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忘れられない現実が今の自分を残酷に作り上げている

忘れたい過去なんて、無数にありすぎて頭痛がする。考え始めると、頭痛で数日寝込みそうになる。しかも、この頭痛は誰にも痛みがわからないから「あ~、頭痛ね。あるある」で流されてしまうのだ。
頭痛の理由は様々あるが、民間療法で有効な方法は手あたり次第試してみたが全部だめだった。まぁ、この痛みがだれにも理解されないし、共有できないことは本質的な問題ではない。

その問題は、「思い出したくもないことを思い出して、一人でふさぎ込む」ということだ。これは由々しき問題で、個人的に絶対にやめたい習慣でもある。ただ、ふとした瞬間に「もう無理だ」と人生を諦めたくなるほど、言いようもない絶望感が押し寄せてくる。波のように押し寄せるのであれば、まだ優しい。波はそのうち引いていくし、実害は少ないからだ。
でも、僕のこの「消えたい」「もう無理だ」という感情は、感情どころか思考まで支配する。そうすると、次第に体の自由も効かなくなるし、思うように会話すらできない。これは、どういうことなのだろう。
いまだによく理解できない、発作のようなものだと思って生きている。

世の中には、こんな感じでどうしようもないことであふれている。心の中で「くそったれな世界だな」と思いながら、生きていくしかないのだろう。この世界を「クソったれ」と言って呪いを言っていられるうちは、まだ幸せだ。そのうち、その先に行くのだから。
でも、「その先に行っても別にいいのではないか」というのが僕の意見だ。だって、変えられないし止まらないことで、いつまでも引きずられても仕方ないからだ。その時はどうしようもないけど、数日か、数時間もすれば直るのだから。ただ、不定期に、予期できない感覚で訪れる絶望があるというだけの話だ。

本を読んでいると、もちろんフィクションだが様々な苦悩を持つ人間が描かれている。もちろん、彼らの苦悩も凄いし、根深い問題で救いようもない時がある。一方で、海外のエッセイを読んでみれば、教育や貧困で困っている人も多い。そんな場所を取材して、丁寧に表現してエッセイを読んでみると、なんだか「こんなことで悩むとは」という気持ちになる。

確かに、今の生活は幸せで満ち溢れている。見栄を張らなければ、下らないプライドを捨てれば、要らない常識を取り払えば。人間としての最低限度の、文化的な生活は保障されていたりする。生きていくことが保証されていて、そこにある程度の苦悩はなくていいらしいのだ。快適に生きていけるので、特に問題はないと思うのだ。
思うに、「頑張ることが正義」という価値観が浸透しすぎなんだ。だから、頑張りすぎた人が生まれる。僕のような適当に生きて、本を読んでいるような、心を患った阿保がいるのに。みんな、まじめに生きていて本当にすごいなと思う。
少なくとも、その生き方は僕にはできなかった。そんなに頑張ることは出来ないし、自分も他人もそこまで意識して生きたことはない。「誰か」なんて、とうの昔に気にしなくなって、束縛されながらもその中で自由に生きているつもりだ。

自分の物語を紡げばいいと、昔のnoteで語ったが実際そのとおりであると最近は強く思う。だって、昔あった「くそみたいな現実」が自分を作りあげているのだから。ゴミみたいな日常に、クソみたいな現実に、悩みの尽きない罪深い人生。
その現実は、かなり残酷なものになっているだろう。でも、その残酷な日常を、僕は今日も何も気が付かないふりをして、のうのうと生きていく。
また下らないことで悩みながら。

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