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本当の意味で「ダメなところを認める」為に必要なこと

あなたがどれ程に優秀な人間でも、必ずミスをします。それは、どんなに優秀で、見かけ上は完ぺきに見えている人間でも一緒です。
どれほど『完璧な自分』を取り繕う努力をしても、それは無理なのです。

そして、小さな失敗をするたびに「私はだめだ」「僕なんか居たらだめだ」「なんで生きてるんだろう」「なんでこんなに無力なんだろう」「私だけがミスをする」
そんな風に、重くとらえて自分を否定していませんか?

その習慣、実はおさらばできるとすれば、相当に生きやすいはずです。
これからは、小さなミスや失敗を恐れずに挑戦できるようになります。毎日の生活も、より明るく楽しいものへと変貌していくはずです。

自分だけの唯一無二の人生を歩いて、
誰にも依存しない、生きやすい最高に幸せで楽しい毎日を送りましょう。

今現在、あなたは「生きづらさ」を感じていませんか?
それは、「呼吸ができないほど」なのか、「漠然と」感じるものなのか。それとも、「何となく感じる」という程度なのでしょうか。もしかしたら、「世界に存在を否定されている」と感じる人も、いるかもしれません。

でも、その生きづらさは改善できる可能性があるのです。
「気の持ちよう」などではなく、しっかりと自分自身を知っていく。自分を知ったうえで、効果のある手段を適切に踏んでいくことで、解決できるのです。

もう、「なんで自分が生きているんだろう」と、本気で悩まない為に。自分を過小評価して、先の見えない道に迷い込んでしまう事がないように。
今感じている、「生きづらさ」というものを、減らしてみませんか?

今回のnoteは、「失敗できる自分を認める」ということがテーマです。
もしも、小さな失敗であろうと何かしらのミスをした際に「自分なんて」と思ってしまう人。そういった方がいれば、是非とも読んでほしいです。

失敗を恐れて、挑戦できずにその場に足踏みしている。その毎日にすら、息が詰まるような、生きづらさを感じていませんか?そして、どう頑張っても失敗する自分に、「僕なんて」と思っていませんか?

そんな、どうしようもない生きづらさは、今日でお別れしましょう。
「失敗してしまった。だから、自分はだめだ」となるのではなく、
「あははっ、失敗してしまった。次、頑張ろう」と、失敗を反省しつつも、次に生かせるような、前向きな思考を手に入れましょう。

これは何も、「ポジティブシンキングを手に入れろ」という、話ではありません。ただ、当たり前の現実を受け入れて評価して、「自分を受け入れる」という作業なのです。

もしも、貴方が本気で「生きづらさ」を感じているのであれば、
このnoteを最後まで読んで、その悩から解放されてくださいね。


そも「完璧」な自分とは何ぞ?


さて、皆さんは「自分は失敗してはいけない」という感じに、思い込んでいませんか?それは、「完璧でなければならない」という、ある種の強迫観念のような、思い込みを発生させてしまいます。

例えあなたが東大卒でも、会社のエース社員でも、インフルエンサーで誰かの憧れの的であっても。そうした、「完璧」という思い込みに囚われていては、一挙手一投足が不安になり、何も行動できません。

そもそも、なぜ「自分だけ」が失敗も何も許さないんでしょうか?

「もしかしたら批判される」を心理的に恐れている

日本人は優しいというが、それはどういう意味で優しいのだろうか。不思議なもので、日本人は困っている人がいても、基本的に手を差し伸べない民族だ。僕は、少なくてもそう感じている。

確かに、「困っている人がいるな」と気が付く人もいるだろう。でも、それ以上思考や行動が先には進まない。つい、「誰かが助ける」「助ける自分が変」なんて、『他人の目』を気にした行動をしていませんか?
それは、非常に不可解で不思議なことです。

行動しなくても「助けなかった自分」に自己嫌悪して後悔する。
行動すれば、「批判される可能性がある」だけで「困っている誰か」は確実に救われる。

この、「批判される可能性がある」ということを酷く恐れているように思える。何故そのような、「行動を阻害する思考」が当然で、当たり前になっているのだろうか?

とはいえ、僕自身はこの「行動できない」ことに対して責める気はない。だって、「それが当たり前」だと思って誰もが生活しているのだ。酷く非常で、冷酷で、だれも手を差し伸べてはくれないという現実。優しさも、何もないが、それが「当たり前」なのだ。「自己責任」という言葉を、安易に押し付けて強要している社会こそが、恐らく今の日本人が作りたかった社会なんだろう。

「見える」という病

困っている誰かが、見えてしまった。その時に、少なくとも反射的に、「助けたい」と思ってしまった。そう思ったら、個人的には行動してほしい。
そのほうが、スマートで誰の為にでもなる行動だからだ。

ただ、それは「可視化された社会」では、大きな歪みを生み出す可能性がある。SNSでその姿が拡散されて、賞賛や謂れのない否定の言葉を投げられる、ということだ。

本来、その場にいて同様に手を出した人同士でしか、否定や改善の言葉を使うなんて、できないはずだった。そこで、「行動も何もしないような人間が、勝手に喚いた所で取り合う必要性もなかったから」である。
ただ、その行動などの状況や結果だけが、ネット上を独り歩きして、「可視化」されると、好きなように発言して、否定して叩き合う。

面白いことに、素晴らしい行動でも「誰かが叩く、文句を言って傷つける」ことは、当たり前であると認識している。この、『歪み』というのが、本当に「見える」ようになり、多くの人の行動が阻害されているように感じる。

なんでもかんでも共有されて、「見える」ようになった現代。それは、いろんな人の「歪」を可視化し、根付いてしまった。その病気ともいえる事実に対して、どう立ち向かっていくべきなのだろうか。

最強なのは、気にしないこと

個人的に「アンチは放置」という、当然のルールが最強だと思う。僕も、できるだけ、このルールを推奨したいし、最強メンタルを持っている人には進めよう。

ただ、「一つの否定」で深く自分を否定された感情になり、抱え込んでしまうことも事実だ。現実では何も言わない人でも、ネット上では好き放題、やりたい放題していることもある。そんな、「心無い一言」に深く傷つき、再起不能や、空白の数年が生まれてしまうこともある。

「気にしなかったらいい」ということは簡単で、当然だ。でも、それができないし、本気で悩むから人間なんだ。では、「気にしてしまう」ことを前提に考えたとき、心の弱い僕たちは何をすることができるのだろうか?

現実的にできることなんて、本当に限られている。自分にできそうな手段を探してみるしかない。

  • 自分探しの旅をする

  • ネット環境から距離をとる

  • 自分の中で立ち向かう

  • 表立って相手取る

僕にとっては、これくらいの選択肢が現実的だと思う。「自分という存在を深く否定された」となると、そも現状維持をしていると、不幸になる。
それは、自分で自分を否定し始めるからだ。

だから、「自分自身」を見つめなおす、よい機会だ。当てもなく、ぼ~っと電車にでも揺られて旅に出るとよい。できれば、ネット環境から離れて、誰も知らない土地、知らない世界に足を踏み込んでみよう。
そこには、貴方を否定する人もいなければ、下らない文句を言う人もいない。

自分の中で、誹謗中傷に立ち向かうこともできるだろう。時間がなければ、心の中でボロクソに反論して、思い切り反抗しよう。自分でも「僕は不要だ」と思うことがないように。そうではなく、「知るかっ!」といえるようになる。心の中で、どれ程あらがっても現実は変わらないし、現状は変化しない。ただの自己満足でしかないが、自己消化という意味では十分だろう。ただ、それで本当に消化できるのであれば十分なのです。自分で消化できていなければ、要注意です。
自分の中で丁寧に消化できなければ、上記二つのようにストレス源となった、環境や場所から距離を取りましょう。

正面切って、戦闘してみるのも手段です。ただ、この表立って相手取るときには「相手を傷つける」という覚悟が必要です。そして、その覚悟を決めて行動しなければなりませんが、相手もその覚悟がない場合があります。自分から攻撃しているのに、何か言われると「自分だけが被害者である」と思い込み発言する人もいます。そんな人たちに対し、「傷つける」覚悟を持たなければなりません。
思い切って、正面戦闘をする場合。それであれば、傷つける覚悟をしましょう。

完璧でなくとも、確固たる自分を持て

いずれにしても、自分が傷ついても大丈夫にするならば、「確固たる自分」を意識する必要があります。確固たる自分を持ち、行動していくには、意識的に自分の物語を紡ぎましょう。

その確固たる自分を持つために、「誰にも批判されない完璧な自分」を求める。完璧な自分でなくとも、「大丈夫」と思える自分を持ちましょう。確固たる自分というのは、「誰かに批判されても、揺るがない自分」です。それは、最終的に『自己肯定感を得る』ことに繋がります。

『完璧』なんて諦めろ


完璧であることを諦めた結果、「何もできない自分」というのが、僕たちの現実です。要は、「行動できない」し「失敗もできない」という環境です。

誰かに批判されることも、称賛されることも嫌います。目立つとそれだけで敵ができるし、何か問題があると、それだけで批判される。何かをすることは、常に危険を伴っていることを、長いインターネット生活で、学んでいます。

完璧を捨てて笑え

完璧な自分を諦めて、平穏を求める。その状況で、満足できるのであれば、本当に良かったんです。進歩もなく、進展もなく、誰からも見向き去れず、普通に現状維持を続ける。

その人生を選ぶと、「生きづらさ」が強くなります。それは、完璧を捨てたのではなく、「完璧を心の奥底で求めている」からです。現状維持とはいっても、自分に関係のないところで、行動を求められます。それは、日々の生活の中で感じることでしょう。仕事や勉強で、見える形で「できない自分」だけを可視してしまうのです。

本当の意味で完璧を捨てるには「未熟な自分」を認めて、受け入れるしかないのです。その先で初めて、貴方は自由で最高な毎日を得ることができます。

完璧を嫌えるようになれ

「完璧である」ということは、ひどく退屈で歪んでいる。才能も、努力も、研鑽も、何もかもが一切入る余地がない。
その人生を想像してほしいのだが、ひどく退屈だ。何をしても何も感じず、苦労もないが同時に喜びもない。

人によっては「それがいい」というだろうが、現実そうなった時に、耐えられる人はどれくらいいるだろうか?思考もせず、笑うこともなく、悲しみ慈しむこともない。完璧な存在であるということは、何もできるが何もできないことに等しいのだ。

都合の良い完璧を求めても、最終的に行きつくところは同じだろう。感情が理解できて、なんでも完全に熟し、誰かの苦労や努力の跡を褒めて、認めることができる。

ただ、本当にそんな人間いたとして「退屈」と戦うことになる。今、あなたが価値を感じて楽しんでいることは、すべて無駄になる。時間の浪費との戦いになり、その先にあるのは失意だけ。
そんな「完璧」、だれが本気で憧れるだろうか?人によっては、「苦労がなく悲しみもない」というが、そんなはずがない。

本当に完ぺきな存在がいれば、それはこの世界に最も絶望している人だろう。だからこそ、人は完ぺきを求めてはならない。
むしろ、完璧な自分を嫌悪して鼻先で笑い飛ばせる程度がちょうどよい。

完璧を笑った先に何を求めるか

本当の意味で完璧を捨てることができたら、次は自分を考えてみよう。この時に考えるべきなのは、「残念ながら現実は変わらない」ということだ。

何が言いたいかというと、「急激に自分の欠点や問題が治る」なんて都合の良い話はないということです。そのうえで、何が必要なのかを考えてみるべきだ。わかることは、「今の自分を認める」ということ。今の自分が改善の余地があり、望む自分の姿へ努力できることは、間違いない。

欠点がある自分を見て、欠点をあるままに自分を認めなければならない。それは、本当の意味で君が完璧という幻想を捨てなければできないのだ。完璧な自分を捨てて初めて、自分の欠点を見つめて愛し、認めることができる。

完ぺきというのは、甘えなのだ。それと同時に、自分を縛る鎖であり遅効性の毒である。その毒に、常に侵され続けていないだろうか?今一度、解毒薬を飲んで、解毒しなければならない。もしくは、のろいだろう。

「劣っている自分を演じる」「どうせダメなんだ、自分なんて」と表面上自分をあきらめて、取り繕う。そんな、呪いだ。その呪いを自分にかけ続けると、最終的に「自分なんてだめだ」と思い込むのが当たり前になる。
その習慣は、常に自分をむしばみ続けていく。最終的に、最高に面白い結末を、突き付ける。
「どうせ僕はダメな人間だから」という、最高にクレイジーな結末だ。

「どうせ」という単語を自分に使うな


完璧を嫌悪して、自分から引きはがした後。君がしなければならないのは、「どうせ」という言葉から離脱することだ。思い返してほしい、その言葉を使ったときに心境を。そして、結末を。

それは、何かをあきらめたときに発していないだろうか?
何かを見捨てていないだろうか?
それは、無意識に無勝手に、無遠慮に、何かを傷つけていないか?

人に対しては「どうせ」を使ってもいい。だけど、「自分に」その言葉を吐くことは、今後やめよう。
それは、自分を貶める習慣を形作った最低最悪の単語なんだ。

「だから私は」思考を認知する

「どうせ僕は」「どうせ私は」というと、自分を見捨てて貶める。この言葉を禁止すると、次に待っているのは「だから」という言葉だ。
これは、理由付けで自分を否定しようとするときに使う。そして、その瞬間は自分の失敗があるからだ。たった一つの失敗で、その人の努力もこれまでの成果も、何もかもを、自分自身で否定してしまう。

例えば、最近聞いたケースはこのようなものだった。

「彼は東大卒で、有名企業で、第一線級の成績を残している。同期が10000人いるが、彼の成績は上位3%に入る。これまで、多くの利益を提示してきた。さらには、人間関係に恵まれて、恋人もできて、趣味も充実。何一つ困ることのない、理想的な生活を手に入れた。でも、日々小さな失敗をしてしまうことがある。そして昨日は、数値を誤認してしまい、別部署の人に迷惑をかけてしまった。すぐに修正できて、カバーできる些細なミスだった。結局は、事務の人が数値を修正して、事なきを得た。上司からは、注意され念押しされたが、周りの人は責めたり彼を否定したりすることはしなかった。本当に、なんとも思っていなかった。彼はその事実を前にして、『だから俺はダメなんだ』とふさぎ込んでしまった」

さて、話を聞いてみると「気にしなくても」と第三者的には思う。でも、第一視点になるとどうだろう、つまり自分が失敗したときだ。
同じように、発言していないだろうか?別に、君が失敗したところで、これまでの努力が否定されて、頑張りやもたらした成果が消え去るわけではない。なのに、「だから自分はダメだ」とふさぎ込み、必要以上に考え込むのです。

周りの力を借りて認める

「だから自分はダメなんだ」という思い込みや考えを知ったら、修正しよう。どれだけエリートでも、落ちこぼれでも、等しくこの思考はその当人をだめにしていく言葉です。

自分の人生が無価値で、取るに足りないものであると、自分で否定するからです。大事なことは、そんなものではないはずなのに。一人で修正するのが難しければ、少し周囲へ視線を向けてみることも、有効な手段ですよ。

例えば、さっきの例で行くと確かに上司は立場上注意していました。でも、カバーをしてくれた事務の人も、周囲の仲間も彼を責めていません。もちろん、言葉や態度で「失敗したなぁ~」と笑われることはあるでしょう。でも、だからと言って「お前は不要な人間だ」「会社はクビだ」なんて言われてませんよね。

大事なのはソコです。自分で否定するのではなく、「人の力を借りて受け入れていく」ということです。だって、あなたが失敗したところで「カバーできる」のですから。いつか、貴方が「カバーする側に回る」ことができるようになれば、それでいいのです。

僕の好きな言葉に、「お前が失敗することくらい、想定済みだ」という言葉があります。僕はこの言葉が、本当に大好きです。別に、「俺優秀だ」アピールができるからではありませんよ?
これって、本当に集団生活での「真理」を説いていると思うからです。

先ほどの失敗だって、自分で考えると「だから俺はだめだ」が結論です。でも、誰かからするとそれは「当然」なことなんです。だって、彼がいくら優秀でも、まだまだ新人で慣れない仕事でミスもするからです。勉強しながら人間関係を構築して、プライベートも意識して。本当に、大変な日々を送りながら、その中で「少し気が緩んでミスをした」だけなんですから。

自分でその事実を受け止めたときに、『無理に自分の欠点や弱点を否定する』必要はない。そうではなくて、周囲の人の力を借りて、『自分のダメなところを、細々と受け入れていく』ことが大事です。

大丈夫、どうせ君のミスなんて誰かが、織り込み済みで行動しているから。

ポジティブ解釈は自分だけでは入手できない

自己啓発本には、「ポジティブに考える」「前向きに受け入れる」なんて言葉があります。でも、初めからできれば苦労なんてしないんですよ。
初めからできれば、こんな生きづらい世界には片足を踏み込んでないです。
両肩まで、どっぷりと浸って呼吸できなくなってないんだよ。

そこから抜け出すためには、「嫌いな自分を認める」しかない。それが難しく、本当にできないのであれば、周りの力を借りてください。貴方の周りには、本当の意味で貴方を見てくれる人がいるはずです。

ありきたりな言葉、ありきたりな肯定、意味のない心がまえ。そんなもので、あなたの生き辛さは改善できるのでしょうか?無理ですよね。
安易な甘えは、自分の首を苦しめてしまいます。ちゃんと、自分を見てくれる人を探してみましょう。自分の失敗を「失敗したなぁ~~」と、笑い飛ばせるようになりましょうよ。でも、それは一人だと、無理です。環境を変えるか、環境を注意深く見るしかない。

そのうえで、欠点事自分を受け入れていく。「信頼して安心できる他人の力」を借りながら。

その人達の力を借りて、あなた自身を信じて、信用していくん。自分自身で「自分はこんな些細なミスをしてしまうような人間だ」と、自覚して行動してください。「くだらないミスをする自分」を認めて、日々を生きてください。

そうすることで、貴方は「自分の欠点を含めて、己という存在を愛する」ことができるのです。そうすれば、自分を認めて生きていけます。
感じなくてもよかった、「生きづらさ」を感じずに済みます。

  • 真のポジティブ思考

  • 真のポジティブな受け取り方

それは、この「自分を認める」という自己肯定感の上に成り立つものです。自分だけの物語を本当の意味で歩きたい。そう思うなら、あなたは、今すぐに「自分だけで自分を評価する」世界を抜け出して下さい。その前に、「助けてくれる人たち」という、信頼できる仲間の力を頼ってください。

他者評価に依存しない事と矛盾する


時折、この話をすると「他人の評価に依存する」といわれる。そして僕は、「自分の物語を生きるために他者評価に依存するな」と言っている。
なるほど、確かに表面上は依存して同じように見える。ただ、その本質は少し違う。

他者評価に依存している状況は、周囲の評価が変化すると、自分の存在は否定されて、自分自身の評価も変わる状況。

一方で今回のように、「誰かの力を借りて自分を受け入れる」というのは、最終的に「嫌いな自分を受けて入れ認める」ところまで行きます。最後で、自分で自分を認めることをしています。

簡単な例えとして、「失敗したなぁ」と笑われたとする。その時に、「そうですね」と受け流して、「次どうするか」を考えられるか否か。その違いがあるのです。他者評価に依存していたり、誰かと比べて競争しているような仮想状況にあると、「だめだなぁ、自分は」となる。でも、自分でその欠点を認識して認めていると「どうですね」と言って、ノーダメージで次ぎどうするのかを、無意識的に考えることができるようになります。

この、後者の状況を目指して頑張りましょう。失敗やミスを受け止めて、繰り返しがないように、前向きに改善していけるようにしましょう。

最後に


はっきり言って、この世界は生きづらいよ。無理だよ、簡単に生きるのは。
でも、その生きづらさって本来は感じなくていいものだよね。

生きづらさが強くなると、思考も感情もマイナスに引っ張られてしまう。
救われない自分がドンドンと大きくなっていく。常に、後ろを見て生きるようになってしまいます。
忘れないでほしいですが、自分を救えるのは、いつだって自分だけ。これは、変えることができない事実です。

君の物語を歩けるのは、君だけだ。今こそ、行動してみようじゃないか。
大丈夫、まだ間に合うから。今からでいいんだ。
少しだけでいいから、行動してみようじゃないか。

いつもと違う考え方、感じ方、行動をしてくれ。
それだけでしか、君という存在を君自身が救うことはできない。

この世界はどうやっても生きづらいから

生きづらさは、様々なことが原因で感じてしまうものです。
現代病ともいえるかもしれません。

でも、それは自分だけの自分の物語を歩けば、改善できるものです。
もちろん、どうしようもないことはありますが。全ては無理でも、一部切除して、今まで一杯一杯だった心のバケツを、軽くすることはできるはずです。

少なくとも、僕はそうであると思います。
僕は、僅か20と少しの人生しか歩んでいません。
その中でも、何度も生きづらさに直面して、その度に考え込んで、悩んできました。時には、泣け叫んで、子供のように喚き散らして。
時には大人ぶって、旅に出て、意味もなく日向ぼっこをして。
そうして、たくさんの時間をかけて、自分と世界と向き合ってきました。

そんな僕に、常に答えとよりどころを与えてくれたのは「読書」でした。
小説でもいい、エッセイでもいい、SFでもいい。
まるで、本物の魔法使いのように、本が紡ぐ物語に救われてきました。
そして、そんな僕も今では自分の物語を自信を持って歩いています。
人からしたら、「不幸」だといわれるかもしれませんね。「寂しい人生」だと思われるのかもしれない。


でも、僕は幸せだし、今は充実した毎日を送れています。
そのために重要なのは「自分の人生を歩く」ということです。
本を読む、物語に触れるというのは、この生きづらさを意識して感じてしまう現代では、一番必要だと思っています。
もしも、生きづらさを感じているのであれば。
自分の人生を変えたいと思っているのであれば。
今からでも遅くないんです、動き出してみませんか?

レイに関して

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