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蟹壺(第2話)

■これまでの話

■本編

 大学の屋上で、遥か彼方に見える海を眺めながら煙草をふかした。
 いまだに紙煙草なんか吸ってるのかよ、と同窓生には馬鹿にされたが、僕はこれでないと吸った気がしない。昔付き合っていた年上の彼女から教えられたハイライト。食後にはこれを吸わなければ気が済まない。
 唇を絞って、煙を強く吐き出すが、それは勢いよく前方に吹き出されるものの、あっという間に屋上に吹きすさぶ風に飲み込まれて、右方向になびいて散り散りになり、溶けて消える。
 今日はいやに風が強いな、と僕は不吉な感じを覚えながら、屋上の手すりに肘を預けて、その上に顎を載せた。強くくわえていないと、煙草自体が吹き飛ばされそうだ。
 足元では無数の学生が働きアリのように建物から出たり入ったりしていた。子どもの頃、アリの巣を小石でわざと塞いでやったり、細い木の枝を突っ込んで巣をかき回して遊んだりしたことを思い出した。逃げ惑うアリを、靴で一匹ずつ踏んで潰した。今思い出せば理解できない行動だが、子どもの頃はそれがこの上ない快楽を伴った娯楽のように思えたのだ。子どもの残虐性は、無垢なだけに時に大人を凌ぐこともある。
 三回目の春。周りはもう就職活動だ、卒業研究だ、と浮足立っている。けれど僕にはそのどれもが馬鹿馬鹿しかった。あくせく働く場所を求めてあくせく動き回るのも、大学生活の集大成として卒論に精を出すのも、どれも愚かな働きアリのすることだ。アリとキリギリスでは、勤勉なアリが成功するが、アリの努力など、もっと大きな力の前には蟷螂之斧と等しいものになる。僕が踏み潰したアリが、その運命を逃れられなかったように。
 だが、卒業しなければならないときは、確実に近づいている。その足音が、もうすぐ後ろまで来ている。僕はそれがやってきたとき、自分がどうするのか、どのように生きるのか、回答を用意して答えなければならない。そうでなければ僕は、社会からの落第者というレッテルを貼られて、親のすねにかじりついて生きねばならなくなる。
 僕は冷笑的な自分を押し殺してアリになるのか。それとも己の感情の赴くままに自分を解放してキリギリスとなるのか、あるいはそのどちらでもない道を選択するのか、決められずにいる。だからこうして立ち入り禁止の屋上にこっそりと一人忍び込んで煙草を吸っている。
 大学の鍵なんてのは開けやすいシリンダー錠だ。煙草を教わった昔の彼女に基本的なピッキングについても教えてもらったから、屋上に忍び込むことなんてことは、容易な仕事だった。スリルも何もない、単調な作業。鍵で開けるか、針金で開けるかの違いしかない。
「あれ、先客がいる」
 声がして振り返ると、屋上の出入り口のところに女が立っていた。
 女は黄緑色のブラウスにチェリーピンクのチュールスカートを履いていて、足元は黒いミュールだった。髪は真っ黒なセミロングで、あどけなさが残る童顔だが、整った顔立ちをしていた。だがそれ以上に、彼女の目の印象は鮮烈だった。昏い深海の底のような、青というより黒に近い青、そんな色に輝いて見える瞳に、僕は強く引き込まれ、自然と煙草を手すりに押しつけて消していた。
「あたし、お昼食べに来たんだけど、いいかな」
 女は弁当箱の入った包みを振って示すと、歯を見せて無邪気に笑った。
「あ、ああ。構わないんじゃないか。別に」
 そう、と言って女は僕の隣にスカートを捌きながら腰かけると、「あたし、いずみ。お兄さんは?」と弁当箱を開きながら僕を見上げて問うた。
「……真悟。片岡真悟」
 名乗りながら、僕もいずみの隣に腰かける。弁当箱を横目で覗くと、まるで子どもの弁当のように、丸く小さなおにぎりが二つ入り、玉子焼きやウインナー、唐揚げ、ピーマンの炒め物、とシンプルなおかずが並んでいるのだが、その中に一つ、目を引くおかずが入っていた。
「それもおかず?」
 いずみが箸で摘まみ上げたそれを指さし、僕は訊いた。いずみは何でもないことのようににこやかに頷くと、口に含んでごりごりと音をたたせながら咀嚼した。
 沢蟹だった。唐揚げ、というより素揚げに近いように見えた。グロテスクに思えるそれをいずみが口に含み、音をたてながら咀嚼している。その姿はなぜか淫靡なものに思えて、僕はごくりと生唾を飲んだ。
「真悟はさあ。あ、真悟って呼んでいいかな?」
「いいけど」
 いずみは弁当箱の上を箸を迷わせて、玉子焼きを掴むかに見せて沢蟹を掴んだ。僕は極力表情に出さないように心がけていたものの、内心では玉子焼きを掴むように見せたときは、沢蟹を掴まないことに落胆していたから、顔に出てしまっていたのかもしれない。いずみの目は弁当箱にではなく、僕の顔に注がれていた。
 そしてその目は僕を愛撫すると同時に打擲もした。愛すると同時に憎みもした。その背反する感情が、僕を恍惚とさせた。
「沢蟹、食べたことないの」
 彼女は蟹の腹を摘まみ、口元に近付けていく。厚く、鮮やかな紅の彼女の唇が触れようとしている。それは蟹なのに、僕自身のように思えた。蟹ではなく、僕の唇を、いずみは吸おうとしている。そう思うと、体の芯の部分から震えがきて、危うく吐息を漏らすところだった。
「食べる?」
 僕は糸で引っ張られたように頷いた。それが自分の意思なのかそうでないのか、もはやよく分からなかった。
 いずみは口角をゆっくりと上げて、声を発さずに「いいよ」とはっきり唇の動きで言うと、沢蟹の半分を齧り取り、口の端からはみ出た蟹の足をたおやかな手つきで拭うように口の中に押しいれると、残り半分を僕の唇に押しつける。ちぎられた蟹の断面が唇に接し、それがいずみとのキスを想像させた。
 僕は震える唇を開きながら、いずみの蟹を口の中に受け入れる。箸が口中から抜き取られると、僕は蟹を咀嚼し始める。
 僕らは互いにごりごりと蟹を咀嚼し合いながら、見つめ合っていた。蟹の足が歯茎に刺さる。痛みと不快感を生じる。だがそれすらも、いずみと共有しているのだと考えると、嬉しくさえなってくる。
 なぜ僕は、つい数分前まで知らなかった女にこんなにも夢中になって、興奮させられているのだろうと思った。冷静になってみるとありえないことだ。一目ぼれ、というかわいいものでもない。いずみからは、魔性の吸引力といったものが生じているように思えてならない。出会った男を引き込んで破滅させる、人外の魅力とでも言うべきもの。
 それならば、僕は退かなければならない。そうでなければ、僕は破滅する。沢蟹を咀嚼する口が止まる。その場に吐き捨ててしまいたくなる。そして、そうしようと考えたとき、いずみの両手がふわりと僕の頭を包み込み、引き寄せると、彼女は僕にキスをした。
 いずみは舌を蛇のようにぬるりと差し込んで僕の唇を開けて口の中に入り込むと、彼女の口の中の沢蟹を僕の口の中へと移した。彼女の唾液と一緒に、分かたれた沢蟹の半身が口の中に流れ込んで、僕の中にいた半身と合一となる。
 僕の頭の中は痺れたようになり、手足は痙攣してまともに動かなかった。いずみの口が離れたとき、彼女の舌は赤く長く、血に塗れた蛇のようで、その舌はゆっくりと彼女の口の中に引き込まれていった。
「あたし、真悟、気に入ったなあ」
 いずみは指で口の端を拭うと、なんでもないことだったかのように平然と弁当を食べ始めた。
 僕の頭の中は相変わらず沸騰したようで、脳が茹だって硬直してしまったように、僕はものを考えることができなかった。口の中の蟹を粉々になるまで咀嚼し、嚥下した。唾液の一滴とて残さないよう、何度も飲み込んだ。口の中に何も残っていないことは分かっていながらも、飲み込み続けた。
「ねえ、あたしの部屋にこない?」
 いずみは弁当をそこそこに、包んでしまうと、立ち上がって僕の腕を引いた。
 腕はだらりと力が入っておらず、いずみに引っ張られたそれは、どこか他人の腕のようで、引っ張られているという実感がなかった。
「君の、部屋」
「そうよ。あたしの部屋。真悟には特別、いいものを見せてあげる」
 そう言っていずみは僕の返事を待たずに腕を引いて歩いて行く。屋上から降りて、一階のエントランスに辿り着く頃には、僕の頭は正気とはいえないけれど、麻痺からは解放されていて、物事を考えることができるようにはなっていた。
 いずみにこのままついて行っていいのだろうか。
 僕はついていきたい気持ちと、やめるべきだという理性のせめぎ合いに悩んだ。いずみは普通の女ではない。これまで見てきた誰とも違う。服装とか顔とか、そんな次元ではない。存在が、男を招き寄せ、食らいつく化生のような妖しさを湛えているのだ。
 いずみについていけば、これまでに知らなかった快楽が味わえるのではないかという期待が、中毒性の高い麻薬のように、僕の頭に彼女について行くよう命じていた。一度味わうと、容易には麻薬から抜け出せないとは聞いていたが、それがまさしくその通りなのだと身をもって実感することになるとは、まさか思わなかった。
 あの蟹の口移しのキスで、僕はほとんど絶頂するような思いを味わった。それ以上の世界があるのなら、この身を破滅に晒しても見てみたいと思ってしまうのは、僕が愚かな男であるからだろうか。いや、たとえ女であったとしても、彼女の魅力に抗うことなどできはしない。
 僕はいずみに引かれるままに大学の構内を出、幹線道路を真っ直ぐに歩き、途中で小路に何度か曲がって入り、辿り着いたアパートの前に立っていた。
 そのアパートは古いわけではないのだけれど、入り組んだ小路の奥にあることや、モスグリーンの外壁などから、どこか重苦しい、暗い雰囲気が漂っていた。
 息が詰まるような空気に僕の気持ちも一瞬萎えかかるのだが、強く腕を引かれると、磁石のようにいずみについて行かざるをえなかった。
 外階段を上っていき、西側の端がいずみの部屋だった。鍵を開け、中に入ると、水の匂いがした。いや、水には匂いなどないのだが、なぜか部屋の中なのに水がいっぱいに張ってあって、そこに胸まで浸かっているような、そんな錯覚を抱かせる匂いを感じた。だから水の匂い、という言葉が真っ先に出て来たのだと思う。
 いずみが言うにはアパートは2DKで、玄関から廊下が真っ直ぐに伸び、途中右手にトイレと風呂場が、左手にキッチンがあり、正面奥が一続きになった洋室と和室で、いずみは区切って使用しているらしく、和室の戸は閉じられていた。
 洋室のダイニングテーブルに着くと、いずみが冷えた緑茶を出してくれた。
「ああ、いけない」とキッチンの方から聞こえてきて、「どうした」と僕は腰を浮かしかける。
 するといずみがキッチンから戻ってきて、「ごめんなさい。お茶菓子が切れちゃってたの。買って来るからここで待ってて」と財布を片手に出て行こうとする。
「いや、いいよ。お菓子は。お構いなく」
「そういうわけにはいかないわ」
「じゃあ僕が」
「ううん、真悟は待ってて。すぐだから」
 僕は渋々分かった、と頷くと、「いい子ねえ」といずみは微笑んで僕の頭を撫で、するりと布が風になびくように離れると、部屋を出て行った。
 残された僕は手持ち無沙汰になり、何気なく部屋を見回してみる。
 なんの変哲もない部屋だった。ダイニングテーブルがあり、そこから正面にテレビが置いてあって、テレビの対角線上にステレオと、Wi-Fiのルーターが置かれている。別の対角線上には本棚と写真立てや小物を載せたチェストが並び、ダイニングテーブルの真ん中には手編みと思しきマットが敷かれ、その上に生花が活けてある。寡聞にして知らない花だが、オレンジ色が鮮やかな花だった。それと、ドライフラワーなどで作った大きなハーバリウムが置かれていた。
 ベッドなどはないから、寝室は和室なのかもしれないと思った。固く閉じられた和室の扉の向こうに、いずみの秘密が横たわって僕を待っているかもしれないと考えると、抗いがたい誘惑が僕の手を引くのを感じた。
 だが、いやだめだ、と理性で強く欲望を抑え込む。僕は気を紛らわせるために本棚を眺めようと立ち上がる。その拍子に、吊り下がっていたペンダントライトに頭をぶつけ、痛みに呻く。忌々しいとそのライトを眺めると、ライトの傘のところ、不自然な位置に注意書きのテープが貼ってあった。訝しく思って触れると、角のところがめくれていて、一度剥がして張り直したらしいと分かった。
 剥がしてみると、貼ってあった場所には何も異変はない。思い過ごしか、と思って何気なくテープの方を見てみると、粘着面のところに黒いマジックで文字が書かれていた。直線的な、角ばった文字で「ニゲロ」と書いてあって、僕はさあっと血の気が引いた。
 やはりここに来たのは間違いだった。誰が残したかは分からない。ひょっとしたら、いずみが残したのではないだろうか。自分も何かに囚われていて、そこから助けてほしくて男を連れてくるが、やはり男を無事に帰したくて、何か、の目を盗んでそのメッセージを書き残したとか。
 いや、駄目だ。思考が侵食されている。いずみを信じたいという根拠のない、狂信者じみた妄執が僕に纏わりついている。そこから離れられない。
 部屋を出よう出ようと思うのだが、足が部屋の外へと向かわない。テーブルのところでまごまごしている。強い意志をもって足を動かそうと試み、成功するが、なぜか僕は本棚に向かっていた。
 本棚には最近のものを中心に、小説ばかりが並んでいた。エンタメよりも純文学寄りの作品が多いように感じられた。
 僕も読んだことのあるものもあったが、ほとんどは読んだことないものだった。難しそうだ、と敬遠したものばかりが並んでいる。僕はその中の一冊を手に取ると、ぱらぱらとページをめくる。ページはだいぶ日焼けしていて、水の中にくぐらせたのかというほど染みができて、濡れて乾いた紙特有のぱりぱりとした触感があった。本棚は日に当たっていないし、水の気配もない。なのになぜこんなになってしまうのだろう、と僕は訝しく本を検め、ひっくり返してみると、裏表紙のところに沢蟹がくっついていて、ぎょっとして叩き落とした。
 蟹はかさりという音をたてて床に落ちるが、逃げるかと見せて僕に近寄るなど、そこから離れずにうろうろとしていた。
 その様が僕の胸をむかむかとさせ、獰猛な気持ちにさせた。僕は足を持ち上げると、蟹目掛けて思い切り足を振り下ろした。
 足は蟹を踏み潰し、卵の殻を割ったような炸裂音と、湿った音を響かせた。蟹の殻から血のような赤い汁が溢れてカーペットを汚した。その赤い汁には粘性があって、僕が足を持ち上げてもついてくるほどだった。べたべたと不愉快だったので靴下を脱いで臭いを嗅ぐと、鉄さび臭い、血の臭いがした。
 這いつくばって、脱いだ靴下でカーペットの染みを懸命に拭き取るが、粘着力のあるそれは拭いても拭いても染みを広げるばかりだったので、諦めて靴下を床に叩きつけた。すると目の前を先ほどとは別の蟹がちょこちょこと歩いて行く。今度は叩き潰さずに、様子を窺っていると、どうやら和室の方へ向かうらしい。
 ゆっくり追いかけ、蟹の様子を見ていると、蟹は和室の扉の角にある人為的な穴から中に入っているらしかった。恐る恐る穴を覗き込んでみても、中は真っ暗で何も見えなかった。

〈続く〉


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