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感情中毒

 人間は感情を失った。
 この世には娯楽が溢れている。本を読むことは時間の浪費である、と主張した経済学者がいたが、その意見に同調する者のなんと多かったことか。いつしか本を読むという文化は自然と廃れていき、それに伴って人間はまず、複雑で微妙な感情の機微を感知する能力を失い、やがて根源的な喜怒哀楽すら失った。
 人間は感情を失って久しい。新たに生まれてくる子供たちは、遺伝子から感情というものが排除されてしまっているかのように、無感情だった。生まれたときに産声を上げることもないし、お腹が空こうがおむつが気持ち悪かろうが、泣くということをしなくなり、子育てはかつてに比べて格段に難しい仕事になっていた。
 人間はそれに危惧を覚えるべきだったが、危惧するよりも先に金儲けのことしか頭にない金の亡者が「感情」という娯楽に目をつけ、特殊な成分の入った薬液を摂取することで、感情を疑似的に体感できるようにした。
 世界中でその薬液は飛ぶように売れ続け、継続的に摂取したものに依存性をもたらすものであることから、感情中毒という言葉が流行語に選ばれるほど人々は感情を追い求めた。
 スバルはごく平凡な子供だったが、突然変異というか先祖返りというか、感情をもって生まれてきた。そのため、親からは育てにくい厄介な子供というレッテルを貼られ、成長すれば異端児として、集団から弾かれ、劣等生として級友にも教師にも顧みられなくなった。
 彼はある日、学校からの帰り道に古く細い路地があったことに気づき、冒険心を刺激されてそこに入って行った。もしスバルに感情がなかったとしたら、そんな路地など無価値だと打ち捨てていただろう。
 スバルには分からなかったが、そこには飲み屋の提灯や暖簾が並び、怪しげなパブの看板が立っていた。そして最奥まで行くと、突き当りに「書店」という看板が掲げられた古い日本家屋の平屋で、瓦が抜け落ちているようなあばら家が建っていた。
 スバルは好奇心をこの上なく刺激された。「書店」という言葉は見たことがなかったけれど、見ていると心がふつふつと沸き立つというか、喜びや楽しさのような躍る感情が泉のように湧き出てくるように感じられたのだ。
 誰も彼に感情というものを教えなかったから、スバルは自分の内に生じた気持ちを表現する術をもたなかったものの、その甘く陶然とするような蜜を脳に直接とろりとかけられたような甘美さは、天上の福音のようにも思えた。
 建付けの悪い引き戸を引っかかりながら開け、中に入ると、店の中は薄暗かった。棚のようなものが店の中にひしめくように並んでいて、その中に何か箱のようなものが収められているな、とスバルは思った。今はデジタル化で紙の本などは一切使わず流通していない。図書館すらデータベースを検索する端末しか並んでおらず、そもそも誰も利用しない。だからスバルがそれを本だと知らないのも無理ないことだった。
 すみません、と何度も奥に声をかけたが、人が出てくる気配はまるでなかった。ひょっとしたら留守かもしれない、と罪悪感を刺激されながらも、スバルは目の前の本に手を伸ばす、その好奇心を抑えることができなかった。
 スバルは一冊の本を手に取り、その表紙を開く。彼は、一行目の文言を目にした瞬間からその虜となり、激流のような歓喜が自分の内側を荒れ狂うのに身を任せながら、ひたすら文字を貪り、ページをめくった。
 物語は、父王を謀殺された王子が思い悩みながらも復讐を決意し、それを遂げていく物語だった。
 ドラマで見るのと、文章で読むのとでは、まるで味わいが違った。文章が想像力を刺激し、その刺激が感情を激しく、だが繊細に揺さぶり、頭の中に自分だけのイメージを構築して、世界を作り上げていく。
 文章による想像は、神がなしたと言われる世界の創造のレプリカだ、とスバルは思った。本を読んでいる瞬間、自分は創造主である、という最上の快楽を味わうことができる。
 スバルは読み終えたとき、すっかり外が暗くなっていることに気づき、書店の床に投げ出してあった鞄を背負い、慌てて店を出て家路に着いた。帰宅が遅くなったことを、両親は注意こそしたものの、「怒らない」ということがスバルには不思議でならなくなっていた。
 彼は次の日も授業中あの書店の夢想ばかりしていて、授業の内容はまるで頭に入らなかった。授業が終わると一目散に学校を出て、あの暗い小路を探し求めたが、どれほど探してもあの小路は、そしてあの書店は見つからなかった。
 スバルは読めないのなら、自分で書こう、とアンティークショップで紙とペンを買い求め、自分の作品を書き始めた。
 完成したその物語は、スバルの苦心もあって、紙を媒体にした高級品として完成したが、あまりに人の感情を刺激しすぎて危険ということで当局から発禁処分を受け、ほとんどが焚書の憂き目に遭った。
 だが、その火を逃れた一書が、スバルを目覚めさせるきっかけとなった書店に流れ着いていることを、まだ誰も知らない。けれど、いつか誰かが手に取り、スバルの思想を受け継ぐだろう。
 本は滅びぬ。たとえ世界から排斥されようと、求める者が絶えることはないのだから。

〈了〉


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