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件の如し(第7話)

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■本編

7、ガーネット
 随分時間がかかってしまった、と冷たい夜風を顔に浴びながら、ガーネットは月を見上げた。ほら、月がもうあんなに高い。
 後ろをついて歩くカフカも腹が減ったのか、くうんくうんと切なそうな鳴き声を上げながらも、忠良たる侍従のように一定の距離を保って歩いている。
 ガーネットは人通りのすっかりなくなったアーケードを、革のブーツの踵を高く鳴らしながら進む。アーケードを南に抜けたところに、閑古鳥が鳴いているバー「シュロス」があった。彼女はそこを目指し歩いていた。
 あの白コートの女、中々手強い相手だった。ここ数年で言えばトップクラスだろう。明らかに同業者。だけど「事務所」でも見たことないし、フリーの殺し屋の中にも見たことがない。在野にはまだあれほどの手練れが潜んでいるのか、と思うと辟易した。ガーネットは誤解されやすいのだが、決して好戦的な性格ではない。仕方ないから殺し、という手段を選ぶだけだ。できるなら争いなんて面倒くさいから避けたい。そのためにも早くこの稼業から足を洗わないと、と思う。
 そのために、矢崎秋奈とカクタス。この二人だけは息の根を止めておかないと、と考える。カクタスはこの裏社会の秩序を破壊しようとしているように見えた。旧態依然としたものを打ち壊し、自分が頂点に君臨しようという野心が透けて見える。ガーネットも裏社会の秩序、なんてものに拘りも愛着もないのだが、それでもそれを壊されることで、涙を流すものが出てくる。自分の後輩の娘たち――、将来は暗殺者になる者、娼婦になる者、行き先は様々だが、彼女たちもきっと無事では済まないだろう。彼女たちがこの世界でしか生きられないのなら、せめてその世界だけでも守ってやらなくては、と先輩として思うのだった。
 ガーネットは物思いに耽りながら歩いていたことに気づき、その迂闊さに舌打ちして、くるりと振り返って「隠れてないで出てきなさい」と声がアーケードの天井に反響しながら広がる。
 青いごみのポリバケツの影から出て来たのは、探偵のクダンだった。
「探偵のクダンさん。どういうつもり。矢崎秋奈を見つけでもしたの」
 見つかってしまったのならもうどうにでもなれと捨て鉢になったのか、クダンは開き直って背広の前を正しながらガーネットに歩み寄り、向かい合って立った。
「殺し屋の間合いに安易に入るのはお勧めしないわ」
 ガーネットが静かに言い放つと、クダンはぎょっとして飛び退く。「冗談よ」とガーネットは可笑しそうにくっくと笑う。
「殺し屋でも笑うんだな」
「なにそれ、馬鹿にしてるの」
 あ、いや、とクダンはしどろもどろになって、降伏を示すかのように両手を挙げた。
「カフカも言っているわ。『歓喜する者も、溺れる者も、ともに両手を上げる。』と」
 クダンが首を捻ると、ガーネットは近づいて行ってクダンの鼻を小突き、耳元で囁く。
「『後者は葛藤を表している。』と。あなたは今悩んでいる。この場をどうやって切り抜けるかを。カフカは真実を見通すのよ」
 クダンは痛いところを突かれて黙り込む。
「殺し屋もね、残念ながら人間なの。こんな稼業に身をやつしていても、流れる血はやはり赤くて、温かいの」
 ガーネットはクダンのネクタイを掴んで引っ張り引きずる。クダンは「痛い痛い」と苦情を叫ぶが、ガーネットは意に介した様子もなく、「ちょっと付き合いなさい、探偵」とクダンを連れて行く。
 クダンは道を引きずられて、古色蒼然とした佇まいのバー「シュロス」の中に押し込められると、カウンターのスツールに座らせられた。
「マスター、今から貸し切りね」
「あいよ。まあ、いつでも貸し切りみたいなもんだ」
 マスターのぼやきはいつものことなのか、ガーネットは気にも留めず店の看板を「close」に引っくり返し、鍵を閉めた。
「マスター、『掟の門』二つ」
 あいよ、とマスターはカクテルを作り始める。
「なぜ私をここに連れてきた」
 クダンは咳き込みながら、首のネクタイを解いてカウンターの上に投げ出した。
「あなた、わたしから情報を得ようとしたんでしょう」
 図星だったクダンは再び黙らせられる。
「だから情報を提供してあげる。それだけのことよ」
 ガーネットはカウンターの上にスマートフォンを置き、着信履歴から「課長」を探し出し、コールする。二コールで課長が電話に出て、「ガーネットか」と発した声を、クダンはどこかで聞いたことある、と思って記憶を辿っていると、筋骨隆々のハリウッドのアクションスターの吹き替えの声にそっくりなんだ、と思い至って手を打つ。
「課長。悪いけどスピーカーにさせてもらってるわ」
「スピーカー? 他に誰かいるのか」
「ええ。協力者になってもらっている探偵のクダンさんに同席してもらっているわ。嵯峨下探偵事務所のクダンさんよ」
 これであなたは逃げられない、とガーネットは悪戯っぽい笑みを浮かべて囁く。クダンは血の気が引き、額を押さえて項垂れる。
「まあ、お前が必要だと判断したならいいだろう」
 じゃあ、これまでの情報をおさらいしておきましょうか、とガーネットは自分がホテルで榎田を殺した顛末からクダンと出会ったことまでを話し、クロダと一戦交えたことはとりあえず伏せたままにした。
「それで、情報は集まった?」
 ガーネットは首筋で緩くカールした毛先を指先で弄んで、カウンターに頬杖を突きながら訊ねる。
「そうだな。まずお前が先日殺した榎田。奴は何かカクタスにとって不都合な情報を握っていたらしい。それでカクタスが動き、あのホテルに殺しに出向いた。だが、お前がすれ違いで始末した後だったというわけだ」
「それじゃあわたしが獲物を奪ったと、怒り心頭でしょうね」
「そうなる。カクタスは手下を放って矢崎秋奈の他にお前の行方も探させているようだ」
 となれば、あの白コートもカクタスの配下か、とガーネットは考える。それならばあの凄腕だったのも頷ける。だが、そうそうはあそこまで腕が立つ人間を集められないだろうとも思う。
「それで、榎田暗殺の依頼主は誰なの」
 それがだな、と課長は言い淀む。「おれも信用していいのか判断つかないのだが」
「なんでもいいわ、言って」
 うむ、と課長は言って、「依頼主は矢崎昂進。矢崎秋奈の夫だ」と疑わしそうな色を隠そうともせず言う。
「矢崎が?」、クダンは目を見開く。
「わたしは分からないんだけど、矢崎ってどういう男なの」
「フレンド&パートナーズという会社の総務部長だ。人当たりのよさそうな顔をした男だが、裏では外国人の工作員をこの国に引き込むパイプ役を担っている。そうして招き入れた工作員どもを日本資本の企業に派遣して機密情報を盗み出したりしている。榎田もそれに噛んでいたようだ。矢崎がなぜ榎田を始末しようと考えたかは分からんが、外務省の高官も矢崎と繋がりがあるようだ。つまり榎田を始末しても外務省へのパイプは繋がったままということだな」
 うーん、とガーネットがこめかみに人差し指を当て、「ちょーっと分からないんだけど」と吐き出す。
「矢崎は他国を利する行為をしているわけでしょ」
「まあそうだな」
「で、繋がっている外務省はこの国の利益を考えて他国と渡り合わなきゃいけないわけよね」
「そうだ」と渋い声で課長が言う。
「するとさ、外務省は他国へ寝返ってるってこと?」
「まあ、一部上層部だろうが。利敵行為に走っているのは間違いないな。情報も人員も駄々洩れだろうよ」
 その他国ってのはどこの国なんです、とクダンは口を挟んで訊く。
 課長はしばらく黙り込んで、「いいのか。それを聞いたら引き返せないぞ」と脅しをかける。
「もとより、引き返させてはもらえないでしょう。そうされるぐらいなら始末する、と彼女の目が語ってます」
 ははは、と課長は愉快そうに笑って、「探偵。なかなか肝が据わってるじゃないか」とクダンを褒めたが、褒められたクダン自身は喜んでいいのならどうなのやら、と複雑な気分だった。
「矢崎が繋がっているのはロシアだ。恐らく矢崎秋奈もロシアの工作員だろう」
「ロシアねえ、腕っぷしが立ちそうなイメージだわ」
 マスターがカクテルグラスを二脚運んできて、それぞれガーネットとクダンの前に差し出す。群青よりもなお濃い青の層が浮かび、その下に淡いオレンジの層が重なる。果物などの余計な装飾はない、純粋なカクテルだった。
「人生の夜明け、生を示すオレンジと、人生の幕引き、死を案じさせる黒に近い青。一生涯のうちに、あなたも答えが見つけられますようにと願って作りました一杯、『掟の門』です。どうか、お召し上がりください」
 クダンは一口口に含んで、その爽やかな口当たりに驚いた。すっきりと飲めるので、何杯でも飲めそうだ。その気色を察したか、ガーネットもカクテルを傾けながら、「だめよ、『掟の門』は一日に一杯しか出さないの」と窘めるように言った。
「他に飲みたいのなら、『審判』なんかがお勧めよ。『変身』だけは止めておいた方がいいわ。アルコールが強すぎて前後不覚になるから。リンゴの風味が美味しいんだけどね」
 クダンが愛想笑いをしていると、課長が「いいか」と口を挟む。「あら、ごめんなさい」とガーネットはクダンに向かってぺろりと舌を出して見せる。
「こちらで調べたところでは、カクタスもロシアの工作員だ。他に潜入している人員と比べると軍内部で随分高い階級にあったようだ。奴は別格と考えた方がいいだろう」
「なぜ、カクタスは矢崎秋奈と反目しているのかしら。同じロシアの工作員なのでしょう」
「矢崎秋奈についてはそうだと確定したわけではないが。カクタスが矢崎秋奈を狙う理由は分からん。狙うなら夫の矢崎の方を狙いそうなものだが、矢崎はノーマークだ。まあ、公安の連中が張り付いているから、カクタスとしても無理はしないのかもしれんが」
 ふうん、とガーネットは呟くと、「探偵さんはここまで聞いてどう思う」と挑戦的な眼差しで水を向ける。
 クダンはそうですね、と考え込むと、意を決して顔を上げる。
「まず、矢崎による榎田の始末。これには疑義があります。矢崎はスケープゴートなのではないでしょうか」
 なぜだ、と課長は問う。
「矢崎は暗殺で事を収めようと考えつくような器の人間には見えませんでした。ロシアへの利敵行為もです。彼は単に操り人形として踊らされているに過ぎないのではと考えます」
「ふむ。だがそれは君の主観に過ぎないだろう」
 手厳しいな、とクダンは苦笑する。「そう言われてしまえば」
「まあいい。続けたまえ」と課長は感情を排した声で言い放つ。
 クダンは課長の声に、就職活動の面接を思い出した。何を言っても揚げ足をとってくるような面接官。その場で地団駄踏んで罵倒してやりたいほどだったが、冷静に対処したものの不採用だった。ちくしょう、と不採用通知を家の壁に投げつけたことを覚えている。
「外務省の関与もこの件からは除外していいと考えます。矢崎秋奈の暗殺にまつわる一連に関しては、ですが」
「だが、カクタスは榎田を殺すべく出向いているぞ。外務省側がカクタスに都合の悪い情報を握っていると考えるべきではないか」
 クダンは首を振る。「その情報の出どころは矢崎ではありませんか」
 え、とガーネットは目を見開く。
「驚いたな。その通りだ。なぜ分かった」
「矢崎からの依頼でガーネットさんがホテルに向かうのと、カクタスが向かうのがタッチの差だなんて偶然、起こると思います?」
「偶然じゃなきゃ、意図して設えられた状況だったってこと」
 ガーネットが身を乗り出す。
「意図してカクタスに情報を流し、あなたたちに依頼して榎田を殺させようとした。バッティングさせるのを狙って」
「だが何のために」と課長は唸る。
「カクタスの首を獲りたかったのかもしれませんね。あなたたち組織サイドの暗殺者を殺しても、組織を揺るがすほどにはならないでしょうし、狙いはカクタスの方にあったと思います」
 甘く見られたわね、とガーネットは不敵な笑みを浮かべる。クダンはぞっとして、「た、例えばの話ですよ」と狼狽する。
「そう考えると、そんな大それたことをあの矢崎が画策すると思いますか」
「こちらの調べでも、確かに外国人工作員を流入させた手腕、あのぼんやりした男に務まるかとは疑わしかったが……」
「矢崎の後ろには誰かがいます」とクダンは断言する。
 その誰かとは、と緊張した声で課長が問う。
「矢崎秋奈。彼女こそこの事件の黒幕です」
 クダンはばん、とカウンターを叩いて主張する。
「矢崎秋奈は、ロシアの工作員なんでしょ。だったらなんで同朋のカクタスの命を狙うの」
 そこなんです、とクダンは腕を組んで考え込む。
「それに焼死体のDNAは自宅で採取された毛髪のものと一致したと聞いているが」
 ああ、それなら、とクダンは顔を上げる。
「あらかじめ身代わりにする人間をそこに住まわせてたんですよ。その間矢崎秋奈はどこかに身を潜めて。その身代わりの毛髪しか発見されませんから、焼死体といくらDNA鑑定されても困らないわけです」
 なるほど、と課長も納得したようだった。
「つまり矢崎秋奈は生きていると」
「そういうことになりますね」、クダンが頷くと、長い話に痺れを切らしたカフカが突然走り出し、クダンに突撃する。クダンはレトリーバーの体重をもろに受けて、スツールからカフカを抱えたままひっくり返る。
 クダンは「いてて……」と頭と腰を擦りながら起き上がると、「この犬ってガーネットさんが飼っているんですか」と怪訝そうに訊ねた。
「違うわ。勝手についてきちゃったのよ」
「でも首輪してますね、飼い犬かな」
 そうみたい、と興味なさそうにガーネットは呟くと、カクテルに口をつけた。
「あれ、でもこの首輪……」
 クダンが首輪に触れると、革の首輪は半ば千切れて脆くなっていて、革がよれた断面から何か異物のようなものが覗いていた。「ガーネットさん、ナイフ貸してもらえますか」とクダンが手を差し出すと、ガーネットはクダンも見ずにナイフを手首のスナップを効かせて放り、クダンの人差し指と中指の間を通して、ナイフは床に突き立った。
 クダンは縮み上がるような思いがしながらも、ナイフを引き抜いて首輪を切って、断面に埋め込まれたものを確かめる。
「メモリーカード。なぜこんなものが、こいつの首輪の中に」
 マスター、パソコン、とガーネットは言って、カフカの隣にしゃがみ込み、その頭を撫でる。「一体なにかな」
 分かりませんね、と言いながらクダンはマスターが持ってきたノートパソコンに、メモリーカードを差し込んで読み込ませる。
 すると当然と言おうか、パスワードを求めるポップアップが立ち上がる。
「こういうときはカフカに頼るべきね。Kafkaでどう?」
 自信満々にガーネットが言うが、そんな馬鹿な、と思いつつクダンは打ち込んでみる。だが案の定、エラーを知らせるメッセージが表示されただけだった。
 しかしガーネットが犬につけたカフカ、という名前を使ったことで、クダンはそうか、犬の名前か、と閃いて首輪を確かめたが、さすがにそこに刻印されているような間抜けなことはなかった。
「ガーネットさん。勝手についてきたってことはこいつ迷子だったってことですか」
 クダンは頭を抱えながら訊ねる。「まあそうね」とガーネットは気のない素振りで答え、課長は「おい、どうなっているんだ」と困惑したように声を上げる。
 迷い犬。迷い犬がいるということは、犬を探している人間がいるはずだ。どこかで聞いた。そうだ。おばちゃんから犬探しの依頼があるって言われたんだ。それでどうした。そうだ、電話は繋がらなくて。おばちゃんはドクさんに聞けって言ったって。ドクさんなら依頼主から名前を聞いているかも。でも、ドクさん電話を持ってない。おばちゃんならどうだ。ひょっとしたら聞いてるかも。
 そう思ってクダンはおばちゃんに電話をかけると、ちょうど店じまいの支度をしていたところで、忙しいんだけど、とぼやかれた。
「おばちゃん。犬探しの依頼あっただろう」
「ああ、あの綺麗な娘さん二人の」
「そうそう。その二人、犬の名前って言ってなかったかい」
 おばちゃんは電話の向こうで長いことうーんと唸っていたが、あ、と明るい声を出して、言ってた言ってた、と子どものように無邪気な声ではしゃいだ。
「ツ、なんとかって、随分言いにくい名前つけたなあって、覚えてたのよ」
「そのなんとかって、なんだい」
 焦れながらクダンは自分に落ち着くよう言い聞かせて、おばちゃんを刺激しないように訊く。
「ツ、ザールとかなんとか言ってたわねえ」
「ツ、ザール?」
 ううーん、とおばちゃんは唸る。
「ひょっとしてツェーザルかしら?」と言いながらガーネットは立ち上がり、クダンを抱きかかえるように背後から身を乗り出してパソコンにパスワードを入力していくと、ロックが解除される。
「ど、どうしてです」とクダンは自分に密着したガーネットの淡く甘い匂いと感触にくらくらしながら、おばちゃんとの通話を切って訊ねた。
「カフカの短編の中にツェーザルという犬が登場するのよ。逃げ出す癖のあるどうしようもない犬で。まさしくこいつに相応しい名前ってわけ」
 ガーネットは笑いながらカフカの顎の下を撫でてやると、カフカは気持ちよさそうに顎を伸ばして甘えた声を出す。「カフカはいつだってわたしたちを導いてくれるんだわ」
 クダンは微笑ましく思いながらも、それどころじゃない、とメモリーカードの中に入っていたデータを検める。
「どうだね、何が入っていた。今回の件に関係のありそうなものか」
 あまり期待した色のない声で言うと、課長は欠伸をかいて、「失礼」と厳格な声で謝った。
「関係あるどころか。多分、これが発端です」
 なに、と課長が身を乗り出したのか、椅子が軋んだ音が響く。ガーネットも口笛を吹いて、パソコンの画面を覗き込む。
「何が入っているの」
「……カクタスに関するデータです。彼が祖国ロシアに対して背信行為をしている証拠ですね。人の流れや計画、指令などの文書。それから金の流れを示した帳簿。これらすべてが、カクタスが密かにロシアを裏切っている証拠になっています。だからといって彼はこの国に肩入れをするのではなく、あくまでも私利私欲、野望と言い換えてもいいでしょうか。そのために行っているようです」
 課長は深くため息を吐き、「なるほど。そのデータは何があっても潰さねばならんわけだ、カクタスは」と重苦しく言った。
「ええ。そうでなければ、彼が祖国に抹殺されるでしょう」
 そして、とクダンはガーネットの方を見て、「これで矢崎秋奈が同朋であるカクタスを狙った理由も説明がつく」と頷く。
「裏切者の処刑」
「そうです。データを囮にカクタスを釣り出し、直接処刑するつもりなのでしょう。それが難しければ、データを本国に届ける」
 なるほど、とガーネットは腕を組んで微笑む。「矢崎秋奈も是が非でもこれがほしい」
 そういうことです、とクダンは頷く。そのときにはもう、二人の間には了解が生まれているようだった。
「矢崎秋奈を殺しても。いや、殺したらカクタスは私たちに矛先を向けるでしょう」
 そうだな、と課長は答える。
「なら、わたしたちが生き残るには、その二人を排除しなくちゃいけない」
 課長、人員の増員は、とガーネットはスマートフォンの前に頬杖を突いて訊ねる。
「すまんが、増員はできない。こちらもカクタスに引っかき回されて、人員が不足している状況だ」
「ふうん。でもそれってカクタスも同じよね」
 何を考えている、と課長は怪訝そうに訊く。
 ガーネットはクダンを一瞥し、「単身乗り込んで、カクタスの首を獲る」と言うとクダンも渋々と言った様子で頷く。
「だが、データは矢崎秋奈も狙って来るだろう。横やりが入る可能性があるぞ」
「だから」と言ってガーネットは目でクダンに促す。
 クダンはため息を吐きながら、「私が矢崎秋奈を引きつけます。データを餌にすれば、すぐに釣れるでしょう」と提案すると、課長は「カクタスが先に駆け付けるかもしれんぞ」と不安そうに口にする。「それでいいんですよ」
 クダンは苦り切った顔で笑みながら、「やりたくありませんよ、そんなこと」と吐き捨てるように言う。
「私はただの探偵です。小説やドラマの名探偵じゃない。あなたたち裏社会の組織やら、スパイやらを相手にして大立ち回りなんてできないんです。でも、今回ばかりはやらなきゃ殺されてしまう。だから、仕方なく、です」
 クダンはカクテルを呷るように一気に飲み干し、息を吐く。
「君の意気は分かった。だが、どうやって矢崎秋奈を抑える。カクタスが先に来てもいいと言うのは」
「カクタス本人はガーネットさんが抑えているからきません。でも、彼の配下はくるでしょう。だから、その配下から守ってもらうんです、矢崎秋奈に」
 ガーネットはクダンが課長に向かって滔々と計画を述べるのを聞いていて、自分の目は間違っていなかったな、と確信する。事件の解決には探偵を引っ張り込むに限る。
 それから二杯、三杯と酒を重ねて、酒に弱いクダンがへべれけになってしまったので、酔いが醒めるまで休ませてやって、と頼んで、カウンターに突っ伏して寝息をたてているクダンの頬にそっとキスをして、「さよなら、探偵さん」と告げると店を出て行った。
 アーケードにはまったく人気がなかった。深夜のことだから仕方ないが、今夜のアーケードは特に不気味ね、とガーネットは天井を眺めながらぼんやりと考えた。
 酒が入っていたことも、油断に一役買ったかもしれない。
 ガーネットは背後に立ち昇る殺気に、背後から投擲された投げナイフに直前まで気づかなかった。咄嗟に回避行動をとったものの、ナイフは右肩と太ももをかすめて通り過ぎ、地面に落ちた。
 振り返った先には、群青のドレスを身に纏ったブロンドの女が立っていた。
 ガーネットは距離を詰めるべくまるで猛牛のように直進する。攻撃を受けても躱せる、という絶対の自信があるからこそとれる戦略だった。
 群青のドレスの女、ラピスはガーネットの頭と足を狙ってナイフを放り、ガーネットは前進する速度を落とさず、左に回転して飛んで躱すと、強靭な脚力で地面を蹴って、なおも加速する。
 ラピスは急所を狙い、躱された後も予測して第二、第三の矢を放つものの、類まれな動体視力と瞬発力をもったガーネットは尽く躱し、ラピスに肉薄する。
 ラピスは舌打ちをして太もものホルダーから一際大きな刃のナイフを抜くと、それで斬りかかる。
 ガーネットは拳でナイフを持った手を打ち、受け流すと、後ろに飛び退きざまに左足の回し蹴りを放つ。ラピスの胴体を狙ったその一撃は彼女の腕に阻まれ、有効打とならない。それどころか、ガーネットの動きがすべて分かっているかのようにラピスはさらに踏み込んで突っ込み、隙が出来たガーネットの軸足に自分の足を絡め、両手でナイフを握り直して振りかぶり、ガーネットをその場に押し倒す。
 ナイフで突き刺されること自体は腕で阻んでなんとか堪えていたガーネットだったが、こうして押し倒されてしまうと得意の足技も使えず、かといって腕で何か仕掛けようにも、ナイフを防ぐだけで手一杯という体たらくに、忌々しそうに舌打ちをした。
 こうなれば、とガーネットは一か八かで、ナイフを阻んでいた腕を緩め、ナイフが顔に突き刺さる前に頭を振って避ける。だが刃は頬をかすめたらしく、その白く滑らかな頬にうっすらと赤い線が走り、血が零れた。
 ラピスはナイフを振り下ろした勢いのまま前のめりになる。ガーネットは自由になった腕でラピスの髪を掴んで引っ張り上げ、無防備になった顎に頭突きを入れる。ラピスは呻いて転がり、その隙にガーネットは拘束から逃れ出て、体勢を整えるととどめを刺すべく、ラピスの頭部に向かって殺さない程度の威力の蹴りを放つ。
 だがやはりラピスはそれを読んでいたかのように蹴りを腕で受け止めると、すかさず立ち上がり、カウンターとばかりに右足でガーネットの頭部へ向けて回し蹴りを放つ。ガーネットも止む無く防御しようと腕を上げかけたところで、ラピスが血とともに折れていた歯を吹き出したため、それが目の辺りに当たったことで、さすがのガーネットも虚を突かれて動きが止まり、ラピスの蹴りをまともに食らって吹き飛ばされ、地面に倒れる。
 まずい、と地面を掴むが、ガーネットは立ち上がることができなかった。先ほどのラピスの一撃は、ガーネットの意識を奪おうとするには十分な威力だった。ガーネットは目の前が暗く閉ざされていくのを感じる。
 ラピスはガーネットの頭を見下ろすように立ち、別の男の声がガーネットの耳に届いた。
「カクタスさんもお喜びになりますよ」
「やはり見届け人がいましたか。私は信用されていないようですね」
 そんなことは、と男は狼狽した声を上げ、「でも、これでラピスさんの信用は間違いないですよ」と阿るように言う。
 ラピスは不満そうに鼻を鳴らして、「箱に詰めてください」と男に指示を出す。
「えっ。首だけあれば十分じゃあ」
「これは私の獲物です。しかもこれほど上等な獲物。五体満足でカクタスさんにお見せします」
 ラピスの声には確固たる決意があった。男もその様子に気圧されたか、「はあ、分かりました」と呆けたように答えて、どこかへ電話をかけ始めた。
 ラピスはしゃがみ込んで、ガーネットの耳にそっと囁く。
「『分かっただろう。わたしの力には限りがある。沈黙するよう、なにかが命じている。さようなら』。カフカの言葉です」
 沈黙。その二字だけがガーネットの脳裏に重く腰掛け、意識を奪い、やがて彼女の瞼は固く閉じられ、暗闇に落ちていった。

〈続く〉


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