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件の如し(第4話)

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■本編

4、クダン
 スマートフォンのアラームで目を覚ますと、時刻表示を見て舌打ちする。七時半。二回目のアラームだ。ちくしょう、と心の中で悪態を吐き、ベッドから起き上がる。
 クダンの部屋は1DKの狭いアパートで、一部屋はベッドを置くと半分以上埋まってしまうが、クダンはベッドでないと眠れない。幼少の頃、父親が閉め忘れた網戸の隙間から、青大将が部屋に入ってきて彼の体の上を悠々と横断していったのを見て以来、ある程度の高さがないと安心して眠れないようになった。
 クダンは湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れて、トーストの上にマヨネーズで土手を作り、その中に卵を割り入れてトースターにかける。その間にスーツに着替えると、ベッドからスマートフォンを拾って電話をかける。
「おう、なんか用かい」
 電話の相手、情報屋のゴトウは三コールと待たずに電話に出、不機嫌そうな声で応える。
「景気が悪そうな声だな」
「まあな。ちょっとばかし業界がごたごたしてるんでね。俺もやりづらいんだ」
 クダンはベッドに腰かけて髪をわしわしと掻き乱し、「そっちの業界のことは知りたくもないがね、同情するよ」と些かも同情した色のない声で言った。
「どうも。で、そんな無駄話をするために電話したんじゃないだろ」
「ああ。少し調べてほしいものがある。データを送るからいったん切る。五分後に」
 了解、とゴトウが答えるのを聞いて、クダンは電話を切る。そして端末を操作してデータファイルをゴトウに送ると、立ち上がってキッチンに行き、トーストの焼け具合を確かめ、キッチンミトンを着けて焼き上がったエッグトーストを取り出し、皿に置いて部屋に持っていく。コーヒーと合わせてガラスのローテーブルの上に置くと、時計を見て五分が経ったことを確認し、再びゴトウにコールする。
「矢崎秋奈……この女がどうしたっていうんだ。浮気調査じゃあるまい」
 ゴトウが冗談めかして言うので、クダンは苦笑して、「浮気調査ならこっちの仕事だ」と応える。
「妙な依頼があってな……」
 クダンは矢崎を名乗る男からの依頼を受けたことから、その矢崎が偽物で、本物の矢崎は妻のことを調べてほしくなさそうな気配を出していたことを説明する。
「ふうん。確かにそいつはきな臭いな」
「そうだろう。だから調べてほしいのは、矢崎秋奈の身元と、夫の矢崎昂進の身辺。それから矢崎にどんな人間が関わっているか、だ」
 まあ、任せておきな、と答えた後に、椅子が軋む音がした。ゴトウが居住まいを正したのだろう。律儀な性分で、依頼者が見えない電話でも、依頼を受けるときは姿勢を正す男だ。
「だが少しばかり時間をくれ。俺のデータベースには矢崎の情報はない。これから調べる」
「どれくらいかかる。情報によってこっちも動き方が変わるんでな」
 そうだな、とゴトウはしばし思案して「五時間くれ。それで調べる」と自信を見せて言った。
「分かった。それじゃあこっちはその間に警察に矢崎秋奈の事故死の詳細を訊いてみるさ」
「喋るかね」
「まあ、こっちにも伝手はある」
 そうかい、と言って笑うと、ゴトウは「五時間後に」と言って電話を切った。
 警察に当たる前に、少し矢崎をつついておくか、と決めるとクダンはアパートを出て、自転車に跨り事務所へと向かう。
 こうして街に出ると、毎朝同じ顔ぶれとすれ違う。同じ時間に、同じような場所に。それは不思議なようであって不思議でもなんでもない、ただの習慣による必然だった。花木で飾られた庭のある斎藤さんちの前で、仲良し女子高生二人組とすれ違う。クダンはすれ違いざまに「今日も可愛いね」と声をかけると、女子高生たちはきゃっきゃと笑って、「クダンさんは今日も怪しいね」とユニゾンの声で返す。その先、道路の舗装工事中の通りに差し掛かると、いつも同じ誘導員が誘導棒を振っているので、「お疲れ様です」と声をかけると、中年の誘導員はにこっと笑みを見せて頭を下げる。彼らには彼らの一日がある。そしてクダンにはクダンの一日が。いつも思う、今日という日は昨日をトレーシングペーパーで書き写したようだけれども、でも同じではない。ささやかな違いが生じる。ささやか過ぎて、日常というものは記憶に残らない。記憶に残るような、大きな出来事など、人生においてないに越したことはない、と探偵という仕事をしていて思う。
 クダンは事務所に辿り着くと、喫茶「ジェイムズ」の隣の階段を上りかけて、おばちゃんに呼び止められる。
「坊主、犬探しの仕事だよ」
 おばちゃんは階段の下から顔を覗かせて、扉の方を指さしながら言う。
 クダンがしゃがんで確かめてみると、ドアと床の隙間にメモが差し込んであった。引っ張り出してみると、依頼人の名前と連絡先が書いてある。クダンはそれを丁寧に折り畳んでポケットに突っ込むと、おばちゃんに向かって、「今忙しいから、後でだ、後で」と手を振る。
 するとおばちゃんはがらがらの声で、「そう言うと思ってドクさん紹介しといたよ」と言って引っ込んだ。
「仕事をとるなよ」とクダンはため息を吐いた。
 事務所の中に入ると、デスクの引き出しから矢崎の名刺を取り出して、仕事用に契約しているスマートフォンを探してポケットに押し込み、事務所を出た。
 自転車に跨り、矢崎のいるオフィスへと向かう。
 矢崎は何か隠している。妻の死に関して、何か都合の悪いことを。偽矢崎はそれを炙り出そうとして探偵に依頼する、などという真似をしたのだろうか。それにしても、あの偽矢崎はカタギの人間じゃないなと、思い出して冷や汗をかく。ヤクザが可愛く思えるほど冷徹な雰囲気をもつ男だった。隠そうとしても隠しきれない、死、そのものを纏ったような雰囲気。まるで額にマシンガンを突きつけられているような恐ろしい男だった。
 その偽矢崎が矢崎に目をつけている。とすれば、矢崎にも相当後ろ暗い弱みが転がっているはずだ。それをうまく手繰り寄せることができれば、この依頼に隠れている気味の悪い感覚を、少しでも払拭することができるかもしれない。
 クダンはオフィス街に到着し、フレンド&パートナーズのビルの入り口が見渡せるチェーン店のカフェのテラス席に何食わぬ顔で座ると、矢崎の携帯に電話をかけた。
 しばらくコールすると、観念したように矢崎が電話に出る。「はい。矢崎ですが」
 クダンは声を作って、「俺だ」と言うと、矢崎の反応を待った。
「ええと、どちらさまでしょう」
「俺の声を忘れたか、矢崎。随分偉くなったものだな」
 矢崎は息を飲んだが、「生憎思い当たりませんが」としらを切るので、「俺が寄越した探偵が、昨日行っただろう?」とせせら笑いをセットでつけて言い放つ。この一言はよく効いたのか、矢崎は「あいつはあなたが」と話に乗ってくるので、クダンはしめしめとしたり顔になる。
「お前が矢崎秋奈の件で、俺にも隠していることがあるんじゃないかと思ってな」
 矢崎は明らかに狼狽し、「そ、そんなことはありません」と声を張り上げる。
「いや、いい。お前、あんなものを隠していたとはな」
 あんなものってなんだ、とクダンは自分の演技に突っ込みをいれながらも、すらすらと書かれたシナリオを読むように嘘が溢れ出てくることに我ながら驚いていた。
「そ、それは、その」
 矢崎はしどろもどろになりながらも、肝心の隠していること、を口にしようとはしない。オフィスにいて、周囲の人間の目もあるとすれば、やむを得ないか。クダンはこれ以上深入りしてぼろを出すのを恐れ、また連絡する、とだけ言って電話を切る。電話の向こうでは矢崎が悲壮な声ですがっていたが、ここで無情に切ってこそあの男らしいと思って切る。
 ひょっとすれば、焦った矢崎が何か行動にでるかもしれない。そこをつけよう、というのがクダンの算段だった。
 するとほどなくして矢崎が焦った様子で飛び出してきて、周囲を見回しながら足早に歩いて行く。
 クダンはその後を尾行すると、矢崎がタクシーに乗るので、自分も慌ててタクシーを捕まえ、「前の車を追ってくれ」と頼む。運転手は心得たように無言で頷くと、矢崎の乗ったタクシーを追跡する。
 矢崎はクダンが追っていることに気づかないようで、オフィス街を出て郊外をしばらく走る。民家や店舗などがまばらな地域で、鬱蒼とした雑木林や荒涼とした空き地が目立っていた。
 矢崎の乗ったタクシーは住宅街に入ったところで停まるので、クダンも少し離れたところに停めてもらい、金を払って降りる。
 矢崎は足早に突き進むものの、ある路地に入ってはまた戻ってきて別の路地に入るなど、迷っている人間のような行動を繰り返すので、クダンもただ尾行するわけにはいかず、距離を保ち、電柱など物陰に隠れながら追わざるを得ない。忌々しそうに舌打ちした。
 矢崎は一体どこに向かっているのだろうか。目的地が分かっていての行動ではないのか。クダンは電柱の影にしゃがみながら訝しく思っていると、矢崎が路地を曲がってその先に姿を消したので、慌てて追いかける。
「?」
 クダンは何か違和感を覚えて、追い駆け始めた足を止めて振り返り、周囲を窺う。
 だがその違和感がなんなのか分からない。分からないが、拭えない油汚れのようなその違和感は、べっとりとクダンの体に絡みついていた。
 足を進めると、その違和感が強くなる。違和感。敵意。視線。見られている、とクダンは感じた。あの冷徹な偽矢崎のこともあるし、これ以上の追跡は危険かもしれない、とクダンの本能が警鐘を鳴らす。だが、矢崎をここで逃がしては、重要な手がかりをのがすかも、と思って、クダンはいやいや、と首を振る。命あっての物種だ。ここはまだ、無理をする局面じゃない。そう言い聞かせて、来た道を慌てて引き返す。
 幹線道路まで出て、タクシーを捕まえると、警察まで向かう。タクシーに乗ると絡みつく視線のようなものが薄らいだ気がした。だが、完全には振り払えていないような嫌な感覚もある。
 警察署に着くと、受付で「一課の岸和田さんを呼んでくれ」と頼む。受付の警官は訝しく思ったようだが、折よくその岸和田が階上から下りてきたので、クダンは「岸和田さん」と手を挙げて呼んだ。岸和田はちょっと嫌そうな顔をして、同僚の刑事に先行っててくれと言うと近づいてくる。
 岸和田は捜査一課の刑事で、叩き上げだ。気難しく愛想のない性格だが、クダンがある事件で解決の手伝いをしたことが縁で、お互い差し障りのない範囲で情報交換をするようになり、クダンが握っていた情報が事件解決の重要なピースだったこともあり、岸和田はクダンに一目置いていた。ただ専ら岸和田から連絡して情報を仕入れるのが中心なので、クダンが出向いてくると厄介な話、と煙たがってもいるのだった。
「おう、クダン。商売繁盛してるかよ」
「閑古鳥が鳴いてますよ。まあ、今ちょっと厄介な案件を抱えてましてね」
 二人は連れ立って外へと歩き出す。
「で、なんか訊きたいことがあんだろ」
 二人は駐車場の隅に並んで立つと、塀の外の道路を眺める。
「ええ。一か月前に起こった、女性が焼死した交通事故、その件で」
 女の名前は、と岸和田は腕を組みながら訊ねる。
「矢崎秋奈。フレンド&パートナーズの総務部長、矢崎昂進の妻です」
 ああ、あの件か、と岸和田は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
 なにかあるんですか、とクダンが訊ねると、岸和田は頭を掻いて眉間にしわを寄せる。
「事故による焼死なんだろうがな、やけに早く結論が出されて、捜査が終了したんだ。引っかかるところもあった。俺や一課の人間の多くは他殺を疑ってた。だが調べる前に終了宣言されちまった」
 クダンはしゃがみ、欠けたアスファルトの欠片を摘まみ上げると、手の中で弄びながら岸和田を見上げ、「ひっかかること?」と訊ねた。
「ああ。事故現場は何もない直線道路だった。その道を逸れて、電柱に突っ込んで、その後炎上だ。事故を起こすような場所じゃねえ。それに、目撃者の話では同乗者がいたって話もあるが、その同乗者が不明なままだ。おまけにエンジンのバッテリーに細工をした跡があった。そこからは矢崎や矢崎秋奈のものではない第三者の指紋が検出されている。だが、誰の指紋か分からん。俺はその同乗者が怪しいとみているが」
 岸和田は口を歪めて顎の無精ひげをさする。
「だから矢崎はまあ、除外できるとしよう。だがそれ以外に犯行動機をもち、かつ矢崎秋奈と親しかった人物というのが浮上しないんだ。矢崎秋奈自身、人目を避けるところがあって、交友関係は狭かったはずなんだが……」
 同乗者、とクダンは顎に手を当てて考え込む。その様子を見ていた岸和田は苦笑して、「引っかき回すんじゃねえぞ。終わった事件だ」とクダンの肩を叩く。
 立ち去ろうとする岸和田に、クダンは立ち上がって、その背中に一番訊きたかった質問をぶつける。
「岸和田さん、死んだ女は、本当に矢崎秋奈だったんですか」
 岸和田は振り返らず、空を仰いで、「自宅から採取された毛髪とDNAが一致したよ」とだけ答えて、「じゃあな」と立ち去って行く。
 まだ訊きたいことがあったが、岸和田の態度から察するに、警察としては深入りしてほしくないのだろう。だが、DNA鑑定が本人だと支持しているということは、矢崎秋奈は間違いなく死んでいるということか。だとすると、矢崎があんなに焦って隠そうとしているものはなんだ。
 クダンは警察署の敷地から出て、ぶらぶらとあてどもなく歩く。歩きながら考えるのは、思考を整理する上でほどよい刺激になる。
 幹線道路沿いに歩き、橋の手前で公園に出る脇道に下りて、川沿いを歩く。川では何か釣れるのか、何人かの釣り人が竿を振るっていた。川沿いの道には美術館があり、明治の頃に建てられたという石倉が当時のままの姿を残していた。倉は使われてはいないが、定期的にメンテナンスされているのか、外壁も綺麗な白壁だったし、屋根の上に葉っぱがたまっているということもなかった。
 公園に辿り着くと、若い女性がフルートを吹いていた。曲には聞き覚えがある。確か、「シシリエンヌ」という曲だ。昔テレビのCMでも使われていた。ゆったりとした低音の調べは耳に心地よかった。
 天気がいいこともあってか、公園には多くの人がいた。ジョギング途中のランナーや、ベンチで日向ぼっこをしている老人、砂場で遊んでいる子どもたち。公園は半分が石畳のようなもので覆われていた。ベンチには日よけとして藤棚があり、川沿いの柵には何かの鳥をモチーフにしたオブジェが幾つもついていた。
 その柵にもたれるようにして、一人の女性が文庫本を読んでいた。足元にはゴールデンレトリバーが寝そべって目を閉じている。首輪をしてはいるが、見たところリードはないようだ。
 クダンは女性が読んでいるのがカフカだ、と分かって興味を覚え、近づいて行って声をかける。
「カフカですか」
 女性は目だけを文庫本から離してクダンを一瞥すると、「そうよ。この子はカフカ」と言ってページをめくる。
「あ、いや、犬じゃなくて。読んでいる本が。でも、カフカって言うんですね、その子」
 ああ、と女性は己の勘違いに苦笑し、本を閉じる。するとそのささやかな音が聞こえたのか、犬のカフカは目を開けてすっくと立ちあがった。
「そうね。犬もカフカなら、読んでいるのもカフカ」
 女性は耳の下辺りで切り揃えたショートカットで、やや吊り上がった目が気の強さを示していそうだが、大きな目に高い鼻、口紅を塗っていないだろうに、色つやがよく瑞々しい果実のような唇。それらが顔の絶妙な位置に配置されていることにより、彼女の美しさをなお引き立たせていた。
 こんな美人には、ちょっとお目にかかったことがないぞ、と矢崎秋奈の写真を思い浮かべながら、それ以上だ、と心中で感嘆した。
「好きなんですね」
 女性は値踏みするようにクダンのことを眺め回すと、「それで、何の用」と訝しそうに問うた。
 あ、いや、とクダンはしどろもどろになる。「ナンパならお断りよ」と女性に言われてクダンは失笑し、少し気が抜ける。
 どうにも、気が張ってしまっていたらしい。矢崎を尾行したときから、何かに追われているようで、緊張してしまっていた。
「私も読んだことがあって、懐かしくて」
 クダンはそう言いながらしゃがんで犬のカフカの頭を撫でる。カフカはじっとクダンを見据えたまま、撫でられるがままになっていた。「賢いな、お前」とその毛並みを櫛を入れるようなつもりでゆっくりと撫でる。
「カフカは好きよ。死について問われたときに、『むやみに大きな階段の上にいるようなもの』と言っているのが、特に気に入ったわ」
 へえ、とクダンは立ち上がって女性の隣に並び、柵に寄りかかって彼女を眺める。
 女性はクダンの視線を冷ややかに受け流しつつ、かと言って拒絶したり追い払ったりするでもなく、話を続ける。
「わたしもそう思うもの。生とは人間に与えられたほんの一段に過ぎなくて、その先も後も、残りは死に属するものなんだわ。階段を上っていっても、下っていっても、人間は死にしかたどり着けない。それが人間の真理なのよ」
 クダンは「すると今この瞬間は、その貴重な一段に属するわけか」と言って空を仰いで、そして視線を落として地面の石畳を眺めた。
「そうね。そして明日には、あなたは階段を下っているかもしれない。もちろん、わたしも」
 そうならないことを祈りたいが、とクダンは矢崎を追っていた時に感じた違和感を思い出して身震いする。
「わたしは、その上り下りを手伝う仕事をしているの」
 生死に関わる仕事か、と考えてしげしげと眺める。知的な雰囲気も漂っているから、医者か看護師か何かだろうか。その冷徹さは医療に似合うようにも、そぐわないようにも思えた。
「私は探偵をしています。嵯峨下探偵事務所のクダンです」
 クダンは名刺を差し出し、女性がそれをじっくり眺めているのを好感触だと捉えた。世の女性の中には、探偵なんていかがわしい仕事だ、と思っている人が一定数いるようで、名刺を見た瞬間、眉間にしわを寄せる女性もいる。
「探偵さん、ね」
 女性は口角を上げて妖艶な笑みを浮かべると、「じゃあ、この人について知っているかしら」とスマートフォンの画面をクダンに見せる。
 クダンは思わず声を上げそうになったが、それを押し留めて飲み込んだ。眉が緊張にひくつくのが分かる。だが、表情に出してはいけない。必死で堪える。
「いや、知りませんね」
 クダンはスマートフォンから顔を離して、残念そうに首を振る。
 スマートフォンに写っていた写真は、矢崎秋奈だった。それも、クダンが持っている写真と同一のもの。女性は矢崎の関係者か、偽矢崎の関係者に違いないと踏んだ。どちらにしても喜ばしい出会いじゃない、と肩を落とし、こうしたジョーカーを抜かりなく引いてしまう自分の不運さを呪いたい気持ちだった。
 いいなと思って声をかけた女性が、追っている事件の関係者だなんて、そんな偶然あってたまるか、と憤慨しつつ、実際に起こってしまったのだから、仕方ないとげんなりするのだった。
 そう、と女性はさして残念そうでもない声で言うと、捕食者が獲物を狙うようにゆっくりと、じっくりとクダンという人間を観察していた。
 怪しんでいる、とクダンにも分かった。できるなら、すぐにこの場を離れた方がいい。だが、迂闊な動きをすれば、女性は一層怪しむだろう。女性相手とはいえ、目の前の女性から逃げられる気がしなかった。彼女は兎じゃない、狼だ。
 クダンは背中にじっとりと汗をかく。どう言い逃れて離れるか、その算段を懸命に頭の中で巡らせていると、突然「おおクダン、探したぜ」という男の声が響いた。
 声の主を見ると、情報屋のゴトウだった。情報屋が直接出張ってくるのにも驚いたが、今は渡りに船とばかりにこの膠着した状況から連れ出してほしかった。
 クダンは女性に「失礼」と断ってゴトウに駆け寄る。女性は不服そうではあったが、再び文庫本を開いてそれに目を落とした。
「助かったよ、ゴトウ」
 ゴトウは女性の方を恐る恐る覗き見、「お前なんて奴と一緒にいるんだよ」と小声で、だが緊張感に満ちた声で言う。
「誰なんだ。只者じゃなさそうだけど」
「あの女、ガーネットと呼ばれる凄腕の殺し屋だよ。業界じゃ有名な暗殺者の一人だ」
 暗殺者、とクダンは呟きながら、血の気が引く思いだった。
「彼女も矢崎秋奈の写真を持っていた」
 そうだ、とゴトウは頷く。
「どうやらガーネットも矢崎秋奈の暗殺を請け負っているらしい。他にも新興だが結構でかい規模の組織が動いてるって話もある」
「なんで死者を暗殺しようだなんて」
 ゴトウは首を振って、「それは分からん」と言った後で、「矢崎秋奈の死には疑義が残る」とガーネットを窺う。彼女は離れたところから動かず、本を読んでいるようだった。
「それは警察でも聞いた。だが、疑義はあっても死体は彼女だ。DNAが一致した」
「警察も一枚岩じゃない。どうやらこの件、公安の外事が動いているらしい」
 公安、と訝しそうにクダンは声を上げかけ、潜めて言う。
「外事、っていうことは、外国人によるテロか。でも、矢崎秋奈は日本人に見えるが」
「国籍がどこか、なんて分かりはしないさ。矢崎秋奈の経歴も調べたが怪しいところはなかった。しかし、いくらでも偽造できる。それに矢崎秋奈がそうだとは限らない。彼女は単なる被害者かもしれない」
 どういうことだ、とクダンは首を傾げる。
「夫の矢崎昂進。奴はどうやら会社の金をどこかに流しているようだ。それに、得体の知れない奴らを引き込んで、各企業に派遣しているとも聞く。そうして派遣された奴らは数か月で退職し、行方を晦ましている。恐らく企業から技術など機密情報を盗み出しているんだろう。今はまだ被害は水面下だが、その水面下では各企業が燃えだしているぜ。株価が暴落するような会社がこれからどんどん出てくる」
「なぜそんなことを」
「派遣されている企業は日本の企業だけだ。日本の企業を潰して利益がある者たちによる仕業、と考えた方がいいだろうな」
 クダンは腕を組みながら、「矢崎秋奈はどう関わってくる」と訊ねる。
「彼女も企業に派遣されていた一人なんじゃねえか。まだその痕跡は掴んじゃいないが」
 なるほど、と頷く。クダンは唇を舐めながら、「彼女は何らかの不都合な情報を知ったために消された」と言うと、ゴトウも「かもな」と頷く。
「それじゃあ公安は、矢崎にも張り付いているのか」
 そのようだ、とゴトウは頷いてガーネットの方を眺める。彼女はいつの間にか姿を消していて、ゴトウはぎょっとしながらも安心したようで、安堵の息を吐く。
 だとすると、矢崎を追っていたときに感じた違和感は、公安の気配によるものだったのかもしれない。それなら深追いしなくて正解だった。深追いしていればクダンも公安にマークされ、矢崎秋奈を追うことは難しくなっていただろう。
 だが、これ以上追う必要があるのか、と思う。矢崎秋奈が死んでいる以上、探すのは不可能だ。ここから先に足を踏み入れれば、テロだなんだという巨大な陰謀が待ち受けているわけで、それは探偵の仕事ではなく、公安警察の仕事だ。
「分かったよ、手を引く。これ以上は手に負えそうにないからな」
 クダンは組んでいた腕を解いて、ガーネットのいた方を振り返る。「こっちも問題なさそうか」
「だといいがな。とりあえず仕事は果たしてやった。特急でな。いつものように振込頼むぜ」
 そう言い残してゴトウは手を振り、足早に去って行く。
 クダンもとりあえず事務所に戻ろうか、と公園を後にする。
 歩きながらポケットに手を突っ込み、何か入っていることに気づいて、取り出してみると犬探しの依頼人の電話番号だった。
 クダンは電話をかけてみるが、呼び出し音が鳴るばかりで、依頼主は電話に出ない。結局依頼はおじゃんで金は入らない。それどころか情報料で金がとられるばかり。ああ、貧しいなあ、と嘆くと、スマートフォンをポケットにしまった。
「動かないで」
 女の声がして、首筋にひやりと凍てつくような金属の感触を覚えて、クダンは立ち止まる。首筋にはナイフ、背後にはガーネットが立っていた。
 そこは橋やトンネルが入り組んだ人目に付きにくい構造になっており、民家もないことから、通行人にも期待できない、まさに街の死角のような場所だった。
 迂闊だった、と後悔しても、既に遅かった。
「ガーネット、さんか」
 ガーネットは切れそうなほど鋭利な笑みを浮かべて、「さっきの男、情報屋ね」と感情のこもらない声で言った。
「探偵のクダンさん。言ったでしょう。人生なんて階段のほんの一段だと。あなたは今、それを踏み外そうとしている。その先には、何があると教えたかしら」
「死、か」
 そうよ、とガーネットは甘い声で言いながら、首筋を撫でるようにナイフの切っ先を動かす。
「でも、あなたもカフカを読んだことがあるというから、カフカに免じてその命、猶予してあげる」
 気づくと、クダンの足元に犬のカフカがすり寄っていて、無邪気に尻尾を振っていた。
 お前のご主人、どうにかしてくれ、とクダンはカフカに祈りつつも、首筋に走る感触を緊張感をもって辿っていた。
「わたしに協力しなさい。写真の女、矢崎秋奈を知っているのでしょう」
 ああ、とクダンは震えながら、ゆっくりと頷く。
「彼女を見つけて。見つけられたら、階段を上り下りしなくて済むわ」
「だが、彼女は死んでいるんだぞ」
 ガーネットは微笑んで、「二度は言わないわ。できなければあなたは死ぬ。それだけよ」と言ってナイフを引き、立ち去って行った。カフカが吠えながら、彼女の後を追っていく。
 死者を見つけろだなんて、そんな無茶な、とクダンは腰が砕けたようにその場に座り込んだ。
 道の先には、小さな階段が待ち受けている。

〈続く〉


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