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誰かの正解に縋りたい「君」と、自分を貫いた「僕」

「ねぇ、この世界ってすごく生きづらいね」

そういって、生きづらさを外に押し付けてないだろうか。
「生きづらい」と実感して、どうしようもなく心が悲鳴を上げる。その都度、僕は「自分の人生を生きているのか」を自分に問いかけるようにしている。

自分の人生を生きるときに、とても厄介になるのが「他人の正解の見えるか」という現象だ。これは、SNSや各種メディアによって実行され、無意識のうちに、僕らの心の中にスルっと入り込んでくる。

ひねくれた僕

僕という人間は、非常にひねくれているもので、「右」といわれると「なぜ左はダメなのだろうか」と真剣に考えるほどだ。小学校の時も「時間とは何か」を、馬鹿な頭で真剣に考え続けた結果、テストでは見事に0点を記録した。

いつだって「自分の疑問」「自分の不満」には正直に生きてきた。でも、周りの人からすると、僕の生き方は「歪」で「異常」らしい。面白い。
だって、何が変なのかと聞くと、「みんなとは全然違う」「普通じゃない」としか言われないんだ。だから、僕は心の中でずっと思ってきた。
「普通って、みんなって誰だよ」って。叫んできた、心の中で。
きっと、同じ姿かたちをした、別の生き物なんだろうな。

そんなことを考えていたのだが、残念ながらそれは違った。
誰もが「みんな」という、良くわからない宗教上の神様のようなものを信仰している。その「みんな」という、大衆意識の前にすべてが肯定される、不思議な世界に生きているのだ。それは、一昔前では正義で、今は悪の事実でさえ、容易に「正義」と断定してしまうような、不思議なものだった。

「みんな」がないといきれない君

承認欲求というのは、きっと誰しもに備わっている能力だ。その能力との向き合い方は、人それぞれ。ただ、忘れてはならないのが、それは能力でしかない。最も、その本質は欲求で、それを力に変えているだけだ。

その能力・欲求に支配されることは、基本的にあってはならない。自他を不幸にしてしまうからだ。でも、今の時代はそれが「普通」らしい。
目の前の友人よりも、ネット上の誰か。目のまえの一人よりも、ネット上の複数人。目に見えない絆よりも、数値で見える繋がり。

なんとも不思議で、わかりずらい。でも、そうしてでも「誰かとつながる」ことを実感し、無意識化で意識しなければならない。そういう世界に、僕たちは生まれて、育ってしまったんだ。不幸だというのか、最高だというのか。
それは、人によって違うだろう。でも、その幸福なのか不幸なのかを分けるのは、何時だって「自分の選択」なんだと思う。

自分が「進む」という選択をとったとき、過去のつながりは足かせになる。これまで、自分を支えてきてくれたものは、大きな害になりえる。だって、そのつながりを維持するには、「君が進まない」という選択肢をとる必要があるからだ。

一方で、「進まない」という選択肢をとると、そのぬるま湯で遊べる。「生きづらさ」に気が付かなければ、何も気にしなくてよい。でも、この文章をここまで読んでいる君のことだ。多分「生きづらいなぁ」と思ったんだろう?それは、「不安」で「焦燥感」で「言語化できない」ものなんだと思う。

自分の中で大事にしている何かが、決定的に満たされない状況なんだ。

満たされない自分という存在

自分が満たされないとき、それは莫大な不安や焦燥感をもって襲い掛かる。その不安の原因は、「金」や「承認」などの、目に見える何かではないと思う。少なくとも、僕はそのような「可視化できる何か」には、あまり必要性を感じなかった。

大事なのは、自分を見つめて対話して、真剣に向き合うことなんだ。時には、人に向かって話をしてみるとよいだろう。恥を捨てればいい、外聞なんて、気にせずに泣き喚いたって良い。ちゃんと思考を整理できなければ、思考を整理するために、誰かに話をしてみればいい。

満たされない「私」を考えるとき、重要なのはその本質をつかむことだ。自分を意識して、さらに潜り込む。はじめは小魚たちと戯れていたはずで、途中で過去の繋がりが、足に巻き付いてくる。そのロープをぶった切ると、見事に、「本質」が見えてくるんだ。

物の取捨選択を考えるのは、この段階に至ってからでよいだろう。自分にとって、「ほんと運大事なものは何なのか」をちゃんと納得できる段階で考えてみよう。それで、必要なのか不要なのか。判断していけば、何か見えてくるかもしれない。

ここまで読むと、すでに察している方もいるだろう。
結局、「生きづらさ」の答えは自分の中にしか存在しないということに。そして、それは「解決できること」と「解決できないこと」があるという、残酷な事実も。

物語の経験が自分を強くしていく

幸か不幸か、僕らは誰かの答えが可視化されて生きてきた。だから、生きる上で「真剣に向き合って考える」という、最高に不幸でクレイジーなことをしなくて済んだんだ。でも、「生きづらい」と一度でも感じると、これは一生僕らの、背後霊のように付きまとう。

そんな不幸から逃れるように、僕は本を読む。たくさんの「物語」に触れることを、強く進める。彼らは、果たして君が見てきた「正解」のように、きれいで美しいものだろうか。多分、もっと泥臭くて醜くて、意地汚いのではないだろうか。
多分、人間ってそんなものだ。むしろ、そうであってほしいと思う。

読書によって様々な人々の人生、世界を追体験してみよう。その体験が、小さな自分を生み出す。その小さな自分は、徐々に成長していき、何時しか自分を支える何かになる。その小さな自分がたくさんできると、脳内で学級会が開催される。
この学級会こそが、僕らの生きづらさを解決するものだと思う。つまり、自分の生きづらさに対して、多角的に考えて冷静に意見をしていくものだ。感情を考慮したり、抜きにしたり、様々な意見を考えることができる。

自分だけの、自分の物語をこの残酷な世界に刻み付けていくには、この学級会が必要なんだ。少なくとも僕には、この小さな体で世界にアタックを仕掛ける元気はない。活力もない。
でも、「僕は僕だ」と、小さいながらも反抗して叫ぶくらいはしてみたいと思う。それが、「変人」で「宇宙人」と言われてきた、僕にできることなんだろう。

あなたが生きるために

何か「生きづらさ」というものを実感したら、正しく自分の世界を生きているのかを考えてみよう。たくさんの物語や、思考方法に触れてみよう。
世界を見る目、人を見る目を、少し変化させて、日常の中の面白さを探してみよう。

なにもなければ、作ってみればいい。家宝は眠らせていても、さび付くだけだ。意味はない。
掘り起こしてでも、家の基礎を崩すくらいに家中を探し回って、利用すればいい。使ってみて考えてみて、納得できる方法を探して。
迷ったら、積極的にインプットしていくんだ。その繰り返し。

書籍はたくさんあって、幸運なことに図書館に行けば本はある。古臭いけど、たくさんの本がある。それは、本当に幸せなことだった。今の時代、本を読む人は、物凄く稀だ。でも、識字率は高くても読解力がない人が圧倒的に多いと感じている。文字は、眺めているだけではダメなんだ。
そして、その能力があれば、自分の人生を歩むことはできると思う。宇宙人呼ばわりされ続けた、僕ができたのだから。大丈夫、間違いない。

だから僕は、一冊でも多くの本をあなたが楽しめる世界であることを願う。
自分の人生を生きる、その足掛かりになれると思うから。少しでも、自分の人生をよくする、生きづらさを解決するきっかけになると、うれしい。

誰かの人生に、正解に、価値観に、縋ることをやめよう。自分の人生に、これまでの自分の歩みに、物語に。価値を見出して、縋りつけるようになろう。

あなたが、あなたらしく生きれるように。少しだけ、周りの世界を気にせずに生きていけることを願う。

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