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解放区・俺 厨ニ病金魚のソナチネ

経緯

解放区・俺 厨ニ病金魚のソナチネ
ある日、厨ニ病と妻に言われ、音楽付きのお話をして欲しいと頼まれたときの即席のショートショート

作中に出てくる音楽


カラヤン指揮 ベルリンフィル
カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲

縦書き版

第一楽章 Moderate 


 連日の猛暑の中、夕闇が水平線をぼやかしながら空を群青色に覆い始めるころ、トラックの運転席の窓を開けると、湿気を含む海風が全方位から疲れ切った身体を通り越して行く。海岸線沿いにある踏切を横切り、少し狭い坂道を走るといつもの我が家が見えてくる。トラックを停めて、作業場に向かう。作業場のペケ台の上に外した腰袋とさしがねを置き、木屑の残る木材の上に座り、しばらく呆然と停めたトラックを眺めた。蝉が相変わらず煩く鳴き、時折青臭い草の匂いが作業場にも流れ込んできた。iPhoneを横に置いて、カラヤン指揮ベルリンフィルのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲を流した。

 目を閉じると瞼の裏側に俺の国が広がりはじめる。うだるような暑さの中で向日葵畑のプリントされた金魚鉢の中で大の字になる国家元首の俺。俺はどこにも属さず、「解放区・俺」という金魚鉢でできた国のどこまでも自由な金魚の国家元首なのだ。

 そこまで想像していたら、開けっ放しのシャッターの向こう側から妻が下駄をカランコロン鳴らしながらこちら側にやってきた。おかえり、今日どうだったの?暑かったわよね。そう言いながら彼女は俺と目が合うと、じっと俺の瞳を見つめた。鳶色の瞳は窓際に置いてある金魚鉢のようだった。その中に映り込む浅黒く大きな窪みに眠そうな瞳の俺は、まるきり疲れ切っている。

 唐突に彼女がケタケタと笑い出した為、金魚鉢の妄想はそこで失われた。どしたん?どうもしないわよ、ただ、少し聞きたいことがあるのを思い出して思い出し笑いしちゃった。何?聞きたいことって。あなた最近何か隠してない?何も隠してないよ。俺は咄嗟に小さな嘘をついた。そっか、あのね…、少し聞いてもいい?いいよ。あなた厨ニ病?俺はその質問で動揺した。

 俺は、彼女にはこうした俺のくだらない文章だとか、読んだ本の感想を書き続けていることだとか、哲学書の話だとか、ほとんど言っていない。万が一彼女に見られてもGoogle teacherに頼らなければきっと全部内容を知ることもないし、それで彼女がもしも嫌な気分になるなら全部ちゃんと説明しながら俺のハイパーミラクル思想を語ってあげられる自信がある。それなのに何故か俺はそのとき動揺していた。

 何で厨ニ病やと思ったん?昨日の夜、あなたインスタに「何もかも投げ出して立ち止まりたくなる」って自撮りと一緒に投稿してたでしょ?だから、壊れちゃったかなって心配になったの、でもあなたってそういうタイプじゃないなーって思い直して、少し考えただけ。俺は厨ニ病じゃなくて、ロマンティストやし。はいはい、じゃあ今度、音楽付きの厨ニ病的なお話して。

第二楽章 Adagio


 個人的なインスタグラムのアカウントにたしかにそうした内容を投稿した。実際、あまりの連日の猛暑で木に留まる蝉のようにただひたすら立ち止まりたくなることがある。建築士の試験、神戸の工務店から湘南の家業の建設会社へ転職し、結婚、娘の誕生、施工管理の試験、怒涛のような二年間。11年大工をしていて、ニ月に最後の大事な資格試験が終わり、一区切りついた今年。燃え尽きた訳でもなく、でも他の言葉が見当たらない。コロナ禍、あまりにも環境が変わり、その中でも自分自身を見失いたくないという極端な焦燥感も時々あった。だから自分自身の新しい視点を増やしたくて、恐らく読書し続けているというのもあるかもしれない。妻にとってはそんな投稿がきっと、陰鬱な俺の顔と相まって、鬱々と屈折した俺の心の内に見えたのかも知れない。壊れたくても、壊れたら明日から彼女も娘も路頭に迷う。だから壊れられない。たしかに俺は厨ニ気質もあるしそこは否定しない。心配させると思い直して消したんやけど、ごめんな。でも何でそんな笑うん?わたし自分でもわからないけど、あなたの顔見てたら笑いが止まらなくなっちゃった。そう言いながらケタケタとまた笑い続け、でも、彼女は安堵からなのか、生理前だから情緒不安定なのか、泣き出していた。彼女の顔をタオルで拭いてあげながら、鳶色の金魚鉢を見つめると、その中に永遠にリピートされるカヴァレリア・ルスティカーナに合わせて安堵の水を泳ぐ尾腐れ病の金魚がいる。痛みで時々もがくと、水面の波紋が広がり、その波紋の小さな衝撃は金魚鉢の内側に水滴を残した。それでも金魚は金魚鉢の世界の均衡を崩さぬようにひたすら道化のように溶けた尾を振って素敵な二人の女の子に笑い続けてもらいたくて、ぐるぐると泳ぐ。

第三楽章 Presto


 早く家に入ろうよ、ご飯も炊けるよ。彼女は、そう言うと、勢いよく立ち上がり、下駄をまたカランコロン鳴らしスキップしながら家の中へと戻っていった。突如として憂鬱な気持ちと焦燥感はその音に掻き消され、カラヤンの指揮棒も止まっていた。

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