されていく。

西ウクライナはハプスブルク帝国の支配下に入った。この地域は紆余曲折を経て第二次大戦期にウクライナの領域になった。

ポーランド=リトアニア分割以降、ハプスブルク、ロシア、プロイセンの同盟関係は19世紀末まで継続し、それぞれの帝国にはポーランド系、ウクライナ系、ユダヤ系などの多様な住民が包摂されることになった。これがこの地域で西欧的な中央集権国家が成立しにくかった要因のひとつとされる。

ロマノフ朝は帝国西部でのポーランド系住民による二度の大規模な蜂起を制圧したのち、脱ポーランド化を進める。
この時期にキエフを中心とする「小ロシア」では、タラス・シェフチェンコらがキリロ・メトディ団を結成するなど、地域主義が育ちつつあった。
ロシア帝国としてはこの地域主義をポーランド文化へのカウンターとして利用したかったが、自分たちに反抗する勢力になりうることも認識していた。

結局、ポーランドの反乱分子に利用されることを恐れて、19世紀後半に二度にわたりウクライナ語禁止令をだしている。
小ロシアは、同じ東スラヴ人として帝国主義化するものと、分離主義に走るものと、二極化したのであった。

ハプスブルク帝国のウクライナ人(ルテニア人)は、ロシアと異なり支配民族と同族とはみなし得なかった。なのでポーランド系とウクライナ系を対抗させることで、統治することが可能であった。

ロシアはルテニア人を支援し東スラブ系三民族主義を育てようとするが、次第に帝国国境を超えたウクライナ民族を構想するウクライナ主義が優位になるのであった。国境を跨ぐ民族的想像力に、シェフチェンコらのウクライナ語による文芸運動が大きく寄与しているのは言うまでもない。

つまりこの時代にようやくロシア帝国およびハプスブルク帝国の両方で、ウクライナ民族主義の萌芽をみることができるのであった。

またクリミア戦争を契機としてウクライナ東部で工業化が進んだこともこの時代の特徴である。

オデーサなどウクライナ南部にユダヤ人などが多数移住してくるのもこの時代。

帝国の崩壊

20世紀に入ると大衆の動きが活発化するが、ロシア帝国でもハプスブルク帝国でもウクライナ民族主義者は独立よりも帝国内での自治を目指した。これはこの時代の民族主義運動の特徴である。

独立をめざすと帝国との独立戦争を覚悟しなければならず、これに大衆を動員するのは困難だった。また独立して外部勢力と交渉、対抗するよりも、国家への忠誠を保ちつつ一定のオートノミーを確保できれば十分という合理的な考え方が支配的だった。

しかし帝国支配が揺らげば条件は変わる。第一次大戦期に東西ウクライナ統一が具体的に構想され、ロシア革命のどさくさのなか、第一次ウクライナ中央ラーダが成立、ペトログラードの臨時政府に自治承認を迫る。

10月革命ののち、中央ラーダはウクライナ人民共和国の建国を宣言した。ボリシェヴィキはこれを認めず、赤軍はウクライナへ侵攻する。ウクライナは軍事支援を要請するため、独立を宣言した。

こうしてドイツ・オーストリア軍の支援のもとウクライナのほぼ全域を支配下におさめる。ソヴィエト・ロシアとドイツ・オーストリアは講和条約を結び、ウクライナの独立が承認された。しかしドイツはクーデタにより中央ラーダを倒し、傀儡政権を樹立したのであった。

しかし第一次大戦が集結し、ドイツ・オーストリア軍は撤退したのち、ウクライナは内戦状態に突入するのであった。ディレクトリア政権のもと独立を達成するが、ロシア白軍およびフランスの支援が得られず、ボリシェヴィキにキエフを奪われる。

ポーランドとの共同軍事作戦により一時キエフは奪還するが、ポーランドがソヴィエト軍にワルシャワまで迫られる危機的局面もあって、ボリシェヴィキ政権を承認せざるをえなくなる。ディレクトリア政権は孤立し、ウクライナの独立も終焉したのであった。

ドイツ・オーストリア軍撤退以降は、ディレクトリア政権もボリシェヴィキもロシア白軍も、広大なウクライナを統治することができず、小規模な勢力が乱立する暴力の時代であった。ポグロムが最も凄惨だったのもこの時期。

最終的にはソヴィエト政権がウクライナのほぼ全土を支配し、ソヴィエト連邦を形成するのであった。
ただし東ガリツィアはポーランド領、北ブコビナはルーマニア領、ザカルパチアはチェコスロバキア領になっている。

現在のロシアは、このような歴史から、ウクライナナショナリストを偏狭な民族主義であり、多民族共生を実践してきた我々とは違うのだと批判している。これをウクライナ侵攻を正当化する屁理屈というのは簡単だが、当たっている面もないわけではないのだと思われた。


ソ連の中のウクライナ

レーニンらがロシアの実権を握ったとき、ロシア帝国内には自治的な地域政権が乱立していた。諸民族のエリートたちは、世界革命を標榜するボリシェヴィキにはついていけず、分離独立を志向していた。

民族よりも階級対立を重視するボリシェヴィキだったが、反共産党勢力とも戦わねばならなかったので、民族主義者と妥協して連邦制を取り入れるほかなかった。
こうして小規模民族に自治共和国という地位を与えることでロシア社会主義連邦に取り込んでいくのであった。

しかしウクライナなどの一時的にはではあれ独立していた領域を自治共和国に格下げすることはできず、ソ連を構成する共和国として遇したのであった。

ソ連の工業化政策がうまくいくようになると、民族的政策は反動的であるとして弾圧された。
工業化と反対に、農業集団化は農業の生産性を大きく毀損し、いわゆるホロドモールの原因となった。ただしスターリンはウクライナの弱体化をはかって狙い撃ちにしたわけではない。

第二次大戦の開始時にポーランドから東ハルィチナを取得し、ウクライナに併合。またルーマニアから北ブコビナとオデッサ州南西部を獲得。
独ソ戦でウクライナはドイツに占領されるが、ソ連は奪還する。大戦後には旧ハンガリーのザカルパチアも併合。

ここにようやく現在のウクライナの領域が完成するのであった。かように複雑な経緯を経てきたウクライナには多様な民族が存在するし、歴史認識問題も厄介になる。

イデオロギー化しやすい話題は、ホロドモールのほかに、ナチ協力者問題がある。右寄りのウクライナ民族主義者には、ホロコーストに加担したものがそれなりにいたと推測されている。

そのような民族主義者の団体を率いたのが有名なステパン・バンデラであり、ウクライナでは英雄ということになっているが、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人にとっては自分たちを排除しようとした極右である。

さらにロシア人にとって第二次大戦、つまり大祖国戦争は世界をナチズムから解放した非常に誇らしい記憶である。であるのにナチ協力者と考えられる人物を英雄扱いするのは、全くをもって許しがたい、、、というわけである。まあ征服される側にとっては、ナチもソ連もいっしょなのだが。


このようにロシアがウクライナ侵攻を正当化する理屈はいろいろあるわけで、このたびの戦争はもはや話し合いで解決するとは思われないのであった。


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