見出し画像

スパイ・オア・ストーリーテラー

 病室の窓から外を眺める。青空に無数の魚影のような雲が泳いでいる。
 午後のロードショーを見終えて、余韻に浸りながら缶コーヒーを飲んで一息つく。
「ああ、水瀬さん、また体に悪そうなもの飲んでますね」
 巡回の女性看護師の鹿屋さんは眉を顰めながらそう言った。
「何か楽しみがないと、長い入院生活は耐え難くて」
 そう言って点滴のチューブを持ち上げて肩を竦めてみせる。
 鹿屋さんはああそうですか、と呆れたように言って私の脇に体温計を差し込み、腕に血圧計のベルトを巻いてポンプで空気を送り、腕に圧力をかけていく。
「それに自販機で売ってるんだもの、飲んだって構わないでしょう」
 飲まれて困るものを売っておくのが悪い、と思ったが、何も私のように病気で入院する人だけとは限らない。怪我だってあるし、食べ物に何の制限もない疾病だってあるだろう。
「またお腹から出血しても知りませんからね」
 うっと言葉に詰まる。そう言われると返す言葉もない。入院して出血したのは退院予定の前日だった。錐で突いたような鋭い痛みを腹部に感じたら、便に血が混じっていて、胃の手術痕から出血したのだろうということで、退院の予定は白紙になってしまった。
「起きて何か書いているのも、ほどほどに」
 鹿屋さんはスマホとワイヤレスキーボードを一瞥すると、生徒を叱りつける先生のような態度で私をたしなめると、ワゴンを押して病室を出ていった。
 私は小説の続きを書こうとキーボードを叩くが、鹿屋さんが入ってくるまでは浮かんでいたアイデアが、霧のように細かな粒子となってばらばらに散らばってしまっていることに気づく。
 ああ、と額に手を当てて嘆き、缶コーヒーをやけになって飲み干す。腕に点滴を刺した場所がむず痒くて、点滴の周囲をかきむしるが、痒みはおさまらず、苛立ちばかりが募る。
 ルームシューズを履いて立ち上がり、点滴台を押して病室を出る。廊下には数人の看護師がいて、病室を出入りしている。
 私は飲み物を買いに行くふりをして、自販機のある食堂の手前で曲がり、私の病室とはナースステーションを挟んでちょうど対角線上にあるグレードの高い個室の前に立つと、ノックをして返事も待たず扉を開けてその中に入る。
 部屋の主の少年、ユイトくんは私の姿を認めると笑顔になり、「来てくれたの、水瀬さん」と傍らの椅子を示して座るよう勧める。
 私はお言葉に甘えて椅子に座ると、「どうだい、調子は」と彼の足を見やる。
「うん。まあまあだね」
 ユイトくんは自転車同士の事故に遭って、両足を骨折してしまっていた。特に左足の損傷が激しく、再び歩けるようになるまでには長いリハビリが必要だろうということだった。まだ小学校五年生で、サッカークラブに所属しているというのに、両足を砕かれるのは何より辛かろうと思った。
「それで水瀬さん、今日はどんな物語を考えて来てくれたの」
 ユイトくんが目を輝かせながら見上げてくる。
 以前デイルームで小説を書いてnoteにアップしている途中なのをユイトくんが見つけて、興味を示したので、私が小説を書いていることを教えてあげた。すると興味を示して、何か面白い話を聞かせてとせがむので、看護師の目を盗んでこうして彼の病室まで遊びに来ているというわけだ。
「今日の物語は、病院で暗躍するスパイを捕まえる話だ」
 行こう、とユイトくんの手を取って彼を立たせる。いつの間にか私たちは病院着ではなく、黒いスーツを身にまとっている。
「水瀬さん、スパイって」
 しっ、と人差し指を立てて唇に当て、そろりと周囲を見回す。
「誰が敵か分からない。知り合いが出てきても油断するな」
 分かった、と真剣な表情でユイトくんは頷く。
 私が先行して廊下に出て、人気がないことを確かめると、ユイトくんを手招きして、彼も廊下に出てきたところで懐から銃を抜いて手渡す。
「敵だと思ったら迷わず撃て。迷いは命取りになる」
「で、でも、銃なんて撃ったこと」
 私はユイトくんの頭を掴むようにして撫でる。
「大丈夫だ。君は凄腕のガンマンだ。そう信じれば、ここでは問題ない」
 ユイトくんが渋々頷くのを見届けて、私は微笑を浮かべると病棟の入口に向かって走り出す。
「侵入者だ!」
 ナースステーションから男性の看護師が出てくるので、私はすかさず腰の銃を抜いて振り返りざまに引き金を引く。
 男性看護師は銃を抜いたところで胸を撃ち抜かれ、机に突っ伏すように倒れた。
「ユイトくん、早く来い!」
 銃声を聞きつけて、病室から患者が飛び出してくる。各々銃などの獲物を持っている。私は牽制で射撃すると、病棟入口のロックを操作パネルで暗証番号を入力して開ける。
 扉が開くとユイトくんを先に行かせ、私は患者たちが近寄って来ないように牽制しながら後退し、エレベーターに乗り込む。
 一階に辿り着くと、ユイトくんの主治医の金木医師がライフルを持って待ち構えていた。
 撃つ暇を与えては、と私は扉が開いて金木医師の姿を視認した瞬間に突進し、体当たりを食らわせる。私たちはもんどりうって倒れたが、間抜けなことに倒れた衝撃で銃を手放してしまい、廊下を滑って離れていってしまった。
 体勢を立て直そうとしたところで、私の額にライフルの銃口が当てられた。冷たいくろがねのはずなのに、額は燃えるように熱かった。
「これで終いだな」と金木医師がにやりと笑った瞬間、銃声が炸裂して、金木医師の頭が吹き飛んだ。
 振り返ると、震える手でユイトくんが銃を握って立っていた。「み、水瀬さん。僕」
「助かったよ、ユイトくん」
 私はユイトくんを抱きしめて、銃を構えたまま硬直した彼の腕を優しく下ろしてやる。すると廊下を走る足音が複数響いてきたので、急いで一階病棟入口のロックを解除し、病棟の中に滑り込むと、物陰に身を隠して息を潜めた。
「ねえ、なんで病院に隠れているスパイを追う僕らが、病院の人たちから追われてるの。これじゃまるで僕らが……」
 しっ、と人差し指を立てて唇に当て、首を横に振った。
「細かいことはそれ以上気にするな」
 弾倉を開けて残弾を確認すると、銃を右手に構えたままゆっくりと物陰から出て、低い姿勢を保って移動し、ナースステーションのカウンター下に張り付く。
「侵入者が出たらしいぞ」
「またか。最近多いわね」
「なんでも奴らスパイ狩りをしてるらしい」
「はっ。スパイなんているわけないでしょうに」
「ははは。まったくだ。奴らのほうがよっぽどスパイらしいぜ」
 二人の看護師の会話を聞いていて、どうやらまだこのフロアに侵入したことはばれていないようだ。それと声や物音から察して、今このナースステーションには二人の看護師しかいない。機先を制するなら今しかない。
 だが、銃声を聞きつけられれば、他の病室にいる看護師や患者が出てくる危険性は高い。やるならば、銃を使わず始末するのみだ。
 いや、それも危険だ。ここは気づかれないように通り過ぎるのが得策だろう。
 看護師たちの様子を確かめつつユイトくんを誘導し、ナースステーションのカウンター下まで移動させると、壁伝いに足音を殺して歩く。
 ナースステーションの入口が切れ目になっていて、壁に隠れることができないが、ちょうど二人の看護師は死角にいるらしく、こちらが見えない状態だった。
「スパイって、どこにいるの」
 押し殺した声でユイトくんが訊ねる。私の得た情報が正しければ、「107号室」に入院している患者を装っているのがスパイらしい。大部屋でなく個室に入っていてくれるのが好都合だった。大部屋では他の患者の目も欺かねばならなかったところだ。
 あとはなるべく痕跡を残さず、速やかに対象を始末すれば任務完了だ。
 107号室の前に立つ。窓から中を覗いてみるが、カーテンが引かれていて中の様子は窺えない。
 私はユイトくんに待っているよう伝え、スライドドアをゆっくりと音もなく開けて中に滑り込み、カーテンの隙間から部屋の中を覗き見る。
 ベッドの上には中年の男が横たわっていた。どこか怪我している様子もなく、頬がこけてはいたものの、弱ってやつれているというよりは、豺狼のような印象を与える男だった。縮れ毛の黒髪を肩まで垂らし、天井を見つめる目は爛々と輝いて見えた。
「そんなとこで尻込みしてないで、入ってきたらどうだ」
 男は渋くも高いよくとおる声でそう言うと、ベッドから上半身を起こした。
 奴がスパイだ、間違いないと確信した私は銃を構え、狙いを定めて撃とうとした。
 だがその瞬間男は目にも止まらぬ早撃ちで私の銃を吹き飛ばした。恐るべき速さと精度の射撃だった。
「形勢逆転だな。スパイ狩りの諸君」
 男はベッドの上に立ち上がると、天井に付きそうなほど上背があった。
 破れかぶれだ、と男に向かって突っ込むが、走り出した一歩目の右足の太ももを撃ち抜かれ、私はそのまま横に転がって激痛に悶えた。
「待て、動けば撃つぞ」とユイトくんが銃を構えて踊り込んでくる。
 だめだ、宣言する前に撃たなければ、奴には通じない。逃げろ。
 そう言いたかったが、声が出なかった。出るのは痛みにあえぐ吐息ばかりと、情けないことこの上なかった。
 ユイトくんが引き金に指をかけた瞬間、男はユイトくんの銃も撃ち抜き、悲鳴をあげてユイトくんは倒れた。
「迷った者から死んでいく。まだ若いというのに、哀れだな」
 男は倒れたユイトくんに銃口を向けた。その一瞬私から注意がそれたので、懐に手を入れてナイフを抜くと、男に向けて放った。
 ナイフは男の右手を貫き、銃を落とさせることに成功した。
 私はなんとか壁を頼りに立ち上がり、足を引きずりながら男に向かって行く。殴り合いで勝ち目があるようには思えない。だが、何もしなければ殺されるだけだ。
 男は雄叫びを上げて手を貫いたナイフを引き抜き、それを私に向かって投げつける。
 私はすんでのところでナイフを避けると、痛みに耐えかねてバランスを崩し、転倒する。そこへ男の猛烈な蹴りが襲いかかり、私の腹を蹴り飛ばす。
「残念だったな。お前はここまでだ」
 咳き込んで血を吐いている私を蹴り飛ばして仰向けに転がすと男は勝ち誇った笑みを浮かべて私の喉に足をかけた。このまま喉を潰して殺す気なのだ、と思っても、体が痛みのためにいうことを聞かなかった。
 ユイトくんがナイフを拾って男に立ち向かうが、ナイフをかすらせることもできず、ユイトくんは投げられて床に叩きつけられ、意識を失ったようだった。
 万事休すか。諦めがよぎった瞬間、病室の窓に鳥の影が映った。それはどんどん大きくなっていって、鳥の影じゃない、と気づいたときにはガラスが割れて室内に散乱し、影の主が私と男の間を駆け抜けた後だった。
 男は短い悲鳴を上げ、私の喉から足を上げ、よろめいた。男は太ももを鋭利な刃物でざっくりと切り裂かれていた。
「最後の始末くらい、あなたがつけてください」
 影の主はそう言って落ちていた銃を私に放り投げた。
「形勢逆転だな。スパイ君」
 男は雄叫びを上げながら手を伸ばして掴みかかってくるが、それより早く引き金を引き、男の額に銃弾を叩き込む。
 男は私とすれ違いざまに倒れ、額から血溜まりを床に広げて二度と動かなかった。
 私はふらつきながらも影の主を見やり、苦笑して礼を言う。
「感謝するよ、鹿屋さん。あなたが来てくれなかったら我々は死んでいた」
 鹿屋さんはユイトくんを助け起こしながら、「礼を言うならここから逃げ延びてからにしたらどうですか?」
と冷たく言い放つが、それもそうだと思ったので肩を竦めながらも彼女の言葉に従って脱出を図る。
「ここで鹿屋さんですか」
 ベッドの上のユイトくんは絶句していた。
「いやほら、彼女そういうクールなところがあるかなって」
 ユイトくんは私と私の後ろに交互に視線を巡らせながら狼狽した様子だったので、何事か、と思って振り返ると、そこにはにこやかに笑顔を浮かべた鹿屋さんが立っていた。
「水瀬さん。人の病室でなにしてるんです」
 笑顔だったが怒っていた。美人なだけに怒った顔は怖い。それも静かな怒りの方が怖い。赤い炎よりも青い炎の方が熱いのと似ている。
「ユイトくんに体に毒になるような話を吹き込まないでください」
 鹿屋さん、僕が頼んだんだ、と懸命にユイトくんも弁護してくれるが、鹿屋さんは聞き入れず、「ユイトくんは優しいね」とユイトくんの頭を撫でる始末。
「ほら、水瀬さん。自分の病室戻ってください」
 渋々頷いて、ユイトくんに別れを告げると、「また来てくださいね!」と彼が言うものだから、「もう来ません!」と鹿屋さんの非難がましい目に私がさらされる羽目になる。
「また血が出たら退院延びますよ」
 面目ない、と私はしょげて俯く。
「スパイからも病気からも助けますけど。水瀬さんによくなる気があるのなら」
 そう言った鹿屋さんに咲いていたのは、暖かな日向のような笑顔だった。

〈了〉

■サイトマップは下リンクより

■マガジンは下リンクより


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?