「飛ぶ男」がどこへ行くのか、誰も知らない。知ることができない(読書記録13)
■未完の絶筆
初めに触れなければならないのは、見出しの通りだということです。
完結していない、どころか、肌感覚だと五分の一くらいしか物語は進んでいないんじゃないかと思います。
安部公房の死後、フロッピーディスク(今どきの方は知らないでしょうか)から発見された遺作!(書籍版は随分前に出ていますが)と飛びつくと火傷をします。
完結しない物語に思いを焦がすという火傷を。
私もよくよく反省しない男なのですが、完結しない物語で火傷をしたのは今回が初めてではないのです。尾崎紅葉の「金色夜叉」、谷崎潤一郎の「乱菊物語」、ホフマンスタールの「アンドレーアス」……、数々の名だたる、しかし未完の作品には泣かされてきたわけです。誰か続きを書いてくださいと切に願わずにはいられません。
しかし芥川賞も受賞した小説家の辻原登先生とお話をさせていただいたときに、「アンドレーアス」の続編は試みたけれど断念したと聞かされ、辻原先生でもだめなのか、と光明が途絶えた思いでした。
勿論、私の筆力では続きなどとてもとても。口にするだけで無礼です。
ですので、「飛ぶ男」、これから読まれる方はその点にご留意いただいた上でお手に取ってみていただければ。
■ストーリー・登場人物
〇保根治 中学校の教師。頑固な不眠症とうつ病に悩まされている。部屋の一室に不気味でグロテスクなものを収集する趣味がある。名前にちなんで紙細工の骨格標本を飾っているのが自慢。
〇小文字並子 数々の男性遍歴を経て、年季の入った男性嫌い。護身用に空気銃(エアライフル)を持ち歩く。自身が撃ち落とした「飛ぶ男」に並々ならぬ執着を見せ、強引に保根の部屋に押し入り、「飛ぶ男」が隠れているんじゃないかと家探しする。
〇暴力団の男 「飛ぶ男」の目撃者。何らかの役目を振られるはずだったが、その前に絶筆になってしまったようだ。作中では目立った言及なし。
〇「飛ぶ男」マリ・ジャンプ スプーン曲げを得意とするマジシャン。彼がなぜ「飛ぶ男」になってしまったかの経緯は、同じく収録されている短編、「さまざまな父」で語られる。父に追われていて、兄である保根に助力を求めて逃れてくる。
小文字によって撃たれた後、保根の手当てを受け、小文字から逃げるようにして飛び去る。
〇父親 マリ・ジャンプを使って一儲けしようと企んでいる。実は保根の父でもあり、保根には死んだと思わせていた。ろくでもない父親と評され、その父親ぶりは「さまざまな父」で遺憾なく発揮される。自身は透明化の薬を飲んでしまったため、透明人間になってしまう。
大体人物説明が物語の説明になっていますので、ストーリー紹介は省かせていただきます。
■印象に残った文章
たしかにゴールドベルグ変奏曲の催眠作用は専門家の間でも定説になっている。強度の不眠症に悩むカイザーリンク伯爵の注文で、最初から催眠誘導を目的に作曲されたものらしい。
平行線は交わらないって公理があるけど、証明は不可能なんだってね。
空を飛べるほどの特別な人間が、空気銃の弾くらいで傷ついたりするわけがないじゃないか。ただせっかくの獲物を取り逃がしたくなかっただけである。彼女は恋を射止めたのだ。
開け放した窓のさわやかさ、色で言ったら薄荷飴の淡い緑……保根の意識のどこかで、カチリと小さな音がした。『弟』から鉤括弧がはずれ、ただの弟に変わった音だったかもしれない。
融けた蜜の気分に浸っていただけに、いきなり女のわめき声の張り手をくらって、心臓がフライパンの上の猫踊りをさせられた。
男性ホルモンというのは、排ガスの無駄使いで作動している、ひどく原始的なエンジンらしい。浄化装置なしのマフラーから噴出する汚染物質を、男らしさとして誇示しているにすぎないのだ。
そういえば巣をつくるためにガラクタを収集する鳥がいたっけ。父も似たような衝動の持ち主なのかもしれない。(「さまざまな父」)
■感想
壮大な物語の幕開け……! と幕が開いたら、そのままするすると幕を下ろされてしまったような感じです。いや、途中まででも面白いんですよ。登場する人物が奇人変人ばかりで。
「飛ぶ男」ももっと存在を秘されて神秘的に描かれるのかと思いきや、早々に素性も明らかになって、登場人物としての輪郭を獲得します。この辺意外でした。
あ、ちなみにエアとはいえエアライフルはスポーツ・狩猟用なので、許可を受けなければ所持できません。街中で銃身をむき出しで、しかも弾丸が装填された状態で持ち歩いていれば銃刀法違反になるので、護身用には向きません(笑)
ただ猪以上の中型動物以上を仕留めるのは骨が折れるにしても、鳥などの小型鳥獣は仕留められるので、エアとはいえ、馬鹿にできない破壊力をもっています。この弾丸を撃ちこまれた「飛ぶ男」の痛みや推して知るべし、ですね。
なのでこのエアライフルを護身用に持っている小文字も相当にぶっとんだ人物だと想定されます。
ちょっと薄い感想になってしまいましたが。
ぜひ「飛ぶ男」を読む際はゴールドベルグ変奏曲を流しつつ、眠らずに物語の中へとお入りください。
私と一緒に未完成の作品に焦れたいという方は、「飛ぶ男」のページを開いてみるとよいでしょう。
それではまた、次回の読書記録でお会いできることを祈りつつ。