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沢木耕太郎『深夜特急』を手に、あのとき僕もバックパッカーの旅に出た

有吉弘行と言えば? と聞かれて、ちょっと前なら毒舌キャラとか、あだな付けの名人などと答える人が多かっただろうが、いまなら何と言う人が多いのだろうか。もしも、猿岩石のヒッチハイク旅が真っ先に頭に浮かぶならば、間違いなく僕と同年代ということになるだろう。

あの当時、いまならコンプライアンス的にアウトとなりそうな、無茶ぶり企画を連発して人気を博していたテレビ番組『進め!電波少年』。その新プロジェクトが、あの「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」だったのである。若手お笑い芸人をオーディションして選ばれたのが、当時まったく無名の「猿岩石」というヘンテコな名前のふたりぐみだった。企画詳細を知らされないまま、騙されて香港まで連れてこられたふたりは、そこで初めて種明かしされ、ロンドンを目指して旅立つよう命じられたのだった。

そこからはもちろんトラブルの連続であり、だからこそ視聴者は毎週、テレビの前に文字通りかじりつくようにして、手に汗握りながら無名の若者ふたりぐみの奮闘に見入っていたのである。それが1996年のことだ。iPhoneが誕生する10年以上も前のことであり、Windows95によってインターネットが普及し始めた頃の、いまや遠い昔話である。

死人が出てもおかしくなかった、そんな無謀な海外ヒッチハイク旅を企画したのが、ちょくちょく番組にも登場していた土屋プロデューサーである。彼が以下のインタビューでも答えているように、この旅を思いつくきっかけとなったのが、彼自身が若い頃から愛読していた沢木耕太郎の『深夜特急』だったのである。


沢木耕太郎の『深夜特急』は、実に刺激的な、「私」の冒険を追体験させてくれる、新しいノンフィクションだった。若さゆえに、そして仕事もなにもかもを捨ててきたからこそ、もう何も失うものはないという覚悟からだろうか、現地に踏み込む一歩は、ふつうの旅行者からは想像できないほどに深い。沢木が路線バスの旅の出発点として選んだ当時の香港は、英国領でありながらアジアならではの雑踏と騒音に溢れ、街に輝くネオンの明かりと汚れた空気が体にまとわりつくような、ぬめりとした手触りまでが、読んでいるこちらに伝わってくるようで、だからこそ、その違和感というか奇妙な感覚を自ら確かめてみたいという好奇心を、僕も抑えられずにいたのを思い出す。


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大学生だった僕は、数カ月の短期アルバイトで少しばかりの資金を貯め、初めて自分で格安航空券を買い、そして香港に向けて旅立った。このとき僕は、今しかないと思っていた。当時の香港は、中国への返還を間近に控え、アメリカやカナダに向けて国外脱出する人が増えている最中だった。おそらくは、中国返還によって香港を香港たらしめてきた何かが失われる、そう危惧していた人たちは相当数にのぼり、それは日本にいる大学生のひとりに過ぎない僕にまで影響を及ぼすほどの、大きなうねりであるように感じられたのだ。

だから、いまの香港を自分の目で見るために、そして自分の五感で感じ取るためにも、いま行かねばならないと、なかば強迫観念のように思っていた。ヒッチハイクをするわけではないけれど、僕の海外旅の出発点も、やはり香港だったのである。この場所はそれだけ人々を惹きつける力があり、それはとくに若者にとって抗いきれない魔力的な魅力だったのだ。


インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行く――。ある日そう思い立った26歳の〈私〉は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは「大小(タイスウ)」というサイコロ賭博に魅せられ、あわや……。一年以上にわたるユーラシア放浪が、いま始まった。いざ、遠路2万キロ彼方のロンドンへ!


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