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Museu Picasso──バルセロナのピカソ美術館
スペインの偉大な画家の絵は、どれも無言のまま語りかけてくる──晴れたり曇ったりするなか、予約していたピカソ美術館へ家族三人で向かった。ピカソの『El Piano(ピアノレッスン)』という絵の前で妻は立ち止まって、しばらくじっとその絵を見つめていた。
*
祖母の母国、スペイン。11月上旬からスペインに赴任している。いまのアパートが見つかるまで間借りさせてもらった叔父に、「予約していないと並ぶ羽目になる、公式サイトで予約が良い」と聞き、そのとおりにし、美術館は午後見学することにした。
散歩がてら午前中、アパートを出ると、僕らの頭上には青々しい秋があった。
時間まで余裕があったのでバルで大きなハンバーガーを食べる。もうすぐ三歳になる娘の顔くらいの大きさだ。娘は、その大きなハンバーガーに目を輝かせながらぱくついた。
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大人でも結構なボリュームだが娘がかぶりついて食べていた。
数日前に、妻たちは一度来たことがあるようで、
おいしいから、行こうと教えてくれた。
「わたし、教室を見つけたから体験レッスン受けようと思うの」
「定期的に第三者に教えてもらうのもいいね、でも、あんまり高いのは無理だよ」
彼女はスペイン語もカタルーニャ語も話せない。
できるだけ話せるようにならないと生活の中で困るだろう。
カタルーニャ州の独立のデモ──現在は独立側を票欲しさで味方に付けた大統領の再選などあり、それに納得できないとするひとたちのデモがある──とかもあり、まったく理解できないのは、あぶない。それに、娘が誕生日を迎えたら、幼稚園だって行く。
そしたら先生との連絡だって大変だ。───おそらく、彼女は彼女なりに、ここでの生活に馴染もうと、さっそく思ってくれたのだろう。
カタルーニャはこの2000年のあいだに、何度かカタルーニャ語の禁止や文化の弾圧を受けた。
現代ではスペイン内戦を機に誕生したフランコ独裁政権(1939-1975)が、国内の文化や自治権を抑圧した。その際、カタルーニャ語や文化がふたたび禁じられた。
スペイン内戦といえば、内戦で亡くなった僕の大好きな詩人、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、『一九八四』の著者、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』や、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』が有名だ。
El teatro es la poesía que se levanta del libro y se hace humana.
Y al hacerse humana, habla y grita, llora y se desespera.
演劇とは、本から生まれて人間になる詩である。
そうして人間になることでやることといえば、語り、叫ぶ、叫び、絶望。
人間的魅力にみちた兵士たち,無階級的な社会状況――一九三六年末,ファシストと闘うために,内戦下のスペインへやってきた著者(一九〇三―五〇)が魅せられたものは,一筋の燃えさかる革命的状況であった.アラゴン戦線やバルセロナ動乱での体験を中心に,スペイン市民戦争の臨場感あふれる貴重な証言となったルポルタージュの傑作。
1937年のスペイン内戦でナチス・ドイツとイタリアの空軍がバスク地方の町ゲルニカを爆撃し、多くの市民が犠牲になったことに強い影響を受けたピカソ。彼はこの出来事に激しく反応し、その悲劇を描くことで戦争の破壊力や無差別性を表現した。
「戦争は芸術の敵」
という言葉を残すほど、ピカソは第一次、第二次世界大戦中、反戦の側に立っていた。
さて、経済成長はあったものの、権威主義的支配が続き、国際的にも孤立。フランコの死後、1978年に憲法が制定され、スペインは民主主義へ移行。しかし、カタルーニャ独立運動などの対立がいまも政治的不安定さへの影響を与えている。
「それが、もう、踊ってきたの」
「踊り?」
「フラメンコの教室あったから。そろそろ美術館へ向かいましょ」
そう言って、ハンバーガーで口をいっぱいにし、頬をハムスターのようにふくらませた娘とオーレッと言い、手を合わせ、ぱんぱんっとした。
「道をもう一度確認するから、ちょっとまって」と僕が言うと、「世界中でいちばん有名な画家の美術館ならすぐ見つかるわよ」と言いながら、彼女は席を立った。
妻の大胆不敵な行動力には驚かされることがしばしばある。観光客相手のフラメンコ教室を見つけ、ぶらりと立ち寄り、娘と体験レッスンを受けてみたそうだ。伝統芸能と語学レッスンというのは案外理にかなっているのかもしれない。
彼女の説明では、ダンスが目的であり、語学が目的ではない。あくまでも語学学習は、目的を遂行する上での手段となる。つまり、語学学習のモチベーションによらず、勉強できる可能性がある──少々飽き性なところのある彼女、フラメンコに飽きたらどうするのだろうか。
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館内にはピカソ生前の写真やスケッチの数々、青の時代のいくつもの絵が展示されていた。
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ピカソ15歳のときの作品
油絵
一八九六年製作
印象深かったのは『ラス・メニーナス』シリーズだ。
一九五七年、七十六歳のピカソはたった四ヶ月のあいだに五十八枚にものぼる連作を描いた。
『ラス・メニーナス・シリーズ』は、ピカソによるベラスケス『ラス・メニーナス』脱構築のようなものを感じたりもした。
このシリーズを製作した年、スペインで何があったのだろう、と気になって調べていると、脱植民地化の潮流のなかで忘れられた戦争、イフニ戦争(フランス・スペインとモロッコの戦争)があった。
※ピカソ美術館公式サイトで全作品が閲覧できる
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『El Piano』
ベラスケスの絵にはピアノは描かれていない。
ピカソはベラスケスの『ラス・メニーナス』右側のふたりの小人と犬から
楽器の存在を感じ取り、それを表現したとも言われているようだ。
一九五七年製作
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娘はこの絵がいちばん気に入ったようだった。
『Infanta Margarita Maria』
一九五七年製作
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『El Piano』のモチーフとなった最右側の小人と犬がとても印象に残る。
一九五七年製作
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王女について
最初左向きになっていた痕跡が見つかっている。
また1734年の火事で損傷した後 、 左の頬のほとんどが 再塗装された。
製作:一六五六年
所蔵:プラド美術館
Wikipediaから
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*
「そうだ、『ゲルニカ』どこか聞いてみて」
と意を決したかのようにして彼女は、『El Piano(ピアノレッスン)』から離れて、言った。
「ゲルニカはバルセロナの美術館ではなく、マドリードの美術館に展示されているんです。国立ソフィア王妃芸術センター美術館に保管されています」
と、スタッフの男性が静かに教えてくれた。
『ゲルニカ』を観たいと思った。こんな時代だからこそ、三人で観たかった。
日曜日、晴れときどき曇り──帰りに、鍋やフライパンなどの日用雑貨と食品を買い込み、自宅のアパートに戻る頃、娘も疲れたのだろう。ご飯をたべないまま、夢の国を彷徨っているようだ。
『El Piano』を思い出すとルビンシュタインの演奏するBrahms Intermezzo Op.117 No.1が流れてくるような錯覚がした。小人はあのピアノで何を王女のために弾いたのだろうか。
日が暮れると寒い。
この街にも冬がやって来る。
参考文献:
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