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ミラボー橋のふたり

星々たちが姿を消し緑濃く霧雨が降る真夜中、深い艶のある朗読で僕は目を覚ました───音のする居間へ行くと、薄明かりの中、祖父がぼんやりとしながら、レコードをかけていた。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
私は思い出す 悩みの後には
楽しみが 来るという
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る

手に手を取り 顔と顔をむけ合おう
こうしていると我等の腕の橋の下を
疲れ無窮の時が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る

日が去り 月が行き
過ぎた昔の恋は 再び帰らない
ミラボー橋の下を セーヌ河が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amour faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours apres la peine
Vienne la nuit,sonne I'heure
Les jours s'en vont,demeure

『ミラボー橋』 詩 アポリネール 訳 堀口大學

なんだ、おじいちゃんか……。まだ起きてたの?
と、僕が声をかけると、祖父は照れながら振り返り、アンプの音量を小さくした。

こんな湿度だと霧が立ち込めるだろうなと思ったら、なんだか、久しぶりに『ミラボー橋』聴きたくなってね───今から五十年近くむかし、学生運動やその弾圧から大学の医局に嫌気がさして、西ドイツへ留学した祖父は四年ほどして、スペイン人の祖母と結ばれたあと、彼女を連れて帰国し、生活のために、しばらくまた大学病院に勤務した。

当時、三鷹に住んでいた祖父母は、月に一、二回、夫婦ふたりで息抜きに、夕暮れの吉祥寺で待ち合わせた。

今でもサンロードってあるのかな、サンロードと反対側の南口に出るとすぐに白い二階建てのビルがあってね、その頃はシャンソン喫茶だの、ジャズ喫茶だの流行ってたんだよ。俺が解剖実習でストレスにもなってた時期だったかな、と祖父が懐かしそうに話出した。

解剖?と僕が聞くと頷き、ある日の解剖実習の話を聞かせてくれた。

解剖用の死体がなかなか集まらなかった。
身元不明の死体にホルマリンを注入して、アルコールの入ったビニールの中にご遺体を詰めた。
解剖したあと、身元がわかれば遠くは北海道までお骨を届けたりもした。
前科10犯の男の死体が名古屋の中村区で見つかり、大学に届けられた。学生実習でその男の頭を開けると右側頭部上が内出血していた。砂袋か何かで殴られたのだろう。そういうのばかり実習を任せられて、ストレスに少しなってたんだ。おばあちゃんが、吉祥寺に出来たばかりのシャンソン喫茶を見つけて、月に一、二回行こうと誘ってくれたんだ。金子由香里が目の前で歌ってくれて、歌より語りがやっぱりいいんだな。詩がとてもよくてね。ワインだとかちょっとした食事が付いて、5、6千円だったかな。

そう言い終わると、祖父は『ミラボー橋』の出だしを口ずさんでいた。

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
私は思い出す 悩みの後には
楽しみが 来るという
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る

1975年かそこらの祖父母の思い出の場所───シャンソン喫茶ベル・エポック。

まだベル・エポック、あるのかな?、と尋ねられて僕はスマート・フォンで検索した。

2009年に閉店したみたいだね、シャンソン喫茶なんて初めて聞いたよ、と告げると、少し寂しそうに笑いながら、吉祥寺も三鷹も小平も、だいぶ変わったんだろうな、とぽつりと言い、続けた。

ミラボー橋で思い出したけど、昔おじいちゃんが子どもの頃、戦争終わってすぐ、喜平橋渡った先の中学校に通ってたんだ。

戦争で負傷し指と足を不自由にした曽祖父は終戦後、小金井にある研究所に勤務し、鎌倉から通うにはあまりに負担であったため、勤務地に近い小平市に新居を構えた。

物のない時代で、皆貧しかったんだろうな、何しろお米なんてないからさつまいもばかり食べてた。小学校上がるとき靴が買えなくて近所のおじさんが譲ってくれたりね。

祖父と曽祖父

中学校に上がるとき、バッグが高くて買えなくてね。大きいおじいちゃんが陸軍のとき使ってた革のバッグとカーキ色の雑嚢をバラしてミシンかけて、俺のバッグに作り替えてくれたんだよ。でも、それが恥ずかしくってしょうがなかった。大きいおじいちゃんは兵隊で指飛ばされたでしょ、それでも器用でね。一生懸命作ってくれてたのを思い出したな───ミラボー橋じゃなくて喜平橋だけどさ。

ミラボー橋───1912年、詩人アポリネールは彼のミューズであった画家、恋人マリー・ローランサンと破局したあと、『ミラボー橋』を書き上げ、1970年、詩人パウル・ツェランはミラボー橋で自殺した。

おじいちゃんはセーヌ川に行かなかったの?と僕は聞いてみた。

研究だの学会だので忙しかったからパリなんて行く暇なかったよ───その頃祖父はハイデルベルクで恋に落ちていたようだ。

電波研究所(第二次世界大戦中の第五陸軍技術研究所、戦後、郵政省電波研究所、現在の国立研究開発法人情報通信研究機構)のとこで大きいおじいちゃん、戦争の終わる間際まで高射砲打ったりもしてたんだ。そこに大きな防空壕が残ってて、小さい頃よく鬼ごっこしたりしたな。電波研究所の中に五十メートルくらいありそうな高い鉄塔があったの。鉱石ラジオ作ってたから、あの高いところにアンテナさしたら良く聴こえるんじゃないか?と思ったわけ。それで登ってたら、大騒ぎになってね。おじさんたちが、〇〇さんとこの坊ちゃんが大変なことになってる、て引きずり降ろされて。そしたらゲルマニウム・ダイオードをあるおじさんが俺のラジオに付けてくれたのよ。そしたらとても良い音に変わって、あれは忘れられないな。まあ、中学は、そこの近くから自転車で喜平橋まで行かないといけなかった。その自転車がまた古くてねぇ……。大きいおじいちゃんが捨てられてた自転車を拾ってきて、動かなかったやつを修理してくれたんだ。それがまた、前輪にも後輪にもタイヤのカバーが付いてなくて、ポンコツだった。でもそれで中学まで三年間毎日通ってね。大きいおばあちゃんが内職してたりして、その品物が出来上がると、その自転車で三鷹まで届けに行ったり。周りはみんな畑だったけど、今変わっちゃってるだろうな。

レコードの針を上げ、あんまり大きな音立ててるとおばあちゃん起きちゃうからそろそろ寝るよ、おやすみ、と祖父は穏やかに言い、部屋を後にした。

アポリネールの詩が僕の心を静かに揺さぶる夜、僕は夕暮れのミラボー橋で手を握りしめ合う祖父母の若かりし姿を想像した。

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